まだ肌寒い春の頃、早朝の事であった。
その日は、宿直明けと言うこともあって早目に起きて朝の飼い葉を準備する。
時刻は早朝3時12分頃、もう少しで夜も折り返しである。
馬体チェックを済ませた井上は担当の厩務員にチェックした馬を引き渡して、自分の担当するメジロレクサスの下へと向かった。
「ブルルッ」
「おはよう、今日も早起きだな」
井上がやってくると、以前は頻りにポケットを漁ってきたレクサスであったが、最近は少し様子がおかしい。
以前ほど人間味がなくなったというか、馬に人間味ってなんだよとは思うがそういったものがなくなった。
普通の馬のように何度も就寝と起床を繰り返すようになったし、音にも敏感で従順になった。
大人になったとでも言えば良いのか、その奇妙な違和感は日を追うごとに増していく。
「よしよし、いい子だな……体温も問題ないし、身体も異常なしか」
レクサス専用の馬房、そこにはロックが好きなレクサスのためにスピーカーが取り付けられてある。
家電量販店で買ってきたちっさいスピーカー、柱に括り付けただけのお手製のそれだ。
前はロックなどを流していたが、今はモーツァルトなどのクラシックを流している。
曲の趣味が変わったのか、普段のとおりにロックを聴かせてあげたら暴れだした事があったからだ。
一度は普通の馬のように音楽など掛けずに世話をするか、なんて話も上がったがレクサスは何食わぬ顔でポケットの音楽プレイヤーに鼻先をぶつけてくる。
人がイヤホンで音楽を聴いてると、俺にも聴かせろとばかりに興味を示すのだ。
で、流すと暴れるという。
そして行き着いたのが、何故か落ち着いた曲であったクラシックだった。
人間も音楽の趣味が変わるというし、そういうことだろうと言われたがそれも違和感の一つであった。
「今日も見てるのか」
掃除を終えて、レクサスを見る。
レクサスはいつもの癖で、鏡を見ていた。
大きい姿見を、これまた柱に釘で打ち付けたお手製のそれだ。
日曜大工レベルの工作だが、昔の手鏡を針金で括り付けてた頃よりは良いだろう。
そんな鏡をレクサスはボーッと見続けている。
この様子から、みんなは綺麗好きだと言っていたし、事実ボロなどを気にする一面もあった。
だが、それも最近はまったく気にした様子もなく過ごしている。
寝床の近くにあっても気にしなくなった姿に、違う馬を世話している気すら湧いてくる。
また、違和感が積み上がっていく。
「調教に行くぞ」
ハミや鐙など、道具を取り付けるのはすんなりと終わり、馬房からレクサスを連れ出す。
慣れた作業はレクサスらしいと感じる一方で、前みたいに自分で何をしたいと調教に関して口出す様子がなくなった事に違和感を覚える。
ただ指示に従う、昔からの気性の荒さがなくなってセン馬の相手をしているようだ。
だが、何度調べても異常がないことから歳を取って落ち着いたという風になっている。
「次こそ勝てよ」
三冠馬になってから、レクサスの成績は不振の一途を辿っている。
そんなことが世間で囁かれていた。
だが、そもそも新馬戦や未勝利戦がせいぜいだった俺らにとってしてみれば掲示板に入るだけで御の字。
大喜びしているくらいで、今が特段悪いとは感じていない。
騎手を変えろという意見もあるが、1着じゃないだけで弱くはないのだ。
勝つために調教しているから負けては悔しいが、世間ほどレクサスに対して風当たりは強くない。
それがウチの牧場だ。
今は、どこまで行けるか挑戦するだけだった。
前みたいに我が儘で自己主張があって、そして元気に走っていた頃に戻ってきて欲しい。
「ブフゥゥゥ」
「おつかれ、レクサス」
ただ、今のレクサスは本調子じゃないと思ってるのは俺だけなんだろうなぁ。
芝の上を走る姿を見て、誰かの唸るような声が聞こえた。
「妙だな、走り方が……」
厳しい目でそう言ったのは、調教師の藤井だった。
視線は右から左へと駆けていくその姿を追っており、調教が終わってからすぐに呼び出しが掛かる。
「どうしたんですか」
「井上、気づいてるか?」
「えっ?」
話し掛けた相手は藤井の助手である井上だ。
レクサスの調教のために乗っていた井上が呼び出しに応じて、ゆっくりとスピードを緩めてレクサスを寄せてくる。
レクサスは何だ?と首を傾げて此方を見ている。
「う~ん……特に異常はないな、肉付きも骨も爪も悪くねぇ」
「えっ、馬体ですか?藤井さん、特に異常はないっすよ」
「馬鹿野郎、走り方が違うんだよ!」
半人前の厩務員である井上に思わず叱責する。
まぁ、乗っている本人は気付かないだろうし、人から言えば気の所為とも言われるような細かい違いかもしれない。
だが、前と違ってレクサスの走りに変化があったのだ。
前よりも半歩、直線では身体を伸ばすように走っている。
前よりも半歩、コーナーでは小走りになるように歩幅を狭めている。
前者はウオッカのように直線で最高速を維持する長いロングスパートが出来る走りだ。
後者はドリームジャーニーのようにコーナーで加速して小回りの利く走りだ。
「前は曲がる時に減速したり、直線でも最後の方にしか全力を出さなかったのにな」
「あぁ、確かに最近は違和感があるかもしれません」
「どういう心境の変化だ?他の馬の走りでも見て、学んだとでも言うのか?」
言うなれば、走り方は馬自身が自分の体格にあった癖みたいなもんだ。
教えたところで、ハイ分かりましたとやるもんでもない。
足の形や向き、長さなど馬体から適したのは分かるがその通りにやるかどうかは調教次第でもある。
メジロレクサスは、ストライドもピッチも出来るというか、長くも短くないという中途半端な足の形をしている。
どっちも向いてるし、向いてない、器用貧乏みたいな馬体だ。
デカくも小さくもないそんな馬体だったからか、妙に昔から走り方だけはコロコロ変わっていた。
まるで、微調整を繰り返すかのようにだ。
そうして完成した走りが、ここ最近でガラッと変わった。
だが、別に足が痛いとかそういう馬体に異常があるということが原因ではない。
「何だってんだ、わかんねぇ」
あるいは、古馬になってそうした変化から前よりも走れなくなったのか……
天皇賞春、長距離のレース直前に竹は追い切りにやってきた。
陣営からはちょっとした変化がメジロレクサスにあり、自分達では確信できないからと見極めてほしいという言葉を聞いた。
「これは……」
まず始めに思ったのは、癖が抜けてるだった。
調教師の話の通り、走りが変わっている。
前に前に、とにかく進もうとするような走り。
悪く言えば、常に全速力という感じだ。
「どうですか」
「やはり変わってますね」
前とは逆、前は変なところで力を抜いたり掛かったりしていた。
前は何というか、こういう走りがしたいという意志のような物が強く、それとレース展開を絡めるように走っていた。
だが、今は常に全力で走ろうとしていて、まるで逃げや先行馬のようだ。
ただ、数頭の追い切りで抜こうとしたり調教で常に全力になってるだけで、前みたいに前半はサボって後半に全力で走る、みたいな追い切りをしなくなっただけとも言える。
「信頼されたのか?」
前ほどこちらの指示に抗う様子はなく、素直になったとでも言えば良いか。
こちらに全て任せるようになったというか。
上手いこと抑えて、中盤でコース取りに気を使い、後半に走らせられそうではある。
こちらの指示を待って、指示通りに走ろうとするといえばいいか。
前より折り合いは付けられそうだが、まるで別の馬みたいだ。
「次こそ……」
自分で、そう言い聞かせるように呟いた。
ただどこかで騎手に合わさせるようじゃ、馬の実力が出しきれないんじゃ、そんな疑念を抱いてしまった。