机の上に積み上げられた資材受領簿の端を、大淀の指先が無機質に弾いた。
電信室から漏れ出る打鍵音と、天井で低く唸る換気扇の回転音だけが室内に落ちている。
大淀は視線を書類から外さぬまま、万年筆の先で紙面の一角を小さく叩いた。
「第二機動部隊、直近二週間の重油消費量。加えて、最新鋭の流星改および彗星の演習用模擬弾頭、機体損耗数。……年間計画枠の試算値に対して、現時点で一二パーセント超過しています」
机の前に直立する翔鶴と瑞鶴の軍靴は、一ミリも動かない。
「大鳳、および雲龍型三隻の急降下爆撃と雷撃精度の底上げです。発着艦間隔の極限までの短縮、ならびに投弾高度を引き下げての反復演習を実施しています」
翔鶴の声に抑揚はなかった。かつての柔らかな響きは削ぎ落とされ、乾いた鉛のような響きだけが残っている。
大淀は手元を動かし、受領印を三箇所に叩きつけた。硬い音が室内に響く。
「計画表通りの枠立てには見えますが、連日のように三十分から一時間の演習延長。過密な発着ピッチのせいで、大鳳と雲龍型の飛行甲板は制動索の損耗も擦過痕も限度を超えていると、工廠から苦情が入っています。訓練の質を極限まで詰めているのは分かりますが、船体も機材も無尽蔵ではありません。……少しは加減というものを考えたらどうです」
「醜の御楯に仕上げるには、まだ足りません」
瑞鶴が短く言い放った。その両手は背後に組まれたまま、指先一つ震えていない。
大淀は初めて顔を上げた。
眼鏡の奥の瞳で二人を冷ややかに見据え、机の端へ承認印の押された資材伝票を滑らせる。
「資材は回します。第一機動部隊――赤城、加賀たちの月間重油枠と最新機材の補充枠から二割を削り、連合艦隊副旗艦の権限で第二機動部隊へ付け替えました」
大淀の手が、次の書類の束へと伸びる。
「ただし翔鶴、瑞鶴。第一機動部隊から奪い取った血と油です。数字で返してもらいましょう。次の合同演習までに、あの四隻の命中精度を六五パーセントまで引き上げなさい」
万年筆のキャップを締め、大淀は淡々と続けた。
「ちなみに、第一機動部隊は九二パーセント。……あなたたち五航戦ですら、八四パーセント止まりですがね」
瑞鶴の眉が僅かに動いたが、翔鶴がその前に無言で右手を差し出し、資材伝票を掴み取った。
踵を返そうとした翔鶴の背中に、大淀の低く平坦な声が落ちる。
「それから、翔鶴」
足を止めた翔鶴へ、大淀は書類から目を離さぬまま言い添えた。
「この部屋を出たら、笑顔でいなさい。……第二機動部隊旗艦の顔が引き攣っていては、兵が怯えます」
「……了解」
翔鶴は短く応じ、背筋を伸ばして歩き出した。規則正しい軍靴の音が、扉の向こうへと遠ざかっていく。
的場の土埃と、使い古された弦巻の油の匂いが、夕暮れの弓道場の裏手に淀んでいた。
板間に車座になった四隻の真ん中に、転がされた一升瓶と、ナイフの先で無造作にこじ開けられた鰯の油漬け缶が二つ。
小さな平皿の上には、湯気を立てる瑞鳳の卵焼きが並んでいる。
手酌でコップに安酒を注いだ祥鳳が、手元の酒を見つめながら低く呟いた。
「……そういえばあの時、私たちは鳳翔さんと一緒に別室に控えさせられていたけれど。道場の中で、赤ワインを飲んだんですって?」
卵焼きに伸ばしかけた隼鷹の指先が、空中でピタリと止まった。
隣に座る飛鷹の喉仏が、唾液を呑み込んで小さく上下する。
その場の空気がわずかに軋み、天井の梁で冷たい風が鳴った。
「……あの場にあんまり人数がいてもってんで隣に置かれたが、お前たちだって鳳翔さんの横で中の会話を聞いてただろ。大体の察しはついてるはずだ」
隼鷹は指を引っ込めると、手元のコップを乱暴に掴み、濁った酒を一息に煽った。
喉を焼くアルコールを力任せに胃袋へ流し込み、口端を歪める。
「ありゃ、酒じゃねえよ。葡萄酒の形をした、ただの血の味だ。……あんなもん、二度と喉を通りゃしねえ」
別室にまで漏れ聞こえていたあの日の張り詰めた気配を思い出したのか、瑞鳳が徳利を握ったまま、小さく息を呑んだ。
その視線を払うように、隼鷹は脂の浮いた指を袴で拭う。
「でよ。さっき渡り廊下で翔鶴と瑞鶴とすれ違ったんだ」
「……大淀さんの部屋から?」
「ああ。第一機動部隊から二割、訓練不足の補填分をきっちり引っ張ってきたって笑ってたぜ。……結構、凄味のある笑顔をするようになってきやがった」
隼鷹は空になったコップの縁を、親指の腹で強く擦った。
「ようやく旗艦が板についてきやがったな、あの二隻も」
飛鷹が無言で酒瓶を取り、隼鷹のコップを満たす。
「資材を毟り取ってきたってことは……明日からまた、大鳳と雲龍型の連中は嫌ってほど気合が入るわね」
「だな。工廠じゃ飛行甲板の擦過痕と制動索の傷みで悲鳴が上がってるらしいが、容赦なく絞り上げる気満々だぜ」
隼鷹は酒を一口舐め、顎で薄暗い水平線の先をしゃくった。
「――で、だ。この大改編で、本当に前へ進んだのは誰だと思う?」
瑞鳳が、探るように眉を寄せる。
「……第二機動部隊の旗艦に就任した、五航戦じゃないんですか? 大鳳さんたちを預かって、鎮守府の主力として認められた翔鶴さんたち……」
「逆だよ、瑞鳳」
隼鷹は短く鼻を鳴らした。
「赤城と加賀だ。……二割削られた? あいつらにとっちゃ、そんなもん痛くも痒くもねえんだよ。新人の教育だの、全体の補給だの、負けたときの責任だの……そういう人間臭い足枷を、全部五航戦に背負わせたんだからな」
隼鷹の目が、暗がりの中で鋭く眇められた。
「首輪を外されたんだよ、あの二隻は。もう誰のケツも拭かなくていい。ただ海の上で敵を噛み殺すだけの、飢えた獣に戻ったんだ。……いまの第一機動部隊に残された面子を見てみろよ。あの一航戦の殺気についていける連中しか、最初からあそこには残されちゃいねえ」
祥鳳が無言のまま、自分のコップを見つめる。
「二航戦の飛龍と蒼龍もそうだ。顔を真っ青にして『死ぬかと思った』なんて愚痴をこぼしながら、結局あの二隻の背中にぴったり張り付いて、一歩も引かずに食らいついてやがる。……あいつらも大概だぜ、まったく」
隼鷹は乾いた笑いを一つこぼすと、夜風の抜ける暗がりへと視線を投げた。
「まあ……あんな化け物どもの檻に残されなかったのが、あたしたちにとって良いことなのか悪いことなのかは知らねえがな」
コップの縁を指先で弾き、低く喉を鳴らす。
「第一機動部隊(あっち)に行きたかったのは山々だがよ。大淀相手に凄味を利かせて、重い看板背負い込んじまったあの二隻を、後ろから支えてやれるのも――まあ、あたしたちくらいのもんだろ」
飛鷹がフッと小さく鼻を鳴らし、徳利の残りを自分のコップへ傾けた。
「……そうね。翔鶴も瑞鶴も、泣き言を飲み込んで笑ってるんだから」
祥鳳が無言のまま、手元の酒を一気に煽る。
瑞鳳は、膝の上で白くなるほど握りしめていた右手の指を、ゆっくりと解いた。
そのまま迷いなく手を伸ばすと、冷めかけた自分のコップを乱暴に掴み取る。
隼鷹、飛鷹、そして祥鳳の顔を、順にまっすぐ見据えた。
誰も何も言わない。交わす言葉の代わりに、互いの視線だけが板間の上で静かに噛み合う。
瑞鳳は息を吸い、濁った酒を一息に煽った。
喉を焼く熱さを呑み干し、空になったコップを板間にカツンと叩きつけるように置く。
板間の隙間から、冷え切った夜の海風が吹き抜けていく。
波の音だけが、静まり返った的場を白く洗っていた。