黒煙の燻り続ける海岸線の都市へ、巡航速度を落とした内火艇が滑り込んだ。
灰色のコンクリートが剥き出しになった桟橋に降り立ったのは、大和、武蔵、翔鶴、瑞鶴、そして引率役として同行した秘書艦・吹雪の五隻だった。
海風が吹くたび、焦げた建材と濡れた灰の饐えた臭気が鼻腔を突く。防波堤はへし折れ、遠くに見える市街地は黒く焼け爛れていた。
桟橋の先には、煤で汚れた背広を着た市長と、数名の市職員が待っていた。
市長は艦娘たちの姿を認めるや否や、擦り切れた革靴を急がせて駆け寄り、深々と腰を折った。その手には、瓦礫の隙間に奇跡的に咲き残っていた野花を束ねた、泥の跳ねた花束が握られていた。
「艦娘の皆様……! よくぞ、よくぞ駆けつけてくださいました!」
市長の目から、大粒の涙が零れ落ちる。
「敵の空襲が始まってからのあの地獄のような一時間……街中が火の海になり、一時はすべてが終わったと思いました。ですが、駆けつけてくださった陸戦隊の皆様の命がけの防空と、沖合で敵主力を叩いてくださった皆様のおかげです。あれほどの猛爆撃を受けながら……市民の犠牲は、沖に出ていた漁船の被害をすべて合わせても、十数名にとどまりました。十数名で済んだのです……! 本当に、本当にありがとうございました!」
市長は震える両手で、大和へと花束を差し出した。
『十数名で済んだ』――。
都市を焼き尽くすほどの熾烈な一時間の空襲において、死者十数名という数字は、戦術的には奇跡的な大勝利であり、防衛成功の勲章そのものだった。作戦上の損害評価であれば、誰もが「軽微な許容範囲」として片付ける数字。
だが、大和の喉が一瞬、引き攣るように強張った。
初動を見誤らず、慢心なく索敵網を敷いていれば、その十数名すら誰一人として死ぬ必要はなかった。ゼロにできたはずの命だった。
その「十数名」という数字の残酷さが、剥き出しの刃となって四隻の胸の真ん中へ突き刺さる。
大和は一切の躊躇を見せず、接合されたばかりの左腕を前に伸ばした。
激痛が肩から首筋、背骨へと稲妻のように走り抜ける。軍服の布地の下で、筋肉が悲鳴を上げて引き攣った。だが、大和の口元には微塵の歪みもなく、慈愛に満ちた完璧な笑みが張り付いていた。
武蔵もまた、骨の軋む左手を添え、大和と共に花束を抱き留めた。
「市民の皆様のご無事こそ、私たちの誇りです」
大和の声は、どこまでも澄み渡っていた。
「すまない」という謝罪も、「私たちの初動が遅れた」という真実も、軍規において、そして目の前で涙を流す市長の尊厳のために、口にすることは絶対に許されない。
二隻の巨艦は、数百グラムの花束に込められた感謝の重みに、ただ直立不動のまま耐え続けた。
市長たちとの形式的な対話を終え、復旧作業の進む市場の通りへと足を進めた時だった。
「――おい! 艦娘さんたちじゃねえか!」
崩れ落ちたアーケードの下から、ゴム前掛けを締めた魚屋の店主が、水濡れの長靴を鳴らして駆け寄ってきた。
店主の分厚い手には、氷の敷かれた木箱から掴み出されたばかりの、見事な一本の真鯛が握られていた。鱗が鈍く銀色に光っている。
「これを受け取ってくれ! 今の俺に渡せるのは、これくらいしかねえが!」
突然のことに足を止めた瑞鶴と翔鶴の前に、店主は泥と魚油にまみれた手で鯛を突き出した。そして、煤けた顔を歪め、遠い沖合を見つめるように視線を落とした。
「……沖で漁師をやってる親戚がいてな。いつも一番いい魚を俺の店に卸してくれてたんだ。だが……空襲の時に船をやられちまってよ。いまだに見つかっちゃいねえ。行方不明のままだ」
翔鶴の息が止まり、瑞鶴の肩が微かに跳ねた。
市長が口にした「漁船を含めた十数名の犠牲」。その冷徹な数字の破片が、目の前の男の肉親だった。
「だがな、あいつの口癖だったんだ。『俺たちが安心して網を引いて、美味い魚を陸に届けられるのは、艦娘たちが命を張って海を守ってくれてるからだ』ってな。……あいつはもう戻らねえかもしれねえ。だがよ、あいつの代わりに言わせてくれ。海を守ってくれて、本当にありがとうな」
店主は深々と、その頭を下げた。
初動の索敵を怠り、海上の警戒を置き去りにした空母二隻の過失。
その代償が、寸分の狂いもなく翔鶴と瑞鶴の心臓を撃ち抜いていた。
二人の肉体に傷はない。骨を折られたわけでもない。だが、差し出された真鯛の放つ生臭さと冷たさは、どんな深海棲艦の雷撃よりも深く、二隻の魂を抉り取っていた。
瑞鶴は爪が手のひらの皮膚を破るほど強く拳を握り締め、奥歯を噛み砕かんばかりに耐えた。
翔鶴は静かに両手を差し出し、氷のように冷え切った魚体をしっかりと受け止めた。
「……大切に、いただきます」
翔鶴の声は静かだったが、その瞳の奥には、二度と拭い去ることのできない暗い泥の炎が灯っていた。
母港の桟橋へ戻った五隻を出迎えたのは、軍刀を腰に帯びた長門だった。
抱えられた色褪せた花束と、手渡された一本の真鯛。
長門は四隻の顔を見据えた。
大和と武蔵の額に浮く冷や汗、翔鶴と瑞鶴の研ぎ澄まされすぎた双眸。そこに、出撃前の慢心や凱旋時の浮つきは微塵も残っていなかった。
長門は多くを語らなかった。ただ低く、短く告げた。
「……よく泥を背負ってきたな」
その日を境に、鎮守府の航空戦力と連合艦隊の指揮系統は、再編を遂げた。
空母機動部隊は、二つの巨大な矛へと再構築された。
第一機動部隊には、赤城、加賀の一航戦、飛龍、蒼龍の二航戦、そして鳳翔と龍驤の計六隻が留まった。歴戦の象徴たるこの部隊において、鳳翔と龍驤は後進の練成と航空戦技の指導という重責を担いつつ、鎮守府の精神的支柱としてその陣容を維持する。
そして、その外側にあった空母戦力のすべてを結集し、新たに『第二機動部隊』が設立された。
旗艦・翔鶴。二番艦・瑞鶴。
二隻の五航戦が率いるその麾下には、装甲空母・大鳳を筆頭に、雲龍、天城、葛城の雲龍型。さらに信濃をはじめ、大戦後期に生まれながら十分な活躍の場を与えられなかった巨躯たちや、商船からの過酷な改装を経て戦列に加わった改装空母群のすべてが編入された。
隻数においても、展開する艦載機数においても、第一機動部隊を遥かに凌駕する鎮守府最大の航空戦力。
未だ戦歴の浅い刃たち、不遇の影を背負う艦たちを束ね、実質的な主力として敵の喉元を喰い破る――その栄光のみならず、空の戦いが孕むあらゆる汚辱と全責任を、翔鶴と瑞鶴が双肩に背負って立つ体制が敷かれた。
そして、連合艦隊旗艦の継承序列もまた、かつての格式や艦歴を完全に破棄して書き換えられた。
第一位、長門。
長門が戦死、あるいは指揮不能に陥った際の第一継承権は――大和、武蔵。
その背後を固める後詰として、金剛、陸奥。
最も厚い装甲を持ち、最も巨大な火力を誇り、そして最も深い汚辱と泥を呑み込んだ者こそが、全艦娘の命運と敗北の責を背負い、全軍の最前線に立つ。
鎮守府は、新たな時代を迎えた。
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