敵主力部隊をほぼ撃滅した部隊が、母港へと帰投した。
参加したのは戦艦の大和、武蔵。
正規空母の翔鶴、瑞鶴。
水雷戦隊として前線を切り拓いた軽巡洋艦・川内、駆逐艦の夕立、綾波。それに追従した白露、時雨、村雨、敷波、浦波の計八隻の水雷部隊である。
煤と硝煙を纏った一行は、作戦完了の報告のため提督室へと入った。
執務机の奥には、提督が深く椅子に腰掛けている。
そのすぐ隣には、初期艦であり秘書艦を務める吹雪が控えていた。
「――以上で作戦行動を終了。敵主力部隊の撃滅を確認いたしました」
大和の凛とした報告が終わると、提督は満足そうに頷き、深く息を吐いた。
「ご苦労だった。見事な戦果だ。詳細な報告書の提出は、皆疲れているだろうから明日でいい。まずは身体を休めてくれ」
「はっ、ありがとうございます」
大和が一礼したところで、机の斜め左前に直立していた長門が、静かに口を開いた。
「横から失礼します、提督」
長門はふっと口元を緩めると、腰の軍刀に手を添えたまま、柔らかな表情で一同を見渡した。
「大和、武蔵。そして水雷戦隊の者たち、よく無事に戻ってきてくれたな。泥を被りながらの奮戦、見事だったぞ」
「ちょっと、長門さん!」
その言葉に、すかさず声を上げたのは瑞鶴だった。腰に手を当て、不満そうに唇を尖らせて長門を見上げる。
「なんで私たち空母の名前を抜かすのよ! 敵の主力空母を叩き落としたの、アタシたち五航戦なんだけど! 完全に無視しないでよね!」
道場のような張り詰めた空気を破る瑞鶴の明るい抗議に、長門は「おっと」というように小さく両手を上げ、苦笑してみせた。
「ああ、すまんすまん。忘れていたわけではないぞ、瑞鶴。お前たち五航戦の働きも見事だった。悪かったな」
「もう、ちゃんと覚えておいてよね!」
からかうように笑う瑞鶴に、室内の空気は一気に和み、駆逐艦たちからもくすくすと忍び笑いが漏れた。長門は優しく目を細め、泥だらけの夕立や綾波たちの前へ歩み寄ると、その頭をぽん、と慈しむように撫でた。
「食堂の方でな、非番の者たちが菓子や軽い食事を用意して待っている。今回は特に、お前たち水雷戦隊の奮戦が大きかったと聞いているからな。まずは泥を落とし、お腹いっぱい食べて休むといい」
「やったー! 夕立、お腹ぺこぺこっぽい!」
「川内さん、早く行きましょう!」
長門の柔らかい声に、駆逐艦たちは緊張を解き、年相応の笑顔を咲かせて駆け出していく。川内も満足そうに一礼し、駆逐艦の子たちの後を追って部屋を出ていった。
どこから見ても、全軍の精神的支柱たる「連合艦隊旗艦・長門」の完璧な姿だった。
だが――机の脇に立つ秘書艦の吹雪だけは、胃の腑を冷たい氷で掴まれたような悪寒に背筋を凍らせていた。
最初の艦娘として誰よりも長く長門の傍らに立ち、その背中を見続けてきた吹雪には分かっていた。長門が本当に機嫌の良いとき、その瞳はわずかに揺れる。だが今の長門の瞳は、笑みの形を作ったまま、底が完全に凍りついていた。腰に差した軍刀の鞘を抑える左手の親指が、白くなるほど強く革を圧迫している。
長門は、静かに沸き立っている。
この鎮守府で、長門のこの「笑みの奥の気配」に気づける者はごくわずかしかいない。同じ痛みを背負ってきた陸奥や金剛、そして空母の赤城や加賀、すべての母である鳳翔――黎明期からこの海を支えてきた古参の艦娘たちだけだった。
吹雪は貼り付けた笑顔を崩さぬまま、喉を強張らせて息を呑んだ。その微かな動揺すら、長門の前では無力だった。
長門は何事もなかったかのように振り返り、残された主力四隻へ視線を向けた。
「翔鶴、瑞鶴。赤城たちが弓道場で待っているそうだ。顔を出してやってくれ」
「はい。失礼いたします」
翔鶴と瑞鶴が一礼して退出する。二人はまだ、自分たちがこれからどのような席へ座らされるのか、露ほども気づいていなかった。
部屋に残されたのは、大和と武蔵。
長門は軍刀の位置を直すと、親しみを込めた声音で二人に告げた。
「大和、武蔵。金剛がな、貴様らを労いたいと紅茶を淹れて待っているそうだ。あいつ自慢の英国紅茶だ、付き合ってやってくれ」
「金剛が? ふっ、ありがたい。喉がカラカラだったところだ」
武蔵が白い歯を見せて笑い、大和も安堵の息を漏らして頷いた。
「では、ついてきてくれ」
長門は静かに提督室の重い扉を開け、二人を促して廊下へと歩み出した。部屋を出る直前、長門の視線がほんの一瞬だけ吹雪を捉えた。底知れぬ静けさを湛えたその眼光に、吹雪は呼吸を止め、ただ小さく頭を下げることしかできなかった。
先頭を行く長門の背中を、大和と武蔵が並んで追う。
廊下を足早に進む長門の前に、角から陸奥が姿を現した。
長門と陸奥は足を止めない。すれ違うその一瞬、短く言葉を交わした。
「陸奥」
「分かっているわ。食堂は任せなさい」
交わした言葉はそれだけだった。大和たちに気取られることもなく、陸奥は煙管を指に挟んだまま、何気ない足取りですれ違っていった。
長門は大和と武蔵を連れ、鎮守府の裏手、鉄と重油の臭気が漂う工廠の敷地へと降りていった。
冷たい海風が吹き抜ける、鬱蒼とした木々に囲まれた裏庭の空き地。
周囲の要所には比叡、榛名、霧島の三人が等間隔で立ち、工廠の裏手へ続く通路に背を向け、外側を無言で見張っていた。誰一人として普段の明るい声を漏らさず、近づく者の気配を完全に遮断するための布陣を敷いている。
空き地の中央、冷たい敷石の上には丸テーブルが据えられていた。
そこには金剛がいた。いつもの軽快な調子は微塵もなく、無言のままポットを傾け、整然と並べられた四人分のティーカップへ、静かに湯気を立てる紅茶を注ぎ分けている。
そのすぐ隣、木陰に置かれた小さな長椅子には、扶桑と山城が腰掛けていた。
二人は揃いの着物の裾を揃え、目を伏せたまま、湯呑みならぬ磁器のカップを無言で口元へと運んでいる。山城の足元には、無造作に置かれた鉄製の修復バケツが、鈍い鉄色の光を反射していた。
白いクロスに湯気の立つティーセット、静かに茶を喫する姉妹たち。
切り取られた光景だけを見れば、前線の労をねぎらう優雅な野外の茶会にしか見えない。
だが、その場に漂っているのは団欒の温もりではなく、肌を刺すような冷気と、沈黙の重圧だった。誰一人として言葉を発さず、視線すら交わさない。一見して平穏でありながら、その実、極限まで張り詰めた異様な空気が敷地全体を押し包んでいた。
その中央へ向けて、長門は軍靴を鳴らして歩みを進めた。
テーブルの前で立ち止まり、ゆっくりと振り返る。
顔から、笑みが完全に削ぎ落とされていた。
残ったのは、幾千の死線を潜り抜け、守るべきものを守れなかった悔恨をその身に焼き付けてきた、旧式戦艦の冷徹な仮面だけだった。
長門の右手は、腰の軍刀の柄へと、無音のまま静かに添えられていた。