長門を先頭に、三隻の戦艦は、駆逐艦たちの明るい笑い声が待つ食堂へと歩み出した。
工廠へと続く薄暗い渡り廊下を、三つの軍靴の音が等間隔で踏みしめていく。
大和と武蔵は、接合されたばかりの左肩の奥から骨を灼くように突き上げてくる激痛に、奥歯を噛み砕かんばかりに耐えながら、前を行く長門の背を追っていた。脂汗が額から顎へと伝い落ちる。
先頭を行く長門は、前を見据えたまま、低く静かな声で口を開いた。
「この軍刀はな。この鎮守府に連合艦隊旗艦という役職が設けられた際、提督から直々に下賜された一振りだ」
長門の左手が、腰に佩いた刀の鞘を軽く叩いた。乾いた音が薄暗い廊下に響く。
「公式の記録では、最初に拝受したのは私ということになっている。だが、実際は違う。私はすぐには受け取らなかった。……一日目は金剛が帯び、二日目は扶桑が帯び、三日目にようやく私が腰に差した」
大和が痛みに濁る視界を上げ、長門の背中を見つめた。
「空母の鳳翔、重巡の妙高……人格にせよ統率にせよ、旗艦の証たるこの刀を持つ資格のある者は、戦艦の他にもいる。だが、艦娘の間には一つの暗黙の了解がある。『この刀を佩く資格があるのは、戦艦だけだ』とな。その意味が分かるか」
二人は答えない。激痛で乱れる呼吸を抑え込むだけで精一杯だった。
「最も厚い装甲を持ち、最も巨大な火力を誇る者が、最も重い泥と全軍の敗北の責を背負わねばならんからだ。いざという時、背後のすべてを守る防波堤となり、失敗した時はその巨躯をもって落とし前をつける……それが戦艦という艦種の存在理由だからだ」
長門はわずかに足を緩め、振り返ることなく、自嘲するように口元を歪めた。
「私もな、この刀を受け取った初陣の折、貴様たちと同じ慢心を抱いて同じミスを犯した。……金剛に首を切り落とされたよ。艦娘とは因果なものだな。首を刎ねられてすら、バケツの薬液を浴びせられれば死ぬことすら許されず、首を繋がれて生かされる」
長門の淡々とした告白に、大和と武蔵の息が止まった。
その時、二人は気づいた。
前を行く長門の背筋は完璧に伸びているが、その両肩――軍服の肩口の布地が左右ともに微かに強張り、奥底で骨の軋む激痛を必死に押し殺しているという事実に。
「今回の作戦で民を焼かせた最大の元凶は、索敵の初動指揮を見誤った連合艦隊旗艦――この私だ。だが、今の私は死ぬわけにはいかん。背負うべき責任がまだ残っているからな」
長門は淡々と告げた。
「だから私は――お前たちが戻ってくる前に、陸奥に両肩を切らせた。今の貴様たちと同じようにな」
大和の喉が、引き攣るように鳴った。
武蔵の瞳が、驚愕に見開かれる。
自分たちが母港へ凱旋し、戦果に酔い痴れて戻ってくるより前に、長門はすでに自ら両肩を断たせ、その激痛を押し殺して自分たちを出迎えていたのだ。
「旗艦とは、それほどまでに重く、汚辱に満ちたものだ」
長門が足を止めた。
目の前には、食堂へと続く重い両開きの木製扉があった。扉の向こうからは、食器やグラスの触れ合う音と、賑やかな笑い声が漏れ聞こえてくる。
長門は振り返り、大和と武蔵の顔を鋭く見据えた。
「行くぞ。……笑え。駆逐艦たちの前で眉一つでも動かしてみろ。その時は、もう片方の腕を叩き落とす」
長門が扉に手をかけ、押し開いた。
本来は軽食とお菓子でささやかに労をねぎらうはずの集まりだった。だが、給養艦の間宮が腕によりをかけて張り切った結果、卓上には色とりどりの大皿料理や豪勢な甘味がずらりと並び、立食パーティー形式の華やかな宴席へと仕立て上げられていた。
長門、大和、武蔵の三隻が姿を現した瞬間、卓を囲んでいた水雷戦隊の駆逐艦たちが一斉に顔を輝かせた。
「あ、大和さん! 武蔵さんも!」
「お疲れさまでした! 敵の主力、全滅させたんですよね!?」
無邪気な駆逐艦たちが小皿を手に駆け寄ってきて、屈託のない笑顔と憧れの視線を向けてくる。
大和は激痛で引き裂かれそうになる神経の芯を必死に押し殺し、完璧な聖母のような笑みを口元に貼り付けた。武蔵もまた、両断された肩から噴き出しそうになる呻きを喉の奥へ押し戻し、いつもの豪快な笑い顔を作って駆逐艦たちへ軽く顎を引いてみせた。
「ええ……。みんなの留守を、しっかり守ってくれてありがとう」
大和の声は、微塵も震えていなかった。
だが、壁沿いのテーブルの空気はまるで違っていた。
巡洋艦たちが、静かに手を止めている。漂う微かな鉄錆の臭気と、巨艦たちの不自然な肩の強張り。
隣でサンドイッチをつまんでいた川内の手が、ふと止まる。その横で、神通は両手で湯呑みを包んだまま、微動だにせず大和たちの左腕を見据えていた。
そこへ、空になったグラスを片手に、天龍がふらりと通りかかった。
天龍は長門たちに一瞥もくれず、神通の背後を通り過ぎる際、足を止めることもなく低く呟いた。
「……おい、神通」
神通は動かない。
「あんまり訓練、きつくすんなよ」
それだけ吐き捨てると、天龍は振り返りもせず去っていった。
神通は静かに目を伏せ、ことりと、音もなく湯呑みを卓上に置いた。
その直後、金剛たち戦艦群がやってきた。一気に場が華やかになる。
続いて赤城や加賀をはじめ、空母たちもやってきた。
弓道場での問いを終えた瑞鶴と翔鶴の肉体には、戦艦のような傷も痛みもない。瑞鶴はからりとした快活な声で駆逐艦たちの輪へ飛び込み、翔鶴も柔らかな笑みを湛えてその頭を撫でていた。だが、屈託なく応対する二人の涼やかな瞳の奥には、空母の宿命を引き受けた者だけが宿す、揺るぎない覚悟と冷徹な決意が確かに灯っていた。
その喧騒から離れた食堂の最奥、薄暗い壁際の席に、長門は深く腰を下ろしていた。
卓上の平皿から、白い粉を吹いた大福を右手で無造作に掴み上げる。両肩を両断された激痛を殺し切るため、焼き切れそうな脳が猛烈に糖分を欲していた。
口へ放り込もうとした瞬間、卓の向かいに音もなく影が落ちた。
湯呑みを手にした鳳翔が、いつの間にか立っていた。
母港の裏庭で何が執行されたのか、そのすべてを最初から見通している目だった。鳳翔はいたずらっぽく目を細めると、くすりと喉を鳴らして、からかうように笑いかけてきた。
「ふふ……戦艦は、随分野蛮ですね」
どこか面白がるような、軽やかな声だった。
長門は大福を口へ放り込み、無骨に噛み潰して喉へと流し込んだ。そして、低く濁った息を吐き出しながら、正面の鳳翔を睨み返す。
「旗艦とは、全軍の敗北も泥も、すべての責任を背負い込むものだからな。……この程度の痛みで音を上げるなら、最初から旗艦など務まらん」
長門の憎まれ口に、鳳翔はまた楽しそうに笑みを深くした。
「そうですね。……ほら、駆逐艦たちも、いい顔をしていますよ」
鳳翔が視線の先を向けたフロアの中央では、駆逐艦たちの無垢な笑顔に囲まれ、骨の芯を灼くような激痛に脂汗を滲ませながら、人生で最も過酷な笑みを貼り付け続ける大和と武蔵の姿があった。
その時、重なる足音が近づいてきた。
空母の赤城が静かに歩み寄り、長門の向かい、鳳翔の隣の空席へと音もなく腰を下ろした。その数歩後ろ、少し離れた壁際には加賀が音もなく立ち、腕を組んだまま冷徹な眼差しをフロアの中央へと向けている。重巡を束ねる妙高と、先ほどグラスを置いた天龍も卓の脇へと集まってきた。
そして卓の一角には、提督の秘書艦を務め、この鎮守府の始まりの艦娘たる吹雪が、静かに腰を下ろしていた。
少し離れた場所では、第二水雷戦隊旗艦の神通と、その麾下で駆逐隊長を務める陽炎が、大人の会話が聞こえるか聞こえないかの絶妙な間合いへと、さりげなく足を進めて佇んでいた。フロアの歓談に混ざるでもなく、かといって幹部たちの輪に踏み込むでもなく、二人は静かにその気配を窺っている。
「……長門さん」
妙高が、フロアで脂汗を滲ませながら笑みを貼り付けている大和と武蔵を見やり、硬い声で口を開いた。
「左腕の切断……現場の引き締めとしては、少々劇薬が過ぎるのではなくて? 次鋒たる大和型を、精神から叩き折る気ですか」
「折れるようなら、最初から戦艦の看板を下ろせばいい」
長門は大福の白い粉を指先で払い、淡々と吐き捨てた。
卓の端に腰を預けた天龍が、低く鼻を鳴らす。
「腕を叩き落とすだけならまだしも、あの激痛を隠して駆逐どもの相手をさせるたぁな。……相変わらず、えげつねェ落とし前だぜ」
赤城は口を開かず、ただ静かに湯呑みから立ち上る湯気を見つめている。
長門は視線を上げ、卓を挟んで座る吹雪へ、低く濁った声を投げかけた。
「吹雪」
「はい」
吹雪は座ったまま背筋を正し、長門の視線を受け止めた。
「旗艦の仕事とは何だ」
突然の問いに、吹雪は呼吸を整え、研ぎ澄まされた声を返した。
「……全艦を統率し、部隊を勝利へ導くことです」
「違うな」
長門は冷徹に言い切った。
「旗艦の真の役割はただ一つ。全艦娘を沈めてでも、深海棲艦を完全絶滅させることだ。二度と奴らをこの世に現れさせぬよう、根絶やしにして消し去ること……それこそが艦娘としての旗艦の役割だ」
吹雪の眉がわずかに動いた。壁際で腕を組む加賀の瞳が微かに細められ、間合いを測って佇む神通と陽炎の背筋が、無言のまま張り詰める。
「だがな、深海棲艦との総力決戦――すべてを賭けて刺し違えるその日は、まだ来ていない。それまでの間、我らに許されているのはただ一つ。どれほど恥を晒そうが、血反吐を吐こうが、這いつくばってでも生き延びて、背後のすべてを守り抜くことだけだ」
長門は両断された己の両肩を微かに軋ませ、静かに言葉を継いだ。
「戦火のなかで民が焼け、兵が死ぬ。冷徹な戦術論で言えば、作戦上の『許容範囲の損失』と片付けることもできるだろう。……だがな。それを最初から『仕方のない犠牲』と割り切り、痛みを麻痺させて戦うようになったら、鉄の塊から人のかたちへ生まれ変わった我らの生きる意味など、何処にも残らん」
長門の鋭い眼光が、正面の吹雪を射抜いた。
「だからこそ、あいつらには身を灼く痛みを刻み込ませた。……そして明日、あの二隻と、瑞鶴、翔鶴を連れて海岸線の被災都市へ行け」
「……被災都市、ですか」
「そうだ。自分たちが初動を見誤り、焼き払わせた街だ。そこで、瓦礫のなかから生き残った市民たちから、心からの感謝と花束を受け取ってこい」
長門は冷たく、酷薄に言い放った。
「罵倒され、石を投げられる方がよほど楽だろうよ。だが、何も知らない市民たちからの温かな感謝ほど、あの者たちの骨の髄を焼き、魂を抉る罰はあるまい。……それこそが、旗艦の背負うべき本当の泥だ」