久し振りに足を踏み入れた屋敷は、いつものごとく静かだった。
静かだと言っても、まああくまでも「音」としてはという意味だ。少し「感知」のできる者なら思わず耳をふさぐことだろう。上も下も右も左も、もちろん前も後ろも、ぎっしりと詰め込まれた「蟲」の気配。
ぎし、ぎし、と年代ものの廊下をきしませながら進んでいく。指示をうけて実家に戻ってからもう数日が経過していた。蟲のように無感情な使用人たちは何の感慨もなく僕の帰りを受け入れ、黒笹の術師とも特に顔をあわせることもなく。ただ「蟲」だけが僕の動きを監視している。といってもこれは昔からのことなので、変わらないと言えば変わらない。
実家に戻ってからこっち、特にすることがなくて困っていた。仕方ないから散歩ついでに実家の敷地内を歩き回ったりしているが、そこらの「蟲」どもに警戒されるだけで特に何も起こらない。結局いつも、自分の部屋の前の縁側で座り込んで呆けている。
何もないならもう高専に帰ってしまおうかと膝に頬杖をつくと同時に、高専に「帰る」なんて言葉を使った自分に呆れた。硝子さんではないが、最近確かに絆されすぎのような気はしている。
悟に、傑に、硝子さん、灰原くんに七海くん。夜蛾先生に先輩たち。
心を許しているつもりはない。アイツの思い通りにことが進むのは癪だから生き残って欲しいとは思うが、せいぜいそれくらいのもの。
呪術師として生きるなら、いつ誰が敵になるかもわからないと思ってしかるべき──そう教えたのはアイツということを考えると、それはそれで複雑なのだけれど。
ふと、ばさり、と耳元で大きな羽ばたきが響く。
「……うるさいよ」
余人には聞こえない蝶の羽音と囁きに似たものは、こうして隙を見ては僕の精神を削ろうと訴えかけてくる。
『意志薄弱』
『脆弱。呵々』
『所詮、空虚』
明確な言語をもっているわけではないので、伝わってくるのは思考と概念のみ。それでも十分に何を言おうとしているのかわかるのだから便利であり面倒だ。
決して味方ではない腹の中の蟲は、僕への嫌がらせが趣味と言ってもいい。真面目に取り合うつもりなどなくとも、耳元で囁かれ続けるのはさすがに勘に障るものがあった。
黒笹の術師にとって蟲は力だが、同時に毒でもある。蟲に呪力どころか精神までも食い尽くされ、操られるままに呪霊を刈り続ける者や、蟲の存在に堪えきれず自ら命を絶って結局食われてしまう者、──そうならない者のほうが少ないくらいだ。
しかも、腹の中の蟲のほかに黒笹という家に寄生する「蟲」までいるとあっては。
「……自分の意志で生きている人間なんて何人いるんだか」
「はは、まるで君は自分の意志で生きていると言わんばかりの口ぶりだね」
突如として背後から聞こえた声。襖を一枚挟んだ向こうに声の主はいるようだが、今も気配はない。
僕が背にしているのは自分の部屋のはずだが、まあ勝手に入られたくらいで目くじらを立てるつもりはない。黒笹にプライバシーなど皆無だ。
振り向くつもりはなかった。顔なんか見ても無駄なだけ。また違う声になっている。それでもアイツだとわかってしまうのは、何となくとしか言いようがない。
「呼び戻しておいて数日放置はあんまりでは?」
「ああ、すまないね。野暮用でしばらく外に出ていたんだ」
おかえり、胡斗。高専は楽しんでいるかい、と。
欠片も心のこもっていない、上滑りするだけの言葉はどこまでも気色悪い。返事をする気にならなくて黙っていると、背後の気配は喉の奥を揺らした。
「相変わらず可愛くない子だ」
「さっさと本題を済ませてくれませんか」
「そんなに高専が恋しいかい?」
「ここより静かなのは確かですね」
本人にはほとんど気配がないくせに、そいつが現れると蟲たちがうるさくて仕方がない。警戒なのか歓喜なのか、がちゃがちゃと騒ぎ立てる蟲たちを意識して腹の底に押し込めた。
そんな僕をにやにやと見つめている気配に、知らず小さくため息が出る。
「まあ、そう邪険にしないでくれ。これが最後だから」
最後。その言葉に全身に緊張が走る。
呪力をあえて高めることはしない。しかし鋭く研ぎ澄ます。神経を集中させ、周囲のわずかの呪力の揺らぎも見逃さないように。
これはもう反射だった。いつかそういう日が来ることを覚悟していたからこそ。
「……最後、ですか」
「そう、最後。……慌てるなよ、殺すとは言っていないだろ?」
「殺す以外の『最後』があると?」
「はは、何を思い上がっているんだい、胡斗」
君に、そんな価値があるとでも?
体内で押し込めていた毒が、まるで染み出すよう這い上がってくるのを感じた。
*
もともとが薄暗いこの屋敷は、夜の帳が落ちてもさほど空気に変わりはない。活発に動き出す蟲の種類が変わるくらいで、相変わらずひとの気配は薄い。
そんな場所だからこそ、携帯の着信はやたらと大きく響いた。緩慢に腕を動かし、それを耳に当てる。
「……はい、黒笹です」
『や、胡斗。いま大丈夫かい?』
耳元から聞こえてきたのは笑顔がうさんくさいほうの同期。背後で何やら騒いでいる気配がするのは悟だろうか。
そういえば、いつもなら気まぐれなホットミルクの時間だ。悟がひとりで騒いでいるわけでもなさそうだから、今日は後輩たちでも一緒にいるのかもしれない。
賑やかすぎる陽の気配は、この屋敷にいると眩しくさえ感じられた。
『まだご実家にいるんだろう? 数日で戻ると言っていたのになかなか帰ってこないから、どうしたのかと思って』
「ああ、……いや、実家のほうが何かと立て込んでてね。でももうほとんど片付いたから、あと二、三日かな」
話はすべて済んだ。
この屋敷にもう寄生虫の気配はなく、二度と訪れることはない。
アイツは「最後」だと言った。黒笹との繋がりをこれで断ち切ると。
『蟲を使った
高専にわざわざ
幾度声が変わろうと、この感覚だけは変わらない。
『いくら気配の薄い蟲でも、存在を認知されてしまえば
『唯一と言っていい
『まあ、思ったよりは便利だったし楽しめたから許してあげよう。準備も整った』
『──胡斗?』
耳元で響いた声にはっと我に返る。金気に熱を吸われたのか、携帯を握る手が冷たくなっていた。そのくせうっすらと汗をかいているのが気持ち悪い。
いぶかしむ傑にごめんごめんと軽く返し、何の話だったっけと空とぼけた。
『……何かあったのかい?』
「いや? ちょっと眠いだけ。それで、どうしたの?」
ふうん、と納得したのかしていないのかわからない相槌を打った傑は、気を取り直したように続けた。珍しく、少し弾んだ声色だった。
『今日、悟との任務で少し遠出してね。任務自体はたいしたことなかったんだけど、任務先でいかにもって感じの古めかしい定食屋があって』
「悟が入りたいって駄々こねたの?」
『ああ、悟には物珍しかったらしくてね。まあ他に店があるわけでもなかったし、とりあえず入って適当に定食を頼んだんだけど』
適当な相槌を打ちながら、傑が電話でこんな世間話をするのも珍しいと首をひねる。電話の奥の喧噪を咎めないのも珍しい。結構うるさい。
『出されたものを食べたら、それはもう驚いて』
「へえ、そんなに美味しかった?」
『ははは、逆。死ぬほど不味かった。飲み込めなくて吐き出しちゃったよ、行儀悪いけど』
いやそれのどこが愉快なんだと引いた声をだしても、傑は愉快そうに笑うばかり。
それどころか胡斗のせいだなんて意味不明なことまで言い出して、不味かったどころか脳みそを狂わせる毒でも入ってたのかと。
僕が理由を尋ねるより先に、だって、と傑は柔らかさを含んだ声で言う。
『君のせいで、呪霊の味を忘れたから』
「……ん?」
『呪霊より不味いものはないからね、今まではどんなものでも結構普通に食べれたんだよ。美味しいとは思わなくても、まあ飲み込むくらいなら』
あの夜から数ヶ月の試行錯誤の末に、とうとう自分の呪力に呪霊を溶け込ませて取り込むことを成功させた傑。まだ経口摂取ほどスムーズにはできないようだが、格好つけでプライド天元突破の彼のことだからもう数ヶ月後には一瞬で取り込んで一瞬で使うくらいのことはやってのけるだろう。
穢れの塊だと考えれば当然のことだが、どうやら呪霊というのは相当に美味しくないものであったらしい。そりゃあ世界でいちばん不味いものを知っていれば、他のすべてはマシに思えることだろう。しかし経口摂取をしないでよくなったことで、もうほかの「不味いもの」を「呪霊よりマシ」とは思えなくなった、と。
食べられるものが減ってしまった、とあっけらかんとした声が鼓膜を揺らした。
『君のせいで、君のおかげだ。ありがとう、胡斗』
──ふと、脳髄の傍で何かが
僕という人間が作り替えられたような、まるで羽化をした蝶のような。言葉で表現できない不思議な感覚だった。
「……そう、」
脳髄を伝い、脳の中で鳴り響くのはあの寄生虫の声。
『君は本当に愚かで可愛いね。哀れを通り越して滑稽だ』
『私に反抗する態度を見せながら、私の言葉にいつも踊ってくれて』
『嬉しかっただろう? 私に褒められるのは。他の
『私の邪魔をして、私の視界に入りたかった? まるで稚児だ。いや、
『気付いてないんだろうね。黒笹で一番私に忠実だったのは君だったということに』
『君は
『まあちょっとした保険に過ぎなかったんだけどね。それももう十分だ』
『つまり何かというとね、胡斗』
『──
生きようが死のうが、何をしようがしまいが、何も変わらないから、と。
もう好きにしていいよと言ってアイツは消えた。ほかの
何を今さら、と言い返したかったのに口は動いてくれなかった。手は冷え、唇は震え、どこまでも無様で浅ましい羽虫が縁側に座っていた。
その気配が完全に消え、蟲の巣窟を創り上げた寄生虫が飛び立っても僕は動けないまま。涙が出なかったのは最後の意地だったのか、それとも泣く気力すらなかったのか。腹の内の蟲だけが歓喜に滾っている。
ふと、精神が蝕まれていくのを感じた。自分という「個」が希薄になっていく。すり減り、削り取られ、──それでもまだ残っていた聴覚が捉えた外との繋がり。
『……胡斗? 寝てるの?』
傑の声が脳を揺らす。は、と息を吐くと口角があがった。起きてるよと反射的に返し、一気に昂ぶっていく呪力の波を抑え込む。
「……御礼を言うべきなのは僕のほうかもしれないね、傑」
ざわりと周囲の蟲が殺気だった。が、構うことはない。まとめてかかってきても僕の方が強い。何なら羽の一片も残さずに駆除してやる。
何の話だい、と傑の声が先ほどよりも遠くに聞こえた気がした。
「そうだな、……すごく、やなことがあったんだ」
恥辱、屈辱、──言葉なんてどうでもいい。
僕の「これまで」を叩き壊すほどのそれ。今だっていっそ死んでしまいたいような気持ちが脳の片隅に存在している。だが、そう、「片隅」なのだ。脳の中心に、思考の軸に鎮座しているわけではない。
僕は弱いのに思い上がっていた矮小な存在に過ぎなくて、何の価値もない。だけど確かに──
こうして特級を冠する呪術師に、滴を一滴垂らした程度の影響を残したように。
『虫籠の中で私の与えた餌を食んでいるのは、楽だっただろう?』
脳内で呪いのような声が反響しても、もう僕の精神は揺らがない。
──ああ、認めてやるとも。今まで僕の力を評価してくれるのはアイツだけだった。「君ならこの程度の任務で手こずることはないだろう」と任務に送り出してくれたのも。「蝶」の僕に呪術の手ほどきをし、飲み込みがいいと褒めてくれたのも。
確かに僕はアイツの虫籠のなかで蠢いていた羽虫の一匹に過ぎない。あらゆる餌を与えられ、どのように育つのか暇つぶしついでに観察されていただけ。僕はそれを、わかっているつもりでわかっていなかった。
そして虫籠ごと打ち捨てられた今、──僕はショックを受けている。僕は辛かった。哀しかった。僕は自分の価値を信じていたかったのだと。認めたくないけれど、受け入れよう。
そのうえで僕は
「落ち込んでた、……のかな。情けないね」
『……胡斗が弱音を言うなんて、余程のことなんじゃないのかい』
「うん、きっとそう。けど、もう大丈夫」
今は違う。落ち込んでなどいない。苛烈なほどに燃え上がるこの呪力がそれを証明している。
端的に言えば死ぬほどムカついている。それはもう、はらわたが煮えくりかえりすぎて僕の中の蟲たちを蒸し焼きにしてしまいそうなほど。感情を制御するのが呪術師だと言われてきたが、もうどうでもよかった。
この感情にケリをつけられるのなら、この先の僕の人生すべてを懸けても構わない。
「絶対に、思い通りになんかさせてやらない」
一匹の蝶の羽ばたきが遠く離れた地で嵐を引き起こせるなら、
絶対にやってみせる。たとえ、ほかの何を犠牲にしても。
『……よくわからないけど、元気になったならよかったよ』
「おかげさまで。ああ傑、さっきは二、三日って言ったけど、高専に戻るにはもう少しかかると思う。僕の部屋の蜂蜜勝手に使うのは構わないけど、ちゃんと補充しとくように悟に言っといてね」
『はは、お見通しか。伝えておくよ』
電話の奥の騒がしさがまた戻ってきた。その賑やかさが、少し懐かしい。
そこに戻る前に、もう少し情報を集めて準備をしておく必要があるだろう。アイツを失った当主たち直系がどうなっているのかも確認しないといけないし、黒笹に残っているアイツの痕跡をすべて洗い直して情報を整理しなくては。
アイツの目的の詳細は僕も知らない。だが、しようとしていることのいくつかは知っている。
確実に動くとわかっている日に
「満月までには帰るから」
一寸の虫にだって五分の魂があるのだ。
虫ケラにも意地があることを、あの脳髄の奥にまで思い知らせてやる。
ようやくタイトル回収はじめ。