夜の帳の内側で、夜色の蝶が飛び立っていく。数多の翅が重なるさまは、まるで漆黒の幕が重くはためいているようだった。
僕は個々の蝶と感覚を共有することはできないが、僕の中に残る「親」、つまり
「……うん、行方不明者三名、三階の一番奥の部屋にいる。血の臭いはするけど息はあるみたいだね。その近くに二級程度の呪霊が一体、……いや、隠れるのが得意なやつがもう一体いる。ほかは四級以下の雑魚」
「ンだよ、二級とか俺らが行く必要ある?」
「こら悟。胡斗、二級は私がもらうから祓わないでくれよ」
「うん、弱らせる程度にしておくよ。四級以下は餌にするから放っておいてね」
はいはいと走って行った最強ふたりを見送り、僕と硝子さんは呪霊の巣となった廃病院の前で待機。何度かこうして四人で任務に就いているが、だいたいこれがお決まりのパターンになっていた。
僕が索敵をし、悟と傑が乗り込み、前線には向かない硝子さんの護衛として僕が残る。最強二人が前に出るなら僕が現場に突入する意味はあまりないし、硝子さんをひとり放置するわけにもいかないので、チーム戦としてはいい配置だと思っている。
建物の外にいても聞こえる地響きに、派手にやってるなあと遠い目をした。蝶たちからももう「土煙がひどい」以外の情報が届かない。
「……あのふたり、あれで一般人巻き込んで殺したことないって本当?」
「まあ、記録上」
「含みがすごい」
「いやいや、殺したことはないってたぶん。もの壊さなかったこともないってだけで」
「……本当にあのふたりは僕の固定観念を覆してくれるな」
呪術師は密やかに、静かに、闇に隠れて動くもの。痕跡を残すのもいけないことだと思っていた時期が僕にもありました。
まったく、余波で僕の蝶まで吹っ飛ばされてはかなわない。急いで撤退するように指示を出す。僕の蝶は呪霊から呪力を吸い取って祓い、その呪力を持ち帰って「親」の糧とする。ちゃんと「子」たちが呪力を持ち帰ってくれないとこの大食らい、僕の呪力を食い尽くそうしやがるのでわりと死活問題なのだ。
やれやれと帰ってきた蝶を腕から取り込み、体内へと戻していく。腹の底に自分のものではない呪力が蓄積していくのは気色悪いが、こればかりはどうしようもなかった。
蝶の群れをぼんやりと眺めながら、硝子さんは手元でライターの火花を弾けさせた。
「にしても、早かったじゃん」
「何が?」
「絆されんの。もうちょい粘るかと思ってたんだけど」
「……絆された覚えはないんだけど」
「名前で呼ぶようになったくせに? しかも毎晩飲み物片手にお喋りとか何、女子かよ」
「女子が言わないでよ硝子さん。……本当にぐいぐい来るんだよあのふたり……」
名前で呼ぶことを強要されたあの夜以来、確かにふたりは毎晩のようにキッチンにやってくるようになった。といっても片方しか来ない日もあるし、眠気が限界だといってさっさと部屋に戻る日もある。僕が行かなかった日もふたりでホットミルクを作っていたりするようで、約束して集まっているわけでは決してなかった。
おかげで僕の蜂蜜の消費が段違いに早い。仕方なしに休日に買い足しにいこうとすれば、何故か両隣を僕より頭ひとつ大きい二人に挟まれた。距離感の詰め方バグってないかな何このふたり。まあ結局いつもより高い蜂蜜をしこたま奢らせて荷物持ちをさせたのだけれど。
「……近づいてもお互いのためにならないって、僕は親切のつもりで言ったんだけどね」
「それはご愁傷さま。まあ諦めなって、ひとの気持ちとか考えるとかあのクズどもには無理だから」
「本当にそれ。僕は自分のこと性格いいとか思ったことないけど、少なくともあのふたりよりはマシかなって思う」
「あのふたりよりクズとかなられても困るわ。フツーの会話ができる程度にはまともでいてよ、黒笹」
「すごい、ハードルが低すぎる」
そんな軽口を叩いている間に、ふっと夜の帳が晴れる。
しゃーねえ私の出番か、と硝子さんは大きく煙草の煙を吐き出した。その煙に掻き消すように最後の蝶が空をはためき、僕の中に消えていく。
「……何か僕まで煙吸い込んだ気分」
「何、ヤニに興味があるなら一本くらいわけてやろっか」
「いらないよ。苦いんでしょ」
「意外と黒笹って子ども舌だよね」
ウケる、と言いながら硝子さんが歩き出した。
その先には仕事を終えた最強ふたりと、傑の呪霊に乗せられた救助者三人。意識はないようだが、蝶が見た限りでは瀕死というわけではないように見えた。まあ硝子さんがいれば問題ないだろう。先天的に反転した呪力の持ち主である彼女は他者に治療を施せる稀少な存在だ。
すぐさま彼らの治療に取りかかった彼女の背中をぼんやりと見て、思う。反転術式をつかえる術師がそもそも少ないだけに、黒笹の歴史を見る限り
だけど、硝子さんなら、もしかしたら。
「おい何ボサッとしてんだよ胡斗!」
「補助監督を呼んできてくれないかい、あと救急車の手配も」
「ああ、うん。行ってくるよ」
最強ふたりにせき立てられて踵を返す。
そのうち硝子さんに協力をもちかけてみようと内心で呟き、足を踏み出す。ついでに、いつのまにか兄元にいたどす黒い蜘蛛を踏み潰した。
***
任務の報告帰り、胡斗、と低い声が廊下に響く。
振り向いてみれば、我らが担任の夜蛾正道。報告書なら出しましたよと伝えても、どうやら用件はそれではないらしい。
「いや、転入からしばらく経ったからな。少しは馴染めたかと聞きたかっただけだ」
「ああ、ご心配なく。ご覧の通りというか、不本意ながら仲良くさせられてますよ」
「不本意なのか」
「本意ではないですね。……ああ、別にあのふたりがどうというわけではなく、僕の事情としての話です」
「……あまり家の問題に口は出せんが」
教師には見えない厳つい顔に、不器用な心配が滲んでいる。このひともまた確かに呪術師なのだが、同時にきちんと「教師」としてあろうとしているのも理解していた。僕が今まで出会った中では、かなりまっとうな「大人」の部類に入るように思う。
高専の学生を「呪術師」として扱うと同時に「子ども」「学生」として扱うなんて器用な真似をやってのけるひとだからこそ、僕の同期の三人にもなんだかんだ懐かれているのだろう。
黒笹なんて面倒な家の人間である僕のことも、嫌がらずに同じ学生として扱ってくれる。それはきっとありがたく思うべきなのだろうが、慣れなさすぎて背が痒い。
「家の事情とお前の意志に齟齬があるなら、担任として俺から黒笹に申し入れることもできなくはない。何かあったら言いなさい」
「あはは、心配しすぎですよ、先生。でもありがとうございます」
「……高専の任務もあるのに実家からも仕事を割りふられる学生を見るのは初めてでな。お節介だろうが、心配にもなるぞ」
「ああ、なるほど。でもあれくらいなら何てことないですよ、さすがに高専に来てかなり減りましたし」
「減ったのか」
「減りました。なくなりはしないのは、まあ、僕黒笹の中では強いので」
直系の連中から嫌われているのもそうだが、実際今の黒笹で僕と同等以上に渡り合える人間は少ない。僕の中に在る
それもまたあの野郎が黒笹を使って行ってきた実験の結果なのだろうと思えば業腹だが、使えるものは使うしかない。
「むしろ僕の家の事情なのにいつも補助監督さんたちに車を出して頂いて申し訳ない限りです。何ならガソリン代と補助監督さんたちのお給料、実家に請求してくださいね」
「そういうところが学生らしくないんだよ、お前は。……本当に何かあったらちゃんと相談しなさい」
「はい、先生」
むず痒い気遣いに笑顔を見せ、踵を返した。
何かあったら相談しろと言われても、何もないから気味が悪い場合はどうしたらよいのだろう。実家からは事務的な仕事の命令が飛んでくるくらいで、ほかに指示は何もない。
高専に来てはや数ヶ月、もう来月には後輩を迎えようとしている。ずいぶんほったらかしにされたものだと思う反面、千年は生きてるらしいあの野郎の時間感覚的なら実はまだ数十秒も同然なのかもしれないと思い至った。なるほど、数十秒なら仕方ない。
ふと足を止めてぐっと伸びをする。こき、と首元で骨が鳴った。
「……平和だなぁ」
これが嵐の前の静けさでなければ良いのだけど。
どうしても警戒を解く気にはなれない自分に苦笑しながら、廊下の先に立つ彼らを見つけて足を踏み出す。
どう見ても僕を待っている様子の三人に駆け寄り、首を傾げた。
「どうしたの?」
「どうしたじゃねーよ、肉食いにいくっつったろ肉!」
「帰りの車で話をしていただろう? 待ってるから早く着替えておいでよ」
「制服じゃ酒のめねーからな。クズどもの奢りだってよ」
いや初耳、というユニゾンに軽く笑って、じゃあ財布置いてこなきゃと走ろうとすれば頭をはたかれた。痛いけど痛くない。十分に手加減されたそれは、「友人」という不可思議な距離感によるものらしい。僕にはまだよくわからない。
まったく、と傑が腕を組む。
「胡斗が三分で戻ってきたら奢ってあげてもいいよ」
「へえ、言ったね? 硝子さんタイムよろしく」
「おっけー」
「って速ッ何アイツ任務んときはとろとろしてるくせに!」
俺らより速いんじゃ、と悟の言葉を最後まで聞くことなく寮に向けて走り抜ける。
絆されるつもりはないし、必要以上に近づくつもりもない。ただ、あの野郎の思惑がわかるまでは。その企みの輪郭が見えるそのときまでは。
「……こういうのも、悪くないのかな」
途中で邪魔しに来た傑の呪霊を踏み潰し、悟が待ち受けていそうなルートをかわした僕のタイムは二分四十六秒。
やったね、と硝子さんとハイタッチをかわす横で傑と悟が本気で悔しそうにしているのは、普通に面白かった。
このあとちゃんと「廊下は走るな」というお説教タイムがあります。