日本ダービー、それはクラシック級およそ7000頭の内、数頭しか出られない日本一とも言われているレース。
一生に一度、同世代の馬達が夢見て、憧れ。
そして数多の傑物がその夢に破れてきた最高峰のレース。
ダービー馬とはその屍の頂点に君臨する者。
「勝っちまったぞ……光太郎……」
そんな頂点に上り詰めた、メジロレクサスが上り詰めたのだ。
だが、そんな幸せも一瞬で崩れ去る。
「藤井さん!」
「んだよぉ、井上……」
「レクサスが!」
開け放たれた扉に、喜びを我慢できなかった井上が来たのかと振り返った。
だが、その先に写った顔は満面の笑みではなく、何かに焦ったような表情。
今、なんて言ったんだ。
レクサス、またアイツが何かして、そうか騎手でも振り落としたんだろう。
そんな風に思いたい反面、尋常じゃない何かを感じて嫌な予感を覚える。
「レクサスに何があった!」
外から、ざわめきが聞こえる。
怒号と悲鳴すら混じった観客の声だ。
予後不良、そんな言葉が頭に過る。
待機している部屋から飛び出てレース場に出れば、そこには無事な姿のメジロレクサスと寄り添う沼添ジョッキーの姿があった。
「良かった」
安堵、最悪の想像は現実ではなかった。
だが、それでも油断はできない状況。
見えるのは馬運車、故障や病気を疾病した馬を乗せる車だ。
レース場の内側にである道を進み、メジロレクサスの近くまで止まれば係りの者が急いで連れて行く。
メジロレクサスは落ち着いた様子、だが……。
「レクサス、足が……」
遠目からでも分かる、不自然な歩き方。
前足をゆっくりと、しかし痛そうに引き摺るようにして不自然なリズムで歩く。
一瞬で色々な状態が浮かんでは消え、最悪の状態を思い浮かべては否定する。
「井上、どうなってる!」
「まだ、分かんないっす!でも、様子が……」
「急いで俺達も行くぞ!」
頼む、無事で居てくれ!
【ダービー1着 メジロレクサス。右前脚に大ダメージで菊花賞回避か】
サラ系3歳 オープン の東京優駿(1日 東京・芝2400メートル)は、メジロドーベル産駒メジロレクサス(牡3歳、北海道・佐藤厩舎)東京優駿(日本ダービー)1着のメジロレクサスはソエ(若馬特有の管骨の痛み)の影響でレース後に搬送。大一番前にわずかな誤算が生じた。
「不幸中の幸いと言いますか、それほど重症ではありませんでした。レース後の状態を確認すると、やはりソエの症状を見せています。歩様が乱れるほどではないものの、両前脚、特に右前脚は症状が悪そうな印象が見られますから無理はしないほうがいいかと思います。馬がかばって脚を動かしたがらないところもあり、次走に関しては馬主と相談しての形になります。ここでお休みして不安を少なくして次走へ向かうことができればと、今は考えています」
やはり三冠の最後のレース、菊花賞(10月26日 京都・芝3000メートル)へと進むのか。
出走に関してはノーコメントであったことから、症状しだいでは優勝候補不在のレースとなるやもしれない。
ソエは人間でいえば成長痛のようなもの。疲労も休養が最高の薬。結局、待つしかない。2歳馬に多い症状だが、決してない訳ではない。また、重症化すれば骨折程ではないがレースの影響は大きく、出走を見送ることも予想される。どの程度かは分からないが、4月中旬段階で藤井調教師は前哨戦を挟まずに皐月賞から日本ダービー挑戦を決定していた。4月以降、徐々に回復したが休養不足だったのか、経験の浅さが仇になったか調整不足なのが伺える。菊花賞までは4カ月余りの休養が出来る。休養予定の函館競馬場にあるリハビリテーションでは温泉などの充実した施設と獣医師を含む多くのスタッフを擁しているので快方に向かえばいいが、今後次第である。
■10の調教より1度の実戦
藤井調教師は「10の調教より1度の実戦」とよく言う。それだけ、実戦を走る効果を重視している。この点を念頭に皐月賞前の調教内容を見ると、既に「勝負はダービー」と腹を決めていたと思える。それでも、皐月賞参戦には重要な意味があった。皐月賞には強敵であるショウナンアルバ、タケミカヅチ、敗因は違っても、3歳三冠第一関門の皐月賞で、強敵との雪辱を果たすには参戦せずにはいられなかった。
皐月賞の次に迎えた日本ダービーでは、スタートは良好、道中から直線まで終始、内柵沿いを回り、直線半ばでやっと進路が開くと伸びたが、既に大勢は決まった後。しかし、そこからの一騎打ちは記憶に新しく2着との差は0秒4差の1着であった。距離的なロスが少なく、内容を低く評価する声もあったが、好位置にいた組が大挙、流れ込んだ展開は明らかに不利で、馬群を抜けられると誰もが思わなかった。藤井調教師も「やはり10の調教より1度の実戦だな」と手応えをつかんだ。
日本ダービーではマイネルチャールズ、ブラックシェルと強敵にもまれた経験がいかに物を言うか。「最も強い馬」で参戦したいところ。
有力馬18頭が参戦となる日本ダービーを初制覇した藤井調教師。
誤解を恐れずにいえば、メジロレクサスにとっての皐月賞は、自身の体調を整え、ライバルとの力関係を測るための「捨てゲーム」だったかもしれない。ダービーはもちろん、牡馬クラシック初勝利の藤井調教師が、目先の勝利を焦らず、大一番にピークを合わせた判断は光る。大レースの日程から逆算して調教スケジュールを決め、それに馬を合わせる調教師や馬主が少なくないからだ。
それゆえに、今回の悲報はファンを騒然とさせた。
期待される歴史上、数頭しかいない三冠馬の誕生。
しかし、どうなるかはこれからの療養次第、メジロレクサスには快方に向かって見事勝利して欲しい物だ。
スポーツ紙のコラムを見て、怒りを露わにしたのは藤井だった。
藤井はスポーツ紙を握りしめ、クソッと悪態を吐きながら地面に叩きつける。
「何が調整不足だ!」
レクサスは回復が早い。
だが、それに甘えて普段通りの調教を行った訳では無い。
むしろ、普段以上に気を使って休養は十分に取った。
アレは、レクサスが限界まで脚を酷使した事に他ならない。
それだけのレースだ、それだけしてなお僅差での勝利、無理をさせる訳がない。
それを、昔のコメントを持ち出して、暗に無茶なレースを行ったからだと言っている風にも取れる記事に腹が立つ。
メジロレクサスのいた馬房を見る。
そこには、薄っすらと灯りが点いていた。
「チッ……」
舌打ち混じりに馬房に向かえば、レクサスがいない馬房を掃除している井上の姿がある。
「こら、井上!朝掃除したばっかだろ!」
「すいません、藤井さん。なんか気になっちゃって」
「残業代なんざ……今は出せるが、身体壊すぞ」
「すいません!でも、俺……アイツがいつ帰ってきてもいいようにしたいんでっ!」
「ったく……」
顔を見れば、憔悴していると見て取れる。
なんやかんや、外野の声に触れてるからだろう。
ネットなんざとかいう、テレビのパチもんみたいなもんに影響を受けるような年頃だ。
顔も分かんねぇ相手に右往左往しやがって……。
「しばらく来なくていい」
「そんなッ!?藤井さん!」
「お前は、手抜きで世話してたのか?」
「そんなことは!でも、俺……気付けたはずなんすよ」
「疲労が溜まってるようには見えなかった、少なくとも責任取るなら俺だ。若駒にはよくあるソエ、昔は赤飯炊いたくらいだ」
浩一も、もう菊花賞は見送ろうなんて言っていた。
俺が拘ってるだけで、無事に走れればいいなんて言って。
そうじゃねぇだろ、そう簡単に諦められるほど三冠馬は安くねぇだろう。
「幸い軽症とは聞いてる。無理なら見送るが、きっと走れる」
「でも……そこまでして走らせる意味はあるんですか……」
「馬と人は話せんから、所詮はエゴや……だから勝手に期待する。でもな、期待されずに消える奴らは掃いて捨てるほどいる世界。育ててる俺達くらい期待したっていいじゃねぇか……」
「藤井さん……」
「まぁ、走れなさそうなら出走させねぇとは言われたけどな」
「藤井さーん、そりゃないですよー」
「うるせぇ!いいから、しばらく来るな。ちゃんと休んでから来い!良いな!」