裏庭の空き地を、鉄錆混じりの冷たい海風が撫でていく。
木々に囲まれた閉ざされた空間のなか、長門は四人掛けの丸テーブルの前に立ち、無言のまま大和と武蔵を見据えていた。腰の軍刀の柄に添えられた右手は、微動だにしない。
比叡、榛名、霧島が周囲に通路へ背を向けて立ち、誰一人としてこちらを見ようとしない。中央のテーブルの前では、金剛が静かに湯気の立つ紅茶をカップへと注いでいた。
木陰のベンチに腰掛けた扶桑と山城は、ただ黙って二人を見ていた。
その異様な空気を感じ取りながらも、武蔵は肩をすくめ、不敵な笑みを浮かべた。
「おいおい……茶会にしちゃあ、ずいぶんと物々しい歓迎じゃないか」
武蔵の尊大な声が、静まり返った敷地に響いた。
すると、テーブルの前でティーポットを置いた金剛が、ふっと喉を鳴らして笑った。いつもの甲高い陽気さは欠片もない。ただ冷たく、小馬鹿にしたような嘲笑だった。
「敗北者が、何を言っているのですか?」
「……何だと?」
武蔵の眉が跳ね上がる。大和もまた、怪訝そうに眉をひそめた。
「武蔵」
重く、低い声が空気を切り裂いた。
長門だった。笑みは完全に消え失せ、その双眸は深淵のように暗い。
「楽しかったか」
「……何の話だ」
「戦艦同士で撃ち合い、巨砲を撃ち込み、殴り合って――さぞ楽しかっただろう、と聞いているのだ」
長門の双眸に射すくめられながらも、武蔵は傲然と胸を張った。敵との砲撃戦を制した自負が、その全身に満ち満ちていた。武蔵は獰猛に白い歯を剥き出し、言い放った。
「ああ、楽しかったさ!」
その言葉の語尾が空気に溶けきるよりも速かった。
銀閃が一文字に走った。
抜刀の音すら遅れて届くほどの神速だった。
扶桑から受け継がれた軍刀の刃が、光を吸って宙を切り裂く。
次の瞬間、武蔵の左肩から先が、骨ごと断ち割られて宙を舞った。
「が――ッ!?」
敷石の上に、鈍い音を立てて肉塊が転がる。
断面から噴き出した鮮血が、白いテーブルクロスと敷石を赤黒く染め上げた。武蔵は切断された左肩を右手で押さえ、がくりと膝を折った。肺の底から搾り出されるような呻き声が漏れる。
長門は刀身に血糊を帯びさせたまま、武蔵の横に直立する大和へと、氷の切っ先を向けた。
「大和」
足元で妹が血溜まりに伏し、激痛に呻いていても、大和は視線を逸らさなかった。瞳の奥に張り詰めた光を宿し、直立不動の姿勢を崩さず、長門の切っ先を正面から見据え返す。
「貴様らに、金剛の言った『敗北者』の意味が分かるか」
「――分かりません」
大和の声は、微塵も震えていなかった。
敵主力部隊を灰燼に帰し、勝利をもたらした連合艦隊の象徴としての誇りが、その硬質な声音に宿っていた。
「我々は敵主力を撃滅し、完全な勝利を収めて帰投しました。敗北者と呼ばれる謂れなど、微塵もございません」
長門の切っ先は、1ミリも揺れない。
「ならば問う。旗艦としての責務を、全て全うしたと言い切れるか」
「はい」
大和は一切の躊躇なく、即座に言い放った。
「戦場における責務は、全て全ういたしました」
大和の揺るぎない眼光を受け止め、長門は静かに息を吐いた。
その瞳の奥にある絶対零度の冷気が、わずかに沈む。
「ならば――何も分かっていない」
再び、刃が奔った。
躊躇も、情けも、何一つ介在しない一閃。
大和の誇りを乗せた視界が一瞬で白く爆ぜ、次の瞬間、大和の左腕が肩口から綺麗に斬り落とされ、敷石の上へと叩きつけられていた。
「――ッ!」
大和の喉から、押し殺した短い絶叫が漏れた。
左肩から噴き出した鮮血が敷石を叩き、激痛のあまり体が激しく揺らぐ。大和は膝を折りかけながらも、辛うじて残された右足に力を込め、血溜まりの中に片膝だけをついて踏みとどまった。右手が本能的に、失われた左肩の断面を固く押さえる。指の隙間から、止めどなく赤い熱が溢れ出していた。
武蔵は血の海に伏したまま、肩で荒い息を吐き、血刀を提げた長門を爛々と睨みつけている。
長門は刀を振るうこともせず、血に濡れた切っ先を二人の間に垂らしたまま、氷のように硬い眼差しで見下ろした。
「ならば問う。連合艦隊旗艦とは、何だ」
重く、低い問いが、裏庭の冷気の中に落ちる。
「……っ」
大和の唇が震えた。激痛に耐え、長門を見上げようとするが、喉が引き攣れて言葉が出てこない。武蔵もまた、血を吐き出すように歯を食いしばるだけで、声を発することができなかった。二人の巨艦は、滴る己の血の音を聞きながら、沈黙に囚われていた。
長門はその沈黙を、情け容赦なく踏み躙った。
「答えられぬか。ならば教えてやる。貴様らが敵の巨艦と砲撃戦を演じ、己の武勇に酔い痴れていたその背後で――何が起きたか」
長門の声音には、怒気すら混じっていなかった。ただ、鉛を流し込むような冷徹な事実だけが告げられる。
「貴様らが索敵を怠り、撃ち漏らした敵の残余が、防空の網をすり抜けて背後の沿岸都市を空襲した。防空壕の隙間を機銃で薙ぎ払われ、火の海の中で、何人もの民が焼き殺されたのだ」
大和の瞳が、見開かれた。
武蔵の呼吸が、一瞬止まる。
「貴様らは敵の主力部隊を叩き潰したと誇ったな。だが、前哨の敵を逃し、背後を焼かれ、民を盾にして得た勝利など――戦場においての『完全な敗北』以外の何物でもない」
長門は一歩、踏み出した。
軍靴が、二人の流した血を踏みしめる。
「戦艦とは何だ。ただ敵を屠るためだけに作られた、巨大な鉄塊か? 違う。戦艦とは、この国の威信そのものであり、背後の民をあらゆる災厄から護り抜く最後の防波堤、すなわち絶対の守護者だ」
長門は軍刀を握り直すと、刃を反転させ、鈍く厚い峰を露わにした。
「我が背後に立つ民に、一兵に、一人たりとも血を流す者を出したならば、どれほど敵を灰燼に帰そうと、その戦いは万死に値する恥辱なのだ。守るべきものを守れず、のうのうと凱旋して戦果を誇った貴様らには――前の記憶がないのかッ!」
怒号とともに、鋼の峰が叩きつけられた。
鈍い打擲音が炸裂した。
容赦のない一撃が、大和の断ち割られた左肩の根元へ叩き込まれる。
「あ、が――ッ!?」
傷口の骨と剥き出しの神経を鉄塊で圧し折られるような激痛に、大和の全身が跳ね、血溜まりの中へと無様に崩れ落ちた。続いて身を翻した長門の刀が、伏す武蔵の背と肩口を情け容赦なく打ち据える。
ゴキリ、と鈍い衝撃が武蔵の肉体を敷石へ縫い止めた。
「ぐ、う……ッ!」
武蔵の口から赤黒い血塊が吐き散らされ、喉の奥から獣のような呻きが漏れる。
「民を見殺しにして国を滅ぼし、海底で泥を啜ったあの屈辱を忘れたか。二度と同じ轍を踏まぬために、何のために今この肉体を与えられているのか……その頭に、骨の芯まで叩き込め」
長門は見下ろしたまま、血糊の付いた峰を静かに引き戻した。
二人の巨艦は敷石に顔を歪めて伏し、失われた腕の傷口と峰打ちの激痛に震えながら、もはや言い返す言葉の一片すら失っていた。
荒い息の音だけが、血の臭気とともに裏庭の冷気へ溶けていく。
長門が峰を引くと同時に、木陰のベンチから山城が静かに立ち上がった。
ベンチに残る姉の扶桑は、目を伏せることも、視線を逸らすこともなく、ただ静かにその凄惨な光景を見守り続けていた。山城は足元に置かれていた鉄製の修復バケツを無造作に提げ、軍靴の音を響かせて二人の前へと歩み寄った。
その表情には同情も嫌悪もなく、ただ淡々と作業をこなす工廠の技工のような無機質さだけがあった。
山城は敷石に転がる大和の左腕を拾い上げると、血に塗れた大和の肩の切断面へと無造作に押し当てた。そして、バケツを傾け、中から粘度のある青白い液体を傷口へ直接注ぎかける。
じゅ、と肉の焼けるような鋭い蒸気音が上がった。
「――っ、ぐ……!」
大和が歯を砕けんばかりに食いしばり、背を反らせる。
切断された筋肉と血管が生き物のように蠢き、瞬く間に引き合って皮膚が縫合されていく。
本来、工廠の入渠設備の中で注がれれば、高速修復材は数分で激痛すら消し去り、完全な回復をもたらす奇跡の水だ。だが、設備の整わぬ野外でただ浴びせかけるような雑な処置では、肉と骨を強引に繋ぎ止める最低限の応急手当にしかならない。神経の芯を灼くような激痛は、正規のドックに身を沈めるまで決して消えはしなかった。
山城は大和から視線を外すと、同じように武蔵の腕を拾い上げ、傷口に押し当てて残りの修復材を浴びせかけた。
「う、ぐあぁッ……!」
武蔵の巨躯が跳ね、血溜まりを叩く。
同様に左腕は瞬時に接合されたが、武蔵の全身から止めどなく脂汗が吹き出し、呼吸は浅く乱れ切っていた。
山城は空になったバケツを手に提げ、一言も発することなく踵を返してベンチの横へと戻っていった。
静寂が戻った裏庭で、長門は軍刀をゆっくりと鞘へと収めた。
カチリ、と静まり返った敷地に鯉口の嵌まる硬い音が響く。
「立て、大和。武蔵」
長門の声は、最初と変わらぬ絶対零度に戻っていた。
「血を拭い、制服を整えろ。これから食堂へ行く」
大和と武蔵は、骨の奥で暴れ狂う激痛に耐え、脂汗を垂らしながら、辛うじて敷石の上に立ち上がった。繋がったばかりの左腕は鉛のように重く、指先が微かに痙攣している。
長門は振り返りもせず、二人に背を向けたまま告げた。
「食堂には、お前たちが守るべきだった水雷戦隊の子供たちが待っている。あの子たちに、貴様らの背負った血の匂いも、痛みの気配も一切悟らせるな」
長門が冷たく横顔を向ける。その瞳には、一切の妥協を許さぬ旗艦の光が宿っていた。
「笑顔を作れ。子供たちの前で眉一つでも動かしてみろ。その時は、もう片方の腕を叩き落とす」
大和は激痛に引き攣りそうになる唇を必死に噛み殺し、背筋を伸ばした。
武蔵もまた、荒い息を喉の奥で呑み込み、無理やり口元を釣り上げる。
戦場での甘い勝利に酔い痴れた巨艦二隻に下されたのは、肉を断たれた痛みよりも遥かに過酷な、己の不覚を笑みの下に隠し通すという「旗艦の禊」だった。
長門を先頭に、三隻の戦艦は、子供たちの明るい笑い声が待つ食堂へと歩み出した。