そこは、都内某所とよく言う言葉で表せるようなチェーン店の個室だった。
テーブルには2名分の刺身の盛り合わせや、ちょっとした煮物が置いている。
それほどの量はあるが、どれもこれもカロリーは高くないような物だ。
そんな席で、チビチビと鼻腔に香る日本酒の甘い匂いを楽しみながら刺し身を食べている男が一人。
メジロレクサスの騎手、竹豊である。
しばらくすると、待ち人がやってきたのか店員が失礼しますとドアを開ける。
お待たせしました、なんて言いながらその待ち人は向かいの席に座っていた。
「遅いよ、食い物だけ先に頼んじゃった」
「取り敢えず、ビールで」
店員にビールを頼みながら、先に始めるなんてと笑っていたのはドリームジャーニーの騎手、沼添謙一だった。
「ドリームジャーニー、初のG1おめでとう」
「今度は勝ちましたよ、竹さん」
「そうだなぁ……おっ、ビールが来た」
「それじゃ、乾杯」
食事を摂りながら、他愛も無い世間話をする。
だが、やはり同じ職業だからか自然と仕事の話になってしまう。
やれ、こないだのレースはとか、地方ではこういう風な作戦でとか、新しい馬と注目するジョッキー、戦いたい騎手と戦いたくない騎手、そしてポツポツと話題が尽きかけ、食事も終えようとした頃だった。
途中から水に変えていた、沼添が痺れを切らしたかのように重い口を開く。
「そういえば竹さん」
「んあぁ?どうした……」
「天皇賞秋、どうするんですか」
「……あぁ、そうだな」
問いかけに対する返答は、沈黙だった。
何も言わないことに、もう一度問おうかと逡巡したときだ。
手の中で揺れるお猪口がピタッと止まり、くっと一気に中身を飲んでから相手がそれに答える。
「乗り替わり、だな」
「やっぱり、ウオッカですか」
「前から決まっていたってのはある。他の、ジョッキーの名前が上がってるのもあったけど最近の成績を見たんだろうな」
空のお猪口を見つめながら、ポツリと零す。
どういう心情なのか、そこから読み取るには難しい問題だった。
主戦騎手として見られていて嬉しいような、ここでというタイミングで口惜しいような、複雑なところまでは推し量れる。
だが、実際にどう思っているかは本人以外わからないのだ。
「沼添、俺からもいいか」
「……なんでしょう」
「お前、俺が何で呼んだか薄々気付いてるんじゃねぇか」
「そう、かもしれませんね」
沼添も、なんとなく次に何を言われるのか気付いてはいた。
わざわざ、サシで飲みに誘う時点で何かあるというのは誰でも分かることだからだ。
いや、案外普通に飲みたいだけかもしれないなんて思ってはみたが、やはり違う。
「なぁ、もう一度」
「俺は、もうメジロレクサスには乗りません。一度、俺は降りるって決めたんです。それでどの面下げてまた乗せてくれって言うんですか、俺はそれだけの不義理を働いたんです。これはケジメだ」
「そうか……そうだな」
そう言って、手酌で新しい日本酒を入れようとして、中身がないことに気づく。
新しく頼むかとも思ったが、竹はもういいかとそのままお猪口をテーブルに置いた。
置いて、思い出すようにレースを思い浮かべながら喋り始める。
「最初は、中々難しい馬だった。これっていう走りがあって、どんなもんかと教えるつもりで色々試した。ある時、カチッとハマるように教えるつもりが教えられたなんてことがあった。馬に競馬を教えられるってのはこういうことかってな。だが、それでも人気通りに行かないのが競馬って奴だった。馬にだってそれが分かるんだろ、日に日に走りが変わったり、それこそ馬が変わったかのように感じることもある。そんなことあるはずないのにだ」
「そうですね、レクサスはハマる時とハマらない時がある馬ですから」
「だがな、こないだのレースで思っちまったんだ。今日は最高の走りだ、今までで一番馬の調子がいいってな」
「えっ」
こないだのレース、それは宝塚記念である。
惜しくも2着になったレース、1着になった訳ではないのだ。
「そう思っちまったら、違うな。そう思っちまったから、気付いたんだな。俺じゃ、勝たせてやれないってな。馬が全部出し切れてんだ、後は騎手の技量だろ」
「な、何言ってるんですか……最高の走りを、引き出したんでしょ」
「引き出したさ、やってやったさ。だけど、それだけで勝てる世界じゃない。俺達は、馬と一緒に走るんだ。馬だけで走るんじゃない、馬さえ強ければ勝てる筈がないだろ」
「…………」
「俺なら限界まで引き出せるさ、だがな、抜かれる時に思った。お前達の走り、アレはな限界以上の走りだった。最後の力添えは、お前だ。馬はな、一人と一頭で走ってたんだ、それがこないだの勝敗を分けた理由だ」
「だから、もう一度乗れと」
「ドリームジャーニーから降りろって意味でもある。俺が酷いこと言ってるのも分かる。だがな、やっぱりお前には……違うな、メジロレクサスにはお前だって思ったんだ。ありえないことを言ってるのは分かる、だが俺はお前とアイツの全力と戦いたいんだ」
その目は沼添に向けられていた。
だが、当の本人は自分を見ているとは感じなかった。
自分ではない、自分を通してどこか遠くを見ている、そんな気がしたのだ。
「このまま誰が別の奴が乗るか、ドリームジャーニーで挑むのもいいさ。だが、出来れば俺はウオッカとお前が乗ったメジロレクサスに勝ちたい。どうだ、やってくれないか」
「今更、どの面下げて」
「そういうと思って、陣営には口説き落としてくるって言ってんだ。ドリームジャーニーに関しては、俺が謝ってくるさ」
「はは、なんすかそれ、俺が断ったらどうするんですか」
「断るのか?」
「……いや、ズルいっすよ。でも、本気で勝てると思ってるんですか?」
「……お前、世が世なら炎上だぞ。負ける気で挑むやつがあるか、じゃあ」
「乗りますよ。乗せてください。勝ちますよ、天皇賞秋」
「はは、勝つのは俺だぜ。さて、飲み直すか」
「あっ、これ以上は体重に差し障るのでちょっと」
「…………」
「…………」
なんとも締まらないオチだが、しめやかにボタンを押して店員を読んでお会計するのだった。
佐藤牧場、そこは北海道にある零細牧場。
数頭の馬を育成する牧場で、生産牧場のように出産まではやらない。
育成に力を入れていると言えば聞こえは良いが、実際はそこまでお金がないから手が回らないだけである。
地方や中央で走る馬を育てている牧場であったが、今年から建て替えも行われ頭数も増えた。
そんな牧場で爆走した馬がいた、メジロレクサスだった。
『いやぁぁぁほぉぉぉぉ!』
放牧しているはずなのにも関わらず、その馬は柵に沿ってグルリと走り続ける。
さながら、レースのようで、いやレースであった。
なぜなら、その後ろを他の馬が追いかけているからだ。
『俺がスローリー、俺が時代遅れ!だったら、抜いてみろ!』
『は、はやい!』
『うおぉぉぉぉ!』
何があったのか、馬のことは分からない。
人間には馬のことは分からないのだ。
だが、それはそれとして見世物としてはおもしろいのだろう。
メジロレクサスを見に来た人達が、牧場の見学がてら勝手にレースしてる馬達を見てざわめいていた。
もっと、寝転んでるところを想像したのだろう、それが普通だ。
なお、馬主はこれ幸いにと近所の飲食店にマージンをもらいながら出張で出前なんかもやってたりしていた。
商魂逞しいことこの上ない。
そんな、メジロレクサスの夏、あの男が牧場にやってきた。
「えー、なにこれぇ」
『おっ……』
『うわぁ、急に止まらないでくださいよ!』
『ぬ、抜いたぁぁぁ!』
馬主である佐藤に連れられて、懐かしい男がやってくる。
『お、お前!久しぶりじゃないか!』
「あの、なんか、こっち見てません」
「そうかも」
「あっ、あっ、こっち来た!来たっていうか、柵!柵超え、うわぁぁぁ!?」