「敵主力艦隊、依然として健在。陣形を再構築しつつあります。……『空母棲姫』の姿も確認」
濃霧の向こうから届く索敵報告に、長門は腕を組み、冷え切った海図を睨み据えていた。
旗艦の戦術モニターには、各部隊の損害状況と残存物資のデータが容赦なく表示されている。
神通率いる第二水雷戦隊は、駆逐艦を中心に小破・中破多数。外郭を食い破った金剛たち第一遊撃部隊も、装甲に複数の被弾を抱えている。何より深刻なのは、各艦の燃料と弾薬の残量だった。練度の高い艦娘といえど、腹が空いては戦えない。ゲージは危険水域を示す赤色に染まり始めていた。
長門は奥歯を噛み締めた。
(飛行場を潰し、敵の陣形を乱した『今』なら、大和や武蔵を突っ込ませて強引に押し切れるかもしれない。だが……)
弾薬が底を突いた状態で敵の予想以上の反撃を受ければ、確実に『轟沈(ロスト)』が出る。
総旗艦として、勝利のために部下の命を盤上の駒として使い潰すか。それとも一時撤退し、態勢を立て直すか。しかし、輸送艦『おおすみ』が待つ補給ポイントまでの往復と再編には、約二十四時間を要する。その猶予を与えれば、敵は再び鉄壁の防空網と陣形を構築し、血を吐いて奪った主導権は完全に白紙に戻る。
進むべきか、退くべきか。
極限の静寂の中、長門は深く息を吐き、静かに、しかし断固たる声で命じた。
「……全艦、反転。これ以上の交戦を避け、補給ポイントへ後退する」
「長門さんっ! まだ戦えます!」
通信越しに羽黒が食って掛かるが、長門の意志は揺るがない。
「駄目だ。弾薬も修復も足りていない。輸送艦『おおすみ』との合流ポイントへ向かい、完全補給による再編をかける!」
苦渋の決断だった。敵に背を向ける悔しさを噛み殺し、艦隊は速やかに陣形を反転させ、撤退行動へと移る。
『――長門。状況は把握しています。退避を急いでください』
その時、ノイズ混じりの通信帯域に、市ヶ谷の大本営に詰めている高雄の凛とした声が割り込んだ。
「高雄か。すまない、二十四時間、敵に時間を与えることになる」
『問題ありません。海自のミサイルはジャミングで封じられましたが……空自はまだ降りていません。艦娘側で発光信号や照明弾を上げ、大まかな敵の座標を指し示してください。F-2戦闘機部隊が、雲の上から目視で無誘導爆弾(鉄爆弾)をばら撒きます』
その言葉に、長門はハッと上空を見上げた。
『急降下爆撃のような精密な真似はできませんが、連中が休めない程度の嫌がらせ(ハラスメント)攻撃にはなります。あなたたちが態勢を整えるまでの二十四時間……空自が上から、敵の頭を抑えつけます』
泥臭くも頼もしい自衛隊の意地。長門の口元に、獰猛な笑みが戻った。
「……恩に着る。座標指示、急げ!」
艦娘たちが放つ照明弾が濃霧の向こうを照らし出すと同時、遥か上空の雲の隙間から、無数の自由落下爆弾が降り注いだ。
敵艦隊の周囲で連続して海面が爆発し、巨大な水柱の壁が築かれる。決定打にはならないが、敵の追撃の足を鈍らせ、修復の暇を奪うには十分すぎる援護だった。
空自が命懸けで時間を稼ぐ空を、撤退する空母群の甲板から見上げていた翔鶴と瑞鶴は、沈黙を守っていた。
他の艦娘たちの前では、正規空母らしく毅然とした涼しい顔を保っている。しかし、瑞鶴の握りしめた拳は微かに震え、翔鶴の眼差しには冷たい炎が燻っていた。
最初の航空戦で、敵の直掩機を完全に突破できていれば。敵艦隊そのものに航空攻撃を叩き込めていれば、水上部隊があれほど傷つくことはなかった。自分たちが「引き分け」に甘んじた結果が、これだ。
「……悔しいか、瑞鶴、翔鶴」
背後から掛けられた静かな声に、二人は振り返った。
そこに立っていたのは、予備兵力として後方に温存されていた第一機動部隊の誇り、赤城と加賀だった。彼女たちもまた、撤退の列に加わりながら冷徹な目で戦場を見据えている。
「赤城先輩……」
「機動部隊というのは、機動してこその部隊よ。とくに私たち『艦娘』ならばね」
赤城の言葉は、普段の温和な顔からは想像もつかないほど鋭かった。
「訓練のように、安全な後方から攻撃隊を放って結果だけを待っている時間は終わったわ。航空戦が始まったら、空母自身もどんどん前線へ進み出なさい。打撃を与え、素早く機体を回収し、素早く次を発進させる。物理的な距離を詰めて、手数を限界まで増やすの」
「でも……それだと敵の砲雷撃の射程に入って、空母自体が被弾するリスクが……!」
瑞鶴の反論を、加賀が静かに、だが強い語気で制した。
「あなたたちが訓練したあの子たちを、もっと信じてあげなさい」
加賀は海風に髪を揺らしながら、後方を航行する大鳳や雲龍型三隻へ視線を向けた。
「これは戦争よ。すべてが私たちの望む通りの結果になるわけじゃない。理不尽な反撃も、予期せぬ被害も起こるわ」
加賀の冷徹な眼差しが、翔鶴と瑞鶴を真っ直ぐに射抜く。
「……だけど、この退避時のために、私たちは血を吐くような訓練をしてきたのではないの?」
突き放すような、だが確かな信頼に裏打ちされた先輩からの強烈な発破。
翔鶴と瑞鶴はハッと息を呑み、そして同時に、顔を上げて力強く頷いた。
「……はいっ。次こそは、意地でも連中の防空網を粉砕してみせます」
数時間後、戦域から北上した仮設補給ポイント。
「急いで! 輸送艦『おおすみ』から弾薬とバケツを下ろすわよ! 自衛隊の皆さんも手伝って!」
洋上に展開した補給物資の山を前に、夕張と明石が喉が枯れるほどの声を張り上げていた。
『おおすみ』の巨大なウェル・ドックからLCAC(エアクッション艇)が次々と吐き出され、艦娘用の特殊弾薬や修復材が海上の仮設プラットフォームへと凄まじいスピードで運び込まれていく。
明石自身も、額に汗を浮かべながら補給物資の管理に奔走している。
「二水戦の損傷艦はこっち! バケツを惜しまないで、一気に直すわよ!」
「金剛型の三式弾、徹甲弾の補充ルート確保! 海自のクレーン班、少し急げますか!」
汗と重油に塗れた艦娘たちと、作業服姿の自衛隊員たちが入り乱れ、怒号を交わしながら文字通りの「突貫作業」が進められていた。空自が命懸けで稼いでくれている二十四時間を、一秒たりとも無駄にはできない。
長門は補給を受ける自身の艤装の横で、戦術端末を握り直した。
血を流して得た教訓と、研ぎ澄まされた刃。反撃の時は、すぐそこまで迫っている。