北海道の佐藤牧場、調教師藤井の朝は早い。
ジリジリと鳴り響く目覚ましの音に、軋む身体を鞭打って反応する。
いつものように止めた時計の時間は午前2時半だ。
3月の北海道はまだ肌寒く、袢纏を着込んでも痛いような冷たさは耐え難い。
いつものルーティンのようにストーブに火をつけ、カイロの袋を開けて温め始める。
部屋が温まったら意識も覚醒し、煙草を一服してから仕事をするべく外に向かった。
佐藤牧場の馬は全部で12頭おり、馬の起床時間に合わせて仕事をする。
働いてる人間は調教師の自分と調教助手が四人だ。
一番年の若い調教助手が馬房から馬場に馬を移動させ調教が始まる。
「おはようございます」
「おう」
馬房から出ていく時が一番重要で、出だしの歩様や一歩目の筋肉の動き、そういったものから馬の状態を見極める。
少しでも可笑しければ、馬の体調を疑ったほうがいい。
若いのが馬を馬房から出したら、若い衆が馬と触れ合えるように細々とした雑用を始める。
朝の3時から始まる調教、基本的には調教の様子を見て合間合間に雑用を行う。
寝藁上げというもので馬糞の着いた汚い藁と綺麗な藁を分けて掃除をする。
汚い藁はまとめると大体10kgになり、それを背負っては所定の場所に捨てるのが一連の流れだ。
終わったら新しい藁やウッドチップを敷き詰め、最後に自分の身体で柔らかさを確認して終わりだ。
「おはようございます」
「おう」
別の調教助手がやって来て、同じように馬房から連れ出していく。
同じように、調教を見ては掃除を行う。
この仕事に就いてから変わらぬ、30年も続けた習慣だ。
本来なら厩務員にすべてやらせるのが普通だが、ウチは人も金もないので出来るやつがやっている。
大きな厩舎じゃ攻め専と厩務員がいてもっと楽なんだろうが、ウチは持ち乗りしかいない。
ちなみに攻め専とは調教を専門で行う者であり、持ち乗りは厩務作業も併せて行う者のことだ。
「今日は少し体調が悪いか」
一度に行える調教の数が決まっているので、調教のために馬房から出ていない馬は先に体調管理を行う。
体温を測ったり、直に馬に触って異常がないか確認する。
毛艶からコンディションを見たり、メンタル面に関しては馬の耳や尻尾から把握する。
「食いやすいのがいいな」
その日の馬ごとに十何種類かの飼料の配合比率を変えて、体格や体調に合わせて餌を作る。
チモシーやアルファルファなどの稲や豆科の多年草や、燕麦、フスマ、トウモロコシ、大豆粕、大麦などのミネラルやマグネシウムなどの飼料などがある。
何を与えりゃどうなるかは全部ノートに書いてあるが、馬ごとに体質も違うからそれでいいかどうかは勘という不確かな物を頼らざるをえない。
若い衆にはデータ化とやらをさせながら、一緒にやってみせて教えているが正解なんてないのが常なので、いつも頭を悩ませる。
4時から5時頃になると、最初の調教を終えた馬達が戻ってくる。
戻ってきたら調教後のケアを行う。
負担の掛かった足はチューブと水を使って冷やし、身体に関しては冷やさないようにヒーターで温める。
大きいところでは1度に食事は2回だが、ウチは頭数が少ないからスタッフの負担は増えるが手が回るので1日に4回の食事を与える。
そのうちの1回である、調教後の餌やり用のバケツと餌も準備する。
馬が食事を始めたら後のことは自分がやり、若い衆には別の馬を担当させるのだ。
8時になったら離れた場所にある馬房に向かう。
全体の仕事は9時頃になると終わるので、後の調教から世話までは調教助手に任せる。
そして、ウチの問題児の世話が始まる。
「はよ、ざいまーす」
「コラァ!井上ェ!先輩方、先起きてやってんだ!シャキっとせんか!」
「うっす!さーせん!」
「その舐めた口調直せって言ってんだろ!後で苦労すんのおめぇなんだぞ!」
他の馬と違って、神経が図太いんだか細いんだか分からないメジロレクサスの馬房に向かう。
他の馬が落ち着かなくなるから仕方なくの措置だが、そのせいか物音がするまで睡眠時間の短い馬と思えないくらいメジロレクサスは寝ている。
まぁ、これも馬の個性として思えば熟睡する時間が長いからかレース後の疲労が少ない特徴もあるので、無理に起こすことはしてない。
「最近はどうだ、毛艶は良さそうだが」
「レースに負けたのが分かるのか、隅で前みたいに不貞腐れてますんでメンタルがちょっと」
「まぁ、そういう馬も中にはいる。コイツ、最近は何したがる」
「ウッドチップの周回コースばっか走りたがりますね」
メジロレクサスは、思えば初めから気難しい馬だった。
偏食気味だし、気に食わなければ厩務員を蹴るのは当たり前、調教も気分屋でやりたくなければ暴れ狂う。
他の馬への影響が大きく、メジロ牧場が手放した理由がよく分かる。
だが、初めての調教から他の馬と違うと思わせる何かがあった。
それは血筋が為せる業か、癖馬なのも血筋の影響はあるだろう。
親父のマンハッタンカフェのように心身ともに弱い幼少期を過ごしていたと聞いてるが、初めてのレースを経験して闘争心にでも目覚めたのかそこから我が儘になってしまった。
普通ならそれも含めて矯正していくのが仕事なのだが、それをすると体調を崩すことも分かっている。
必然的に、一番下っ端の井上を専属にして世話する措置を取った。
「負担は弱くなるがハードなトレーニングは気を付けろよ。どれ、肉付きが良くなるようにタンパク質とカロリーが高めの配合にしとくか」
「最近、飽きたのか桃とか食いたがらないんで別のフルーツにしていいすか」
「またか!口だけ一丁前になりやがって、他の馬はそもそも食わせてなんか貰ってないんだぞ。それは別にいいが、糖分のとりすぎだ。虫歯が怖いから歯磨きさせとけ、草だけ食ってりゃならんが、コイツの場合は食いすぎだ」
『おい!何時だと思ってんだ!うるせぇぞ!』
俺達が会話していたのが煩かったのか、メジロレクサスが起き出してくる。
他の馬は日の出ぐらいに起きてるのに、本当に寝ぼすけだ。
『おい、バイト!起きたぞ!あっ、テキおるやんけ!』
「おーう、おはようレクサス。よーしよし」
「俺は餌の準備してくる、体拭いてやれ」
後の世話を任せて、俺は餌を配合しに行った。
餌を作り終えて戻ると、うるせぇ音楽が耳に響く。
他の馬のストレスになりそうな、騒音だ。
離れた場所だからって、騒がしい。
普通逆のはずなのだが、何故かロックを聴かせると調子がいいから許してるが、それにしても音量がデカい。
「コラァ!井上ェ!音漏れしてっぞ!あっ、何マンガ読んでんだ!」
「やべっ、ち、違うっすよ~」
「何が違うんだ!仕事中だぞ、レクサス拭いたのか!」
「そりゃ、お湯で綺麗にしましたよ。これは、アレっす、レクサスが見たがるもんで」
「馬がマンガなんか読めるわけねぇべ!お前の行動見てんだけだ!」
井上は若い衆の中では仕事は出来るのだが、ムラっ気というかサボり癖がある。
やることは一応やるから先輩どもは許してやってるようだが、一応調教師としては管理する立場なので言わなきゃいけねぇ。
「もういい、餌置いとくから食わせたらさっさと調教してこい!」
『飯だ!うっま、うっま!』
「了解です、ってもう食ってるよ……」
午前中はこれで一段落と、午後に備えて軽く仮眠するべく仮眠室へと向かった。
午後になったら事務仕事が始まる。
馬主やスタッフとの打ち合わせ、出走計画と手続きの調整、午後の調教のケア、若い衆との馬の話。
気付けば時刻は夜の8時を迎えようとしている。
「ふぅ……」
あと、何年こんな生活が続けられるだろうか。
軽トラに寄っかかりながら煙草を吹かして、ふと思う。
今まで出会った馬の中で一番成績がよく問題児であるメジロレクサスが頭に浮かぶ。
やはり、どこかで期待しているんだろうか。
おそらくもう今年か来年くらいが限界、通院も増え、飲む薬も増えた。
「おい、純……飯食ってけよ」
「……光太郎か」
さぁ、帰るかといったところで横合いから声がかかった。
杖を着いた爺、同級生の光太郎だ。
「いや、今日は帰る。また今度な」
「何言ってんだ、もう準備させちまったわ!」
「お前、勝手なことしよって……」
「……まだ気にしてるのか?」
不意に、光太郎がそんなことを問うてくる。
気にしてるのか、それは恐らくだが若い衆の愚痴のことだろう。
「気にすんな、俺が良いって言ってんだ」
「気にすんなか、下の意見も聞くのが上司の仕事だろ」
「んなこと言ったって、結果論じゃねぇか」
若い衆の話題といえば、やはりウチの稼ぎ頭であるメジロレクサスのことだ。
メジロレクサスは、まぁ言ってしまえば成績にムラがある。
極端なくらいに勝つ時や勝たない時があるのだ。
探り探りではあったが、調教に関わる人間として言えば、上手くはいってないだろ。
傍からでも一緒に働いている調教助手からしてみれば、それもはっきり見えてくる。
実際に、脚質を見抜けなかったり矯正出来たと思ったスタートの癖が出来てなくて出遅れなんかもやっている。
他にも騎手を落とさないように躾るのにも失敗しているし、何だかんだ若い衆が担当する馬よりも特別扱いしているのはある。
井上に対するやっかみもあるかもしれない、だが全て俺の判断で行っていることだ。
だから、全ては俺の責任だろ。
「実際どうなんだ、転厩とか――」
「馬鹿なこと言うでねぇ!何考えてやがる!」
「そうは言うが、浩一のとこに話ぐらい来てんだろ」
光太郎の夢は知っている。
それこそ自分の資産を投げ売ってまで牧場を始めた理由が、三冠馬の馬主になることだって。
一つの選択肢として、誘いの掛かってる場所があるなら転厩も一考の余地はあるはずだ。
「俺もお前も老いた。もう夢を叶えるのは最後かもしれない」
「降りるのか、俺達で始めたのに」
「俺に拘る必要はねぇんだよ。共倒れなんざ、したくねぇ」
出来るなら関わりたくはある。
だが、設備も人員も人の力量すら足りてないのが実情だ。
縁故なんか切り捨てて、実益を取りに言っても文句は言えない。
「……悪いが転厩はない」
「何で……」
「友達を切り捨てて夢を叶える必要なんてねぇだろうがよ、それにアイツの世話が他所で務まるかってんだ」
「お前……」
「まぁ、決めるのは馬主である浩一なんだがなぁ……」
そう言って笑う光太郎に、呆れて溜息が出た。
そんなの、お前が一言でも言えば変えられる決定だろうに。
「まぁ、そんな弱気になるな。レクサスは、どこか他の馬と違う。それこそ凱旋門賞だって取るかもしれねぇ」
「いや、それは流石に夢見すぎだろ。調子いいやつだな、お前最初はボロクソ言ってたじゃねぇか!」
「言ってねぇわ!お前のせいで身体が冷えてきただろ!さっさと来い!」
「いや、期待すんなって言ってただろ!お前、俺が勝てる馬だって言った時、鼻で笑ったじゃねぇか!」
「うるせぇ!忘れたわ!」