海面を覆う黒煙の向こうで、数え切れないほどの誘爆が重なり、轟音が遅れて砂浜へと届いた。
沖合を赤黒く染めていた無数の火球は、ゆっくりと立ち昇る巨大な黒煙の柱へと形を変えていく。海面を埋め尽くしていた敵艦隊の影は、ものの数分で跡形もなく両断され、灼熱の鉄屑となって蒼海へと没していった。耳をつんざく爆発の余波が、遅れて強烈な海風となって砂浜を撫でていく。
双眼鏡を下ろした有馬少佐は、貼りついたように動かない喉仏を辛うじて動かし、唾を呑み込んだ。
「……これが、一航戦の全力か」
誰に向けたともつかない呟きが、乾いた唇から零れ落ちた。
対空戦の重圧から解き放たれた二航過の矢は、敵の防空網など存在しないかのように急降下し、直撃と轟沈の連鎖を容赦なく叩き込んだのだ。
有馬はゆっくりと、視線を隣へと向けた。
先ほどまで頭上に展開されていた、目に見えぬ防空傘の張り詰めた気配はすでに消え去っている。割烹着姿の女性は、いつの間にか弓を静かに下ろし、身につけた袖を丁寧に直していた。あれだけの迎撃を単身でこなしながら、息一つ乱れていない。胸元に光る軍管区最高位の識別章が、硝煙の混じる潮風に静かに揺れていた。
「状況、終了ですね」
鈴を転がすような、穏やかな声だった。だが、その背後に漂う途方もない威圧感に、有馬麾下の兵たちも銃口を下ろしたまま、息を呑んで立ち尽くしている。
――鳳翔。
有馬の脳裏に、海軍史の原点に刻まれた最古の航空母艦の名が閃いた。すべての艦娘、すべての空母の母であり、厳格なる教官。あの一航戦の二人すら頭が上がらぬ生ける伝説が、なぜ前線の海岸線に単身で立っているのか。
波打ち際から、水煙を上げて滑走してくる二つの影があった。
赤城と加賀だ。
矢筒を背負い、飛行甲板を模した防具を纏った二人は、波打ち際で滑走を止めると、飛沫を上げて陸へと足を踏み入れた。
あれほど冷徹に敵を屠り、一切の感情を表に出さなかった加賀が、割烹着の女性の姿を認めた瞬間、わずかに目を見張り、即座に直立不動の姿勢を取った。赤城もまた、どこか気圧されたように背筋を正す。
「……鳳翔さん」
赤城の口から漏れたのは、第一機動艦隊旗艦としての威厳ではなく、師を仰ぎ見る娘のような声音だった。加賀に至っては、深々と頭を垂れたまま一言も発することができない。
鳳翔は二人へ視線を向けず、静かに有馬の方を振り返った。その澄んだ切れ長の瞳が、有馬の胸元、そして砂浜に展開する陸戦隊の傷だらけの隊列を真っ直ぐに見つめる。
「陸戦隊指揮官殿」
「はっ」
階級上、あるいはそれ以前の圧倒的な存在感に押され、有馬は反射的に背筋を伸ばし、泥にまみれた右手をこめかみへと掲げた。
「後方を完璧に支えていただき、感謝いたします。……街を守るために散った、貴方の部下たちの勇戦、見事でした。彼らが命を賭して時間を稼ぎ、この浜を死守してくださらなければ、この反撃は成立いたしませんでした」
その言葉に、有馬の胸の奥が熱く焼かれた。
市街地で身代わりに爆発を呑み込み、炭化していった部下の横顔が脳裏をよぎる。あの凄惨な犠牲は、決して無駄ではなかったのだ。
「……もったいないお言葉です。我らは任務を果たしたまでにあります」
絞り出すように答えた有馬の言葉に、鳳翔は深く、慈しむように頷いた。
遠く市街地の方角から、空襲警報の解除を告げる長いサイレンが鳴り響く。
「全隊、収容作業を開始! 負傷者を防空壕および後方詰所へ搬送せよ!」
有馬の野太い号令が海岸線に響き渡り、泥と煤にまみれた陸戦隊員たちが駆け出していく。崩れかけた胸壁を越え、担架を抱えた兵たちの列が、市街地へと続く防潮堤の向こうへと消えていった。
そして――男たちの荒い息遣いと砂利を踏む軍靴の音が完全に途絶えた、その瞬間だった。
張り詰めた沈黙を切り裂き、乾いた鋭い破裂音が二度、砂浜に響き渡った。
赤城と加賀の顔が、同時に真横へと弾け飛ぶ。
容赦のない平手打ち。幾多の修羅場を潜り抜けてきた鳳翔の掌から放たれた衝撃に、歴戦の一航戦二人がたたらを踏み、砂を蹴って辛うじて踏みとどまった。赤く腫れ上がった頬からは熱が吹き出し、口の端から滲んだ一筋の血が砂利へと滴り落ちる。
だが、二人は叩かれた頬に触れることすら許されず、即座に直立不動の姿勢へと戻った。見開いた瞳を砂浜の一点に落とし、微動だにせず凍りついている。
先ほどまで陸戦隊の将兵に見せていた柔らかな微笑みは、鳳翔の顔から完全に消え失せていた。
割烹着の袖を静かに戻した佇まいから放たれるのは、底知れぬ氷海のような冷徹な威圧感。眼前に立つ二人の巨艦を、一人の未熟な幼子を見るような、冷厳極まる眼差しで見据えている。
「……何が『上空援護の必要なし』ですか」
低く、静かに紡がれた言葉が、二人の鼓膜を刃物のように刺し貫く。
「敵の陽動に踊らされ、頭上を明け渡し、地上に無用の血を流させた。その無様な失態を棚に上げ、陸の兵の前で格好をつける暇がおありですか、第一航空戦隊」
「……っ」
加賀が奥歯を噛み締め、悔しさに肩をわずかに震わせる。反論の言葉など、一片たりとも存在しなかった。赤城もまた、蒼白になった唇を固く結んだまま、師の怒りを一身に受け止めている。
「守れなかったのですよ、あなたたちは」
鳳翔の声は怒声ですらなく、感情を削ぎ落とした事実の宣告だった。
「防空に手数を取られた? それが言い訳になるとでも思っているのですか。あなたたちが一歩遅れ、一手判断を誤ったその代償として、あの街が焼かれ、名もなき市民が、そして彼ら陸戦隊の兵士が肉の盾となって散っていったのです」
鳳翔の冷徹な指先が、赤城と加賀の胸元の装具をトン、と静かに叩いた。
「自分たちが『最強の一航戦』であるという思い上がりが、その判断を鈍らせた。……そして何より、先輩であるあなたたちのその『甘さ』が、敵主力と戦っているあの子たち――五航戦の決定的な甘さへと繋がっているのです」
五航戦――翔鶴と瑞鶴の名を突きつけられ、二人の背筋に冷たい戦慄が走った。
「敵主力を引き受けているはずのあの子たちも、間もなく戻ってきます。『敵を退けた』『大戦果を挙げた』と、無邪気に胸を張って母港へ帰還することでしょうね。……自分たちが取り逃がした敵機が、この海岸線を、あの市街地をどれほど地獄に変えたかも知らずに」
鳳翔はすっと細めた切れ長の瞳で、遠く煙を上げる街並みと、救護所へと担ぎ込まれていく陸戦隊の隊列を見つめた。
「母港の大広間に、席を設えてあります。……ええ、腕によりをかけましたよ。鯛のお頭付きに、じっくり火を入れた本膳の煮物。誰が見ても『見事な祝勝会』に見える、立派なご馳走を用意して待たせてあります」
その穏やかすぎる言葉の裏に潜む冷酷な意図に、赤城の喉が引き攣るように鳴った。
焦土と化した街の煙が窓の向こうを覆い、運ばれていく負傷者や物言わぬ遺体が眼下に見えるあの部屋で、手の込んだ華やかな料理を前に、戦果に浮かれた五航戦を迎える――それがどれほど残酷で、逃げ場のない処刑台となるか。
「あなたたちが背負わせたこの街の火と煙、そして陸の兵たちの血を……次は、一航戦であるあなたたち自身が、あの子たちにどう教え、どう分からせるのか。私は別室から、静かに見届けさせていただきます」
鳳翔は冷ややかに踵を返すと、波打ち際に停泊する回収艇へと歩き出した。割烹着の裾を潮風に揺らしながら、振り返りもせずに言い放つ。
「戻りますよ。……あの子たちを、冷めないうちのご馳走で出迎えてあげなさい」
その背中を見つめながら、赤城と加賀は互いに視線を交わした。
腫れ上がった頬の痛みが、そのまま自分たちの傲慢への焼印のように熱い。
自分たちの犯した甘さと、地上に流された血の重さ。それをすべて呑み込み、後輩である翔鶴と瑞鶴の前に「先輩」として、そして冷徹な「一航戦」として座らねばならない。
二人は血の味のする唾液を静かに呑み込み、重く、逃れようのない覚悟を胸に宿しながら、歩き出した。