黒蝶の羽ばたき   作:ふみどり

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 いまだに夜に眠る生活には慣れない。

 時計の針が頂点を指そうかという真夜中に、共用のキッチンの灯りを付ける。小さな片手鍋を取り出し、適当に牛乳を注ぎ入れた。もってきた蜂蜜をとぷりと入れ、ゆるくかきまぜながら火に掛ける。柔らかな甘い香りは、それだけで眠気を誘ってくれるような気がした。

 高専にきてからおよそ一ヶ月、とりあえず殺されることなく生き延びている。クラスメイトともひとりを除いてわりと上手くやれていて、残りのひとりも積極的に害しに来る様子はない。むしろ引っ込みがつかなくなっているだけというか、最初にあれだけ邪険にしてしまっただけに態度を軟化させるタイミングを逃してしまったようにも見える。時折ちらちらと窺うような視線を感じるのはおそらく気のせいではない。

 僕としては好かれようが嫌われようが構わないので、どうぞ好きにしてくれと思う。殺しに来ないでくれるならそれで十分だ。

 ぷく、と鍋の縁に気泡が浮かぶ。ぼんやりとそれを眺めながら、自分の中に少しずつ眠気が降り積もるのを待つ。もはやこれが日課になりつつあった。

 

「……高専て昼間に任務行くんだもんな」

 

 つい、深夜の静寂に呟きを落とす。

 これまでも黒笹が受けた「仕事」はこなしていたが、たいていは世間が寝静まった夜中に行っていた。そもそも「呪い」は秘密裏に行うものなのだからそれは当然で、「帳」があるからと真っ昼間に呪術師が動くものではないと思うのだが、こちらではそれが普通なのだと言う。「いや夜は寝ろよ」とごくごく当たり前に言い放った紅一点に目から鱗が落ちる心持ちだったが、その手にあった煙草に突っ込んでいいのかどうかは悩んだ。同期の中で一番話しやすいかもしれない彼女は、正直なところ常識があるのかないのかよくわからない。

 ちょうどよく温まったのを確認してコンロの火を消す。真っ白のマグカップに丁寧に注ぎ入れ、空になった小鍋をシンクの中に置いた。片付けるのは後にしよう。

 近くの椅子をひき、カップを片手に腰掛ける。カップに口をつけると、まろやかな甘みが心地よい熱とともに広がっていく。

 

「……ふあ、」

 

 ようやく口から小さな欠伸がもれる。良いことだ、そのまま早く眠気がきてほしい。少しずつ瞼が重くなってくるのを感じながら、この一ヶ月の生活を思う。

 わりと上手くやっている、と思う。思ったより任務もちゃんとこなせている。個々の戦闘力では「最強」ふたりに敵わないが、僕の戦い方が通用しないとまでは感じなかった。

 現場の探索も夏油くんの呪霊以上に行うことができるし、多少の呪霊なら僕ひとりでも十分に祓える。呪術師の等級についてはイマイチ感覚が掴めてはいないが、特級の夏油くんに「()()()やるね」と言わせたのだから足手まといではないはずだ。夏油くんがわりと悪い意味で正直者なことはすでに理解している。

 いわゆる「普通」の勉強についても問題なくついていけているし、「最強」ふたりに手を焼いていたらしい先輩方にはむしろ歓迎されていて、実家やアイツから不穏な連絡がくることもなく。わりと快適な学校生活を送っていると言っていい。

 そう、むしろ、だからこそ、だ。だから、「今」が不気味でならない。()()()()()()()()()()()()

 込み上げた欠伸をかみ殺し、ホットミルクと一緒に喉に流し込んだ。まだ少し熱いそれがぴり、と喉を舌く。む、と眉間に皺を寄せると同時に、キッチンの入り口に人の気配を感じた。

 

「……何やってんの、オマエ」

 

 呆れたように言った彼の白銀には、小さな寝ぐせがついていた。

 恥ずかしいところを見られてしまった気まずさを微笑みで覆い隠し、夜半の訪問者に眼差しを向ける。五条くんは何となく警戒した様子でテーブルに歩み寄った。

 

「ちょっと火傷しただけ」

「だっせ」

 

 ははは、容赦がない。

 僕の前で突っ立ったままの彼は、別に夜食を探しにきたわけではないらしい。冷蔵庫や食べ物の入った戸棚に目をやることもなく、ただ僕を見つめている。―――いや、これは僕を見ているのではない。僕を取り巻く黒笹の「蟲」、僕の皮膚の上を飛び交う蝶を見ているように思えた。いくら幼虫をしまい込む努力を続けているとは言え、それでも「蟲」を嫌悪していたことに変わりはないだろうに、どういう風の吹き回しだろうか。

 どうしたのと尋ねても、彼の六眼は揺らがない。

 

「……オマエ、ここんとこ毎晩ここにいるだろ」

 

 おや、まさか知られているとは。

 なるべく静かに部屋を離れていたつもりだったが、うるさかっただろうか。

 僕の内心を掬い取るように、五条くんは面倒くさそうにガシガシと髪を掻く。

 

「音立てねえようにしてても気付くに決まってんだろ。むしろ足音なさすぎて気付くわ」

「わかった、次からは遠慮なく足音立てるね」

「とは言ってねえだろーが嫌がらせか。何企んでんのかと思ったらここでぼけっとしてすぐ部屋戻るし。何なんだよオマエ、怪しすぎるくせに何もしねえからむしろウザい」

 

 なるほど、僕が実家やアイツに向けるのと同じ感情。そう思うとちょっと悪いことをしたなと思わなくもないが、僕にはどうしようもできないことなので苦笑するしかない。

 確かに僕は怪しいだろうし、警戒もしていてほしい。だが、僕自身は特に何をするつもりもないのだ。

 

「言ったでしょう、僕は何をする気もないよ。ごくごく普通に学校生活を送るだけ」

「信じると思うか?」

「思わないね。……にしても意外だな、そんなふうに僕を探りにくるとは思わなかったよ」

 

 腹の探り合いとも言えないほどの、あまりに率直すぎる問い。正直、意外ではある。数百年に一度の逸材、無下限呪術と六眼を併せ持つ五条家の当主が、僕ごとき羽虫を()()()()警戒してくれるとは。てっきり明確に刃向かってきたら殺せばいいくらいに思っているものだと思っていたのに、彼は僕を「警戒すべき対象」として視界に入れてくれている。

 同時に、その理由も理解した。

 

「そっか、きみが心配してるのは夏油くんのことかな」

 

 わずかに五条くんの頬が揺れた。やはり彼は腹の探り合いの経験値が低すぎる。

 夏油くんはもちろん優秀かつ賢明で、そう簡単に他人に振り回されるような人間ではない。しかし、それでも彼はまだ呪術師になって一年と経っていないのだ。まだまだこの呪術界(せかい)を理解しているとは言いがたく、うっかり魑魅魍魎(ジジイ)どもに後れを取ることだってないとは言い切れないだろう。

 いくら傲慢で気にくわないことは力尽くで潰してきたであろう五条くんでも、きっと夏油くんよりはこの世界の面倒くささを知っている。

 

「本当に仲が良いんだね。いいと思うよ、そういうのは大事にしないと」

「……おい」

「茶化してるんじゃない、これでも本当に感心してるんだ。……必要な警戒だと思うよ、どうせ夏油くん、高専卒業したら婿養子の話が山と来るだろうし。今はじっくり品定めかな」

「傑が雑魚の言うことなんざ聞くわけねーだろ」

「言うことを聞く気はなくても、嵌められることはあり得る。そう思ったからきみだって黒笹(ぼく)を警戒してるんじゃないの」

 

 六眼がかすかに細められる。やっぱ何か企んでんのかとでも言いたげだが、言葉の綾くらい理解して欲しい。

 またひとくちカップに口を付けた。温かさがふわふわとした眠気を運んでくる。そろそろ会話を切り上げようと、なかなか引きそうにない彼に少しばかりに情報をくれてやることにした。

 ぺろ、と甘みの残る唇を舐める。

 

「……信じてくれなくてもいいけど、本当に僕は何をするつもりもないんだよ。何もなさすぎて警戒してるのは僕も同じ」

「……」

「ただ、僕をここに送り込んだ理由のひとつには最近気付いた」

 

 数日前、体術の訓練でグラウンドに出ていたときに見つけてしまったもの。きっと相当呪力感知に秀でた呪術師でなければ気付けない、僕だって()()でなければ見逃してしまっただろうそれ。

 おそらく、六眼(かれ)も気付けてはいまい。彼が「最強」としてはまだ()()()なことは察していた。

 

「高専の敷地内に『蟲』が侵入してる」

「―――、」

「僕の呪力を辿ってきたんだろうね。もともと天元さまの結界は『隠す』ためのもので『護る』力はそれほどじゃない。場所さえ特定できれば呪力を薄めた蟲は結界を素通りできる。僕を媒介にして高専を探りにきたんだろう」

 

 高専で見つけたのは「蜘蛛」だった。つまり当主ないし直系が動いている。となれば「高専を探る」のは黒笹全体の意志であり、アイツの指示だ。端から僕が情報を持ち帰ることなど期待していないというか、僕が協力的でないことは理解してくれているらしい。

 蜘蛛はきちんと踏み潰してあげたが、おそらくは何百、何千という単位で蟲は放たれているだろう。夜蛾先生には報告をあげて機密のある場所の結界は強めてもらったが、さてどこまで効果があることやら。

 五条くんも見つけたら潰しといてね、と軽く言ってから、おっと、と付け加える。

 

「素手で潰しちゃだめだよ、毒があるから。即死するような毒じゃないけど、解毒には手こずると思う」

「わざわざ触んねーよそんなモン。……オマエ、実はマジで実家から信用されてねーの?」

「はは、マジの話をすると、蝶って黒笹じゃ地位が低いんだよ、ほら蜘蛛とかに捕食される側でしょ。だから昔からずっと弱い弱い言われてたのに、僕ときたらウッカリ次期当主のクソ蜘蛛野郎踏み潰しちゃって」

「……は?」

「蝶に食われる蜘蛛なんて無様だねって本音を漏らしたらあら不思議、その夜から死ねとばかりに山ほど仕事回されるようになったよ。まあその程度じゃ死なないけどね」

 

 呪術師の家系なら、一族のなかでも処遇に差があるのはよくあることだ。それは術式の有無、呪力の有無、血の濃さなどさまざまだが、黒笹の場合は「蟲」だった。

 昔から根付いてきた価値観を覆したのだから反発は必至というもので。でも僕は後悔してないですだって弱いのが悪いんだ。だいたい僕の身体という蠱毒壺のなかで()()()()()()()()()()()()生き残った蝶が弱いわけないだろうと。そんなこともわからない馬鹿どもの脳みそは本当に蟲サイズしかないのかもしれない。

 しばらく長い睫をぱちぱちと揺らしていた五条くんは、苦悩するようにきゅっと眉根を寄せて口を尖らせる。ん~~~~と呻いた後、大きくため息をつく。

 

「……何か馬鹿らしくなってきたわ。あほくさ、寝る」

「そうだね、もう真夜中も過ぎてる。休んだ方がいい」

「……オマエ寝ねェの」

「片付けをしたら寝るよ。ようやく眠くなってきたし」

 

 最後の一滴まで飲み干し、立ち上がる。

 シンクにカップをおいて蛇口をひねると、静かな夜に水の音が響いた。

 背後の気配は、まだ動く様子を見せない。

 

「……まだオマエを信用したわけじゃねえからな」

 

 背中で聞いた言葉に、つい喉の奥が揺れる。ぶっきらぼうな声色の奥に、ほんのわずか気遣いに似た色があったような気がした。

 

「いいよ、別に。むしろ警戒したままでいてほしいし」

 

 アイツのおおよその目的は知っているが、全てを知っているわけではない。このふたりに何を仕掛けるつもりなのかもわからない。そのために、僕をどう利用する気なのかも。

 正直、黒笹だけなら僕でも何とかできる。だが、アイツが相手となるとさすがに分が悪すぎた。呪術師としてどころかイキモノとしての経験値も桁違い、しかもこちらの手の内はほぼほぼバレているとなれば勝ち筋も見えない。

 だから、僕のことは常に警戒していて欲しい。信用しないでほしい。アイツが何を考えているかわからない以上、警戒はどれだけしても足りることはない。

 

「僕を信じちゃダメだよ、五条くん」

 

 それがきっと、お互いのため。

 首だけ振り返ってそう言えば、相変わらず五条くんは苦虫を噛みつぶしたような顔をしていた。

 


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