悟と何かあったのかい、と軽く問われて思わず瞬きをした。
五条くんは何やら先生に呼び出され、夏油くんとふたりで行っていた体術の実習時間。まあそうでなくてもほぼ毎回夏油くんに稽古を付けてもらう時間と化しているのだが、今回も例外でなく僕は地面に転がされていた。
一応弁解をしておくが、僕の体術の鍛錬が足りない以上に彼が強すぎるのだ。分類的には式神使いのうえに一般家庭出身のくせに、これだけ体術に長けている彼の方がおかしい。ちなみに家入さんはいつもこの時間になると他で実習を受けているらしい。
汗だくで地面の冷たさを享受している僕の顔を、夏油くんは真上から覗き込んだ。
「ここ数日、悟の君への態度が少し柔らかくなった気がしていたから。仲直りできたのかなって」
「僕は喧嘩をしているつもりはないんだけどね」
確かにあの真夜中以降、五条くんの態度は僅かながらに軟化していた。友好的にとは到底言えないが、余計な罵声が減っただけ会話はしやすくなったと言っていい。
会話が端的に済むのは有り難いかなと、手に持っていた呪具を杖にひょいっと立ち上がる。どうも筋肉がつきにくい僕は、純粋な体術よりも棒術を得意としている。
「少し話をしたからかな。五条くんから話しかけてきてくれてね」
「それは珍しい。友好的に話はできたのかい?」
「うーん、比較的。……いや、初対面のときから十分に友好的だったと思うよ? 初手で殺しに来ないでくれただけ本当に助かったと思ってる」
「まだよくわからないんだけど、きみにとっては初手で殺しにかかられるのが普通なの?」
「そういうわけじゃないけど、蟲を嫌うひとが多いのは確かだから」
正直僕だって好きかと言われればそうでもなく。
黒笹にとっては力の化身である蟲を好ましく思えない時点で、たぶん僕は黒笹としては異端なのだろう。とは言え常に腹の中で蠢いてるものを好ましく思えって、黒笹もたいがい
まあ慣れはするけど、ため息をつきながら何となく腹をさすった。くす、と夏油くんの小さな笑いが零れる。
「確かに、慣れるのと好むのは別問題だね」
「夏油くんも?」
「言うこと聞くからって呪霊をペットと思えると思うかい?」
「思わないよ。可愛くないし」
「ははは、同感」
可愛くても困るけどね、と夏油くんは軽く笑う。普段から取り込んだ呪霊を容赦なく使っている様子から察するに、彼も自身の呪霊のことは駒のひとつくらいにしか考えていないのだろう。術式をもっている呪霊なら少しは大事にするかもしれないが、それもあくまで「道具」であり「武器」として。
比較的柔らかな人当たりに反して、彼は自分の好悪にはかなり忠実だ。実は結構極端な人間性をしているよな、とその微笑みを横目で見る。
ぱちりと視線が絡むと、何かなと微笑みがこちらを向いた。
「ううん。相変わらず夏油くんは面白いひとだなと」
「それ、いつも思うけど本当に褒めてるの?」
「褒めてるよ。そんなきみだから五条くんも懐いたんだろうし」
夏油くんがただの優等生ならもっと違っただろうし、ただのクソガキでもきっと違った。そういう意味で、五条くんはとても幸せなひとだと思う。
同じ目線でものを見てくれるくせに異なる価値観をもち、自身を諭し導いてくれる相手。
そうかなと不思議そうに首を傾げる夏油くんだが、いい加減気付いたほうがいいかもしれない。
「……夏油くん」
「うん?」
「……。……たくさん食べてよく寝てね」
「いきなり何かな?」
「いや、いろいろ言おうと思ったんだけど。やっぱ何か面倒だなって」
「きみって結構あれだよね。……そう、素っ頓狂」
「初めて言われたな」
まあ別に僕が気にすることでもないか、と口から出そうになったものを丁寧に腹にしまう。ものすごく五条くんに好かれてるから気を付けてねなんて言われても彼にとってはどうしようもない話で、まして一般家庭出身の夏油くんにはきっとどう言っても実感が伴わないだろう。呪術界における「六眼」の意義なんて、僕でさえどう説明していいかわからない。
呪力の籠もった棍をくるりと回す。両端に着いた房がぱさりと軽い音を立てた。
「元気に長生きしてほしいってことだよ」
「それはありがとう。早死にする予定は今のところないから大丈夫だよ。とりあえずきみよりは食べてるし寝てると思う」
「健康的で何よりだ」
「むしろ、きみこそちゃんと寝たほうがいいんじゃないかい?」
おや、どうやら彼も僕の夜更かしには気付いていたらしい。だから身長が伸びないんだよって、本当に余計な一言が多いな彼は。
笑顔を崩さないまま、そうだねと軽く受け流す。
「生活習慣を改善してる最中なんだ」
「ふうん? にしても蜂蜜入りのホットミルクがお供なんて意外と可愛いよね」
「ははは夏油くん、さては五条くんから全部聞いてるね?」
どうかなと笑ってみせたこの性悪男、そんな会話をしたその夜に相変わらず眠気を待つ僕の前に現れてみせたのだから本当にいい性格をしていると思う。
しかも、気まずさを押し隠そうと不機嫌を装っている相棒を引き連れて。
「……五条くん、実は夏油くんってとっても面倒なひと?」
「ちょー面倒。ぜってー退かねーし」
「うわあ、五条くんに言われるほどか……」
「あ?」
「はは、まあその仲の良さに免じて聞かなかったことにしておくよ」
仲の良さって、とつい僕は眉を下げ、視界の隅で五条くんも顔をしかめる。そんな様子すらどこか愉快そうに肩を揺らした夏油くんはぱちりと片目を閉じる。うわかっこつけ。
「まあいいじゃないか、
「、」
「数少ないクラスメイトの仲が微妙なのは結構迷惑なんだよ。だからここらで意地を張るのは終わりにしよう、ね?」
「いや夏油くん、」
「
いや圧がすごい。つい
ねえコレ、と横目で五条くんを見れば、何とも言えない顔の六眼がこちらを向けられる。六眼でも死んだ眼ってできるんだなと妙な気づきを得た。ちょっと笑えた。
「……えーと、
「……くんとかキモいんだけど」
「ええ……じゃあ
「………」
「ああ、私も呼び捨てでいいからね」
むっつりと黙り込んだ五条くん――悟の頭をぺしぺしとはたき、夏油くん――傑は僕たちに背を向けたコンロの前に立つ。彼は手際よくマグカップをふたつ用意し、小鍋で牛乳を温め始めた。どうやら本気で僕に付き合って起きているつもりらしい。
いやさっさと寝ればいいのに、と自分の手元のカップに口を付ければ、そばに置いていた蜂蜜の瓶がひょいと浮き上がる。
「……何コレ、いいやつ?」
「ん? うん、ちょっとお高めの。ローズマリーの蜂蜜」
「ローズマリー? 何、何かちげえの」
「花の種類が違えば蜜の味も違ってくるからね。何ならきみも入れてみたら、……ってちょっと待って何でそんな大さじ出すの? ティースプーンでも十分じゃない?」
「傑、お前も入れる?」
「そうだね、今夜は甘いものの気分だな。はいホットミルク、あったまったよ」
「おー」
「待ってその掬い方容赦なさすぎ、」
とろり、なんて表現では足りないほどたっぷりと掬われた蜂蜜。いや僕はケチなつもりはないけれど、だからってちょっと本当に遠慮なさすぎでは。
軽く僕の十日分ほどしっかり使われた蜂蜜はもうすでに底をつこうとしている。
「……いや、いいんだけどさ」
「へえ、確かにこれ、よく売ってる蜂蜜とは違うね。甘ったるくないし香りもいい」
「ふーん? まー悪くねーじゃん」
「……お気に召して何よりだよ」
「けどこれ前のとは違えよな。前のは何の蜂蜜?」
「実は前もかなりしっかり興味をもって見てたんだね?」
僕の数少ない楽しみ、コレクションとも言えるさまざまな種類の蜂蜜たち。わざわざ遠くの専門店にまで足を伸ばして購入しているそれらを別に秘密にしているつもりはないのだが、こうも興味をもたれると何となく気恥ずかしい。
つい言いよどみながらたぶんラベンダー、と小さく返せば、ついに弱点を見つけたとばかりに彼の口角が上がる。
「へ~~~~~。じゃあ明日はラベンダーな」
「こらこら悟、たかるのは良くないよ。胡斗、ほかにも種類はあるのかい? 私は甘さ控えめなものが好みなんだけど」
「一瞬前の自分の言葉を忘れられるなんていっそ才能だと思うよ、僕」
というか明日も来るのと正直な感想を言葉に乗せれば、ふたりはハッと何かひらめいたような顔。おっと嫌な予感。
案の定、さっと傑は大きな身体を縮こめて目元を両手で覆い、悟はサングラスを外して傑の肩に手を添えた。
「今の聞いたかい悟、せっかくひとり寂しく夜を過ごしていた胡斗に寄り添おうとしているのに……っ胡斗が冷たい……!」
「あ~~~~いっけないんだァ、傑くん泣いちゃったじゃん男子~~~~~」
「あははははは。ウッザ」
あら辛辣、と今度はそろって口許に手を寄せる
やれやれとカップに残ったホットミルクを飲み干した。底に残った蜂蜜が、今日は妙に甘ったるい。
「……物好きだね、ふたりとも」
本心からそう零してみれば、返ってきたのはやはりクソガキの悪戯っぽい笑顔だった。