静寂に包まれた提督室。分厚いマホガニーのデスクに、起案されたばかりの作戦指令書が置かれている。
提督はその文面に細かく目を落とすことはせず、傍らに控える連合艦隊旗艦へ真っ直ぐに視線を向けた。
「――実働の裁量は、すべて君たちに一任する」
短い言葉とともに、提督は迷いのない手つきで朱肉に印を沈め、用紙に重い承認印を叩きつけた。長門が深く頷くのを確認すると、提督はその書類を脇に控えていた吹雪へと無言で手渡す。
受け取った吹雪は、すぐさま提督のデスク脇に据えられた専用端末へと向かった。機密保持のための無骨で重厚な筐体に用紙を滑り込ませると、物理トレイがガシャンと音を立ててそれを呑み込む。
緑色のレーザーが走り、紙のデータが即座に光学スキャンされる。端末の黒い画面に、大本営および統合本部へ向けた幾重もの高度な暗号化コードが滝のように流れ落ちていく。送信完了を告げる短い電子音が鳴った。
この瞬間、作戦の承認データは中央へと叩きつけられ、本海域における作戦統制権と全ての責任が完全にこの司令部へと委ねられたのだ。
「提督。第一作戦室へ御足労をお願いいたします」
長門の静かな声に応じ、提督は席を立つ。先導する長門、後に続く大和と吹雪を伴い、地下中枢へと続く冷たいコンクリートの廊下を進んだ。
重厚な防爆扉で閉ざされた第一作戦室。その前には、冷徹な歩哨として駆逐艦の初霜と初春が微動だにせず立っていた。彼女たちは近づく足音に鋭い視線を向けたが、それが提督と旗艦の姿であると認めるや否や、寸分の狂いもなく姿勢を正し、道を開ける。
吹雪が一歩前に出て、重い扉のハンドルに手を掛けた。
「――提督、入られます!」
凛とした声とともに、金属の軋む音を立てて扉が開け放たれる。
作戦室の内部は、むせ返るような緊迫感と電子機器の排熱の匂いに満ちていた。巨大な海図台の周りには、敵味方の駒を握る軽巡と駆逐艦たち、そして深海の機微を読むアドバイザーの伊168。さらに部屋の奥には、天龍、妙高、赤城、翔鶴が控えている。
扉が開いた瞬間、海図やコンソールに向かっていた彼女たちの動きがピタリと止まった。
椅子を蹴る音、軍靴の踵が床を鳴らす音が一つに重なる。
室内にいた全艦娘が一斉に提督へと向き直り、指先まで張り詰めた完璧な敬礼を捧げた。提督の歩みとともに、作戦室の空気が一段と冷たく、重く引き締まっていく。
提督は無言で歩みを進め、部屋の中央に据えられた最高指揮官席へと深く腰を下ろした。
メインコンソールの冷たいキースイッチを押し込む。重い電子音とともに多重認証がパスされると、壁面を覆う巨大なハイブリッド・ディスプレイが青白い光を放って覚醒した。画面の右上に『LINK ESTABLISHED(大本営回線接続)』の緑色の文字が点灯する。
「――これより状況を開始する」
提督の低く通る声が、作戦室に落ちた。
「作戦は承認された。決行時刻は本日マルマルマルマル(00:00時)。これより前線への急速増援を展開する。指名された駆逐艦および海防艦は直ちに輸送機へ搭乗し、空路にて南方海域へ急行せよ」
鋼鉄の艤装を纏った艦娘をそのまま空路で投射する。一刻の猶予も許されない事態だ。
提督はディスプレイから視線を外し、木製の巨大な海図台を囲む担当たちを見据えた。
「大和。ここからの盤面統括はお前が引き継げ。――シミュレーションを開始する」
「了解しました」
長門の指示に大和が海図台へ歩み出る。長門は壁際に下がり、硬い表情のまま大和の盤面統括に厳しい視線を送った。
その時、盤面の背後から大淀の鋭い声が響いた。
『――大本営よりセキュア通信のアップデート。海上自衛隊のヘリ搭載護衛艦(DDH)一隻が指定海域へ航進中。……しかし、現着予測時刻は本日ヒトヒトマルマル(11:00)。当司令部からの急速増援部隊の到達には間に合いません』
「遅いな」長門の厳しい声が響く。
輸送機で飛んでも、現場上空への降下は早くても朝の08:00。つまり、増援部隊が着水してからDDHが到着するまでの「三時間」、彼女たちは強力な対潜の傘なしで戦わねばならない。
『ただし、現着以後は対潜哨戒ヘリを最大八機連続発艦させ、当該海域の対潜哨戒(ディフェンス)を引き受けるとのこと』
大淀の報告に合わせ、初雪が海図上の「11:00」のラインに味方DDHの予測座標を書き込み、朝潮がヘリ空母を模した木製の駒を置く。
「11時にDDHが到着すれば潮目は完全にこちらへ傾く。現場の五十鈴たちには、その空白の三時間で陣形を維持させろ」
提督の言葉に長門が短く頷く。
「別動隊である強行偵察部隊を敵の懐へ突っ込ませる。大和、まずは敵航空戦力が介入しない前提で、基本ルートの検証(第一シミュレーション)を回せ」
「了解。状況開始」
大和の号令で、大淀が手元の端末を叩く。
『味方前衛、指定海域の敵潜水艦へ爆雷投射。……敵潜水艦、撃沈判定。敵警戒網の第七セクターに、最大四十分の間隙(ブラインド)が発生』
『空いた『穴』を突破し、強行偵察部隊が敵主力域へ突入……第一シミュレート、クリア』
「第一段階は通るな」長門は表情一つ変えずに呟く。だが、盤面を統括する大和の表情もまた氷のように冷たいままだった。
「――条件を変えます(第二シミュレーション)」
大和が極めて冷徹な声で作戦室の空気を縫い留める。
「その『空白の三時間』の間に、奥の深海中枢域から、敵の機動部隊が対潜掃討中の我々の部隊へ航空襲撃をかけた場合の最悪の想定を回します。……状況再開」
大和の言葉と同時、敵側を担当する霞が無表情のまま、無数の「黒い航空機チップ」を海図の上へ滑らせた。
『――敵機動部隊より攻撃隊発艦。マルハチサンマル(08:30)、対潜掃討部隊の上空へ到達』
『味方上空には神鷹、大鷹の両護衛空母の直掩機が滞空。……しかし、両名の航空隊は対潜哨戒(ASW)に特化しており、制空戦闘能力は皆無。敵戦闘機の波状攻撃を受け――味方直掩機、全機撃墜判定。航空優勢(エアカバー)、ロスト』
『上空の蓋を失った味方前衛へ、敵攻撃隊が殺到……シミュレート裁定。前衛の駆逐艦隊に轟沈および大破判定多数発生。戦線は完全に崩壊します』
『第一防衛ライン、ロスト』
初雪の報告の横で、朝潮が唇を噛み締めながら味方の駒を次々と横倒しにしていく。神鷹と大鷹が焼き払われ、五十鈴たちが海の底へ沈む凄惨な未来。当然、強行偵察部隊が通るための穴など開くはずもない。作戦室に痛いほどの沈黙が降りた。
「護衛空母の対潜機だけでは上空から焼き払われるということか。この最悪のタイムラインをへし折るには、敵の空母群を抑え込み、上空のエアカバーを支える戦力が絶対に必要だ」
長門は冷徹な眼差しのまま、作戦室の奥に控える赤城と翔鶴へ告げた。
「強行偵察部隊の編成を弄る。千歳、千代田、瑞鳳の高速軽空母三隻を軸にする」
「ならば、彼女たちのロードアウト(積載編成)を極端に変更します」
赤城が即答した。
「雷撃機や爆撃機は全て降ろし、艦載機を『制空戦闘機』と『偵察機』のみの完全防空・索敵特化に設定。打撃力を捨てる代わりに、絶対的な上空の盾とします」
「強行偵察部隊は先行させず、まずは五十鈴たちの対潜部隊と随伴させましょう」と翔鶴。
「そして敵の潜水網に『穴』が空いた瞬間に、護衛を切り離して一気に敵中枢へ突っ込ませる」
「よし。大和、大淀! 今の条件でもう一度盤面を回せ(第三シミュレーション)!」
長門の号令が響く。霞と朝潮が手際よく海図上の倒れた駒をリセットし、再び盤面を巻き戻す。
『――敵機動部隊より攻撃隊発艦。対潜掃討部隊の上空へ到達』
『迎撃開始。千歳・千代田・瑞鳳の直掩戦闘機群がこれを邀撃』
大淀が手元の端末を凄まじい速度で叩く。
『……シミュレート裁定。味方制空部隊、敵攻撃隊の波状攻撃を阻止。制空権、確保しました。神鷹・大鷹の対潜哨戒機群は健健在。第一防衛ライン、維持されます』
長門の厳しい顔つきは微塵も変わらない。直後、大淀が次のジャッジを下す。
『味方前衛、指定海域の敵潜水艦へ爆雷投射。……撃沈判定。第七セクターに『穴』が発生』
『記録します。敵性マーカー、一つ破棄』
『上空援護を解除。強行偵察部隊、対潜部隊から分離。第七セクターの『穴』を突破し、高速で敵主力域へ突入』
朝潮が、千歳たちを模した味方の駒を素早く押し出す。
「突破ルートは確立した」長門が低く呟く。
だが、盤面を統括する大和は、さらに張り詰めた空気のまま最終確認に入った。
「――最後にもう一つ、第四の想定(シミュレーション)を。突破した強行偵察部隊の前に、敵の『水上打撃部隊』が立ち塞がった場合は?」
大和の言葉に、敵側を担当する霞が、巨大な戦艦と重巡を模した黒い駒を盤面の奥に置こうとした。だが、赤城が即座にそれを制する。
「接敵(エンゲージ)の必要はありません。彼女たちの目的は敵の撃滅ではなく『情報の確保』です」
赤城は海図を指差した。
「強行偵察部隊は各方位へ全域にわたって偵察機を放っています。敵の水上打撃部隊が向かってくれば、砲撃圏内に入る遥か手前で確実に探知できるはずです」
「ああ。敵が近づいてくるのが分かれば、決して相手にはせず、即座に反転して逃げればいい」
長門が断固たる声で言い放つ。
「危なくなったら情報を完全に取れずとも撤退しろ。命を捨ててまでデータを抜く必要はない」
『了解しました』
大淀がキーを叩き、離脱のパラメータを適用する。
『――シミュレート裁定。強行偵察部隊、偵察機により敵水上部隊を早期探知。接敵前に反転し、撤退ルートへ移行。損害ゼロでの完全離脱を確認』
その報告を聞き、大和が海図の最奥部――深海棲艦の中枢域へと視線を向けた。
「偵察機が持ち帰るであろう情報からの予測ですが……現在、敵主力が潜伏していると考えられる有力な地点は、ポイントA、ポイントB、ポイントCの三箇所です」
大和の指が、海図上の三つの海域をトントンと叩く。
「これまでの敵の対潜警戒網の厚さと、航空部隊の飛来方角から逆算した結果、当司令部としては【ポイントB】に敵中枢が存在する可能性が最も高いと予想します」
『――全シミュレーション終了。生存・離脱ルート、および敵中枢(ポイントB)の割り出し完了しました』
大淀が大きく息を吐き、完了を宣言した。
盤面の上には、誰一人として沈むことなく生存ルートを確保した味方の駒があった。
攻撃を捨て、索敵と防空、そして逃げ足に特化する。危なくなれば迷わず逃げる。これこそが、幾重もの検証を経て導き出された最終的な正解だった。
長門は手元のバインダーのメモ用紙に、万年筆で素早く艦名と積載ロードアウトを書き殴った。
そのメモをちぎり取り、提督の視界の端にスッと差し出す。
提督はディスプレイから視線を逸らし、数秒だけメモの文字に目を落とす。意図とリスクを瞬時に天秤にかけ――提督は、小さく一度だけ頷いた。
「これで行こう。この名簿の者たちも、直ちに第一種待機状態(スタンバイ)へ移行させろ」
短い提督の最終裁可が下りる。
長門はメモを引き抜くと、扉の脇で待機していた天龍に向かって鋭く指を鳴らした。
「天龍! これを執務室の武蔵へ届けろ。対象艦へ、偵察機以外のロードアウトをすべて戦闘機に変更させ、出撃準備を通達しろ!」
「了解だ。すぐに行く!」
天龍が重い扉を開け放ち、廊下へと飛び出していく。
入れ替わるように、メインコンソールを監視していた大淀が、ヘッドセットを押さえて鋭い声を上げた。
『――提督。大本営・統合幕僚監部より直電です』
巨大なハイブリッド・ディスプレイに、中央からの最優先コードが点滅する。リアルタイムで同期されていた図上演習の盤面データに対し、回線の向こう側から最終的なジャッジが下されたのだ。
『「本図上演習の推移を随時確認した。当該の戦術機動および部隊編成プランを承認。大本営として異議なし」――とのことです』
その報告を聞き、長門は硬い表情を一切崩さぬまま、静かに口を開いた。
「図演通りだ。中央にも異論を挟む余地はないだろう」
大和の盤面統括力を値踏みするような長門の視線は、最後まで冷徹なままだった。
提督は静かにディスプレイを見据え、作戦室の全要員に向けて言い放つ。
「これより本隊は、マルマルマルマルの決行時刻へ向け、全戦力の出撃準備(フェーズ・ゼロ)へ移行する」
手前で下される死地の決裁と、国家中枢をも納得させる極限の図上演習。
前線と司令部を繋ぐこの巨大な暴力のシステムは、一瞬の停滞も許さず、開戦の時へ向けて冷たく確実に回り続けていた。