それは、まだ月が太り始めるずっと前のこと。
別に出掛けること自体を苦としているつもりはない。呪術師を夜の生き物と捉えていたとは言え、社会に適応した生活はちゃんと送ってきている。僕だって日光を浴びて目を細めることはあるし、ひとの多い都会の街並みを歩くことはあった。
とはいえ、これは、……さすがにちょっと。肩に食い込んだショップバッグの紐のおかげで、とっくに腕は痺れきっている。
「……硝子さん、まだ買うの……?」
「まじで辛そうじゃん。ウケる」
いやウケねーよ。つい口から転がり出そうになった言葉をすんでの所で飲み込んだ。もはや中身など知りたくもないショップバッグたちがぎちりと自身の重みで悲鳴を上げる。
今日は硝子さんとふたりで買い物に出ていた。お察しの通りデートのような微笑ましいものではなく、夏が来る前に必要なものを買いそろえておきたいという硝子さんの「荷物持ちをしろ」という要請を受けての外出である。予定があったわけでもなかったので軽くOKしたのだが、これなら任務に出ている傑や悟が帰ってくるのを待つべきだった。
これまでのお給料を湯水のように使う彼女が差し出してきたショップバッグはすでに十どころか二十を超え、もう数えている余裕もない。
「まだまだこれからなんだけど?」
「硝子さん、もはや買い物より僕を苛めることが目的になってない?」
「え~~~まさかぁ」
「何て心のこもってない否定」
愉悦に笑う彼女の手に煙草はない。吸わないのかとふと尋ねてみれば、歩き煙草はダメだろとあっさりと返される。喫煙が許される場所でしか吸わないという常識は持っているのに、どうして「煙草は二十歳になってから」という法律は守れないのだろう。相変わらず彼女の頭の中はよくわからない。
上機嫌で淡い色のシャツを羽織る硝子さんに、引きつる頬を堪えながら近くの喫茶店を指さした。スイーツでも奢るからせめて休憩を許して欲しい。
「私甘いもん嫌いなんだけど」
「そこをなんとか。甘いもの以外でも何でも頼んでいいから」
「なに、素直じゃん」
「ご存知のとおり僕は肉体労働派じゃないんだよ……」
いや、それでも
何度も繰り返すようだが僕は別に体力や腕力がないほうなわけじゃないし、何なら呪力で強化もしている。単純に硝子さんの買い物量と時間がそれを軽く上回っているのだ。
その証と言っては何だか、さっきから通り過ぎる人々に三度見されていて非常に落ち着かない。残念ながら僕はあくまでも凡人なので、あの我が道しか知らない目立つことに慣れすぎている特級ば……悟たちとは違うのです。
まーいいけど、と店の方に足を向けた硝子さんに安堵しつつ、改めてずり落ちかけたショップバッグを抱え上げた。
*
「季節が変わる前とは言え、ずいぶん散財したね」
「そりゃ荷物持ちがいるときに買っとかねーとな」
「はは……次は僕以外でよろしく」
オープンテラスのある明るい喫茶店に入り、ようやく荷物をおろすことを許された。手元の水を一気に飲み干し、適当にオーダーを済ませて硝子さんを向かい合う。
我がクラスメイトさまは頬杖をついてそんな僕の様子をにやにやと眺めていた。いや本当に良い性格をしていると思う。
「……僕は何か硝子さんに悪いことをしたかな?」
「別に? むしろ黒笹がこき使われたがってると思って声掛けたんだけど」
「……え?」
聞き捨てならない言葉を聞き返そうとしたところで目の前に珈琲が置かれる。ついでにと頼んだサンドイッチを受け取って店員の背を見送り、改めて硝子さんに顔を向けた。
相変わらずしっかりと愉悦を浮かべた顔がこちらを向いている。
「黒笹、ひとに借り作るの苦手っしょ。苦手っつか慣れてない? どう見ても人間関係ド下手くそで友だちいなさそうだしね~」
「すごい、一言どころじゃなく余計だね」
「私の鍛錬にもなるし、気にしなくていいっつってんのに」
「……、」
硝子さんが言っているのは、少し前から付き合ってもらっている件についてだろう。
僕の頼みに彼女は軽く頷いてくれ、特に何を気にしている様子でもなかったのだが、確かに僕としては「借り」をつくっているという認識だった。時間と労力を割いてもらっている以上は何かお返しをしないととは思っていたし、今日の荷物持ちを引き受けた理由にそれがないとも言わない。
とはいえ、それを見抜かれていたとは思わなかった。何とも言いがたい気持ちになり、つい苦笑が漏れる。
「手を借りたら対価を支払わなきゃ落ち着かないって、まじ黒笹って呪術師だよね」
「ああ……うん、そうかもね。そっか、じゃあ気を使ってくれたんだ。ありがとう、出来たらもう少し別の形で対価を支払いたかったけど」
「いいじゃん、大変な方が対価支払った気になるっしょ」
「……ハイハイ、硝子サマの仰るとおりだよ」
まったく、彼女を同期の中でいちばん話しやすいと感じるのはこういうときだろうか。
僕の都合など知ったことじゃないという顔で珈琲を傾ける彼女だが、その実いちばん僕の
そういう意味では確かにありがたい、と心の中だけで呟いて僕も珈琲に口を付けた。ついでのように手元のサンドイッチに齧り付く。キュウリの程よい塩気に自然と二口目以降が続いた。
ごく、と自分が思うよりも大きな音をたてて最後のひとくちを飲み込んだ。
「……硝子さんに頼んだ件、思ったよりも順調で驚いてるよ。さすがだね」
「まーね。ってか今さらだけどいーの? アレ黒笹にとっちゃ奥の手っぽいのに」
「だからこそ、だよ。何でも保険はつくっておかないと」
「ふーん? 私を敵にまわせなくなっちゃうけど」
「あれ、僕はこれでも硝子さんの敵になるつもりはないんだけど」
「え、まじで」
「まじだよ。硝子さんだって好んで僕の敵になりはしないでしょ」
「ないよ、寮に出た虫退治してくれるやついなくなるじゃん」
「ああ……悟もまあそうだけど、傑がゴ……例のあの虫苦手なのは意外だったな」
「デカい野郎二匹が黒笹の後ろで縮こまってるのはまじで笑えた」
極力近づきたくないという様子のふたりの姿が思い出され、肩が揺れる。僕は虫という生き物が区別なく嫌いなのでどの虫だろうが何の感慨もなく殺すのだが、どうやらあのふたりはそうではなかったらしい。うちにはあんなモン出なかったんだよ、いや私もあの虫だけはちょっと、と言いながら僕の背を押す大男ふたりは確かに愉快だった。
あれほどまでに呪われているのなら、あの虫の呪霊が生まれたらさぞや等級も高いことだろう。ぜひともあのふたりに抜祓にあたってほしいものだと思う。
と、さすがに食事の場でそれを話すほどマナーを知らないわけではない僕と硝子さんは別の話題で雑談を重ねて店を出た。相変わらずえげつない量のショップバッグも、休憩さえ取れれば堪えられないほどではない。
「それで、次はどこのお店行くの?」
「お、帰ろうって言わねーの偉いじゃん」
「これが対価だなんて気遣いをもらったらね。気の済むまで付き合うよ」
「よっしゃ、じゃあ次あのビルのテナント全部見るから」
「待ってごめんわかったコインロッカーか荷物送れるとこ先に行かせて。もしくはあのふたりを、あ、ほら出張帰りで近くにいるみたいだよ。呼ぶね」
「前言撤回はやすぎウケる」
いやそりゃそうでしょ、と遠い目をしながら僕はメールを寄越してきた傑の連絡先を選ぶ。
何階建てなのか数えるのも嫌になるビルを前に、出張の疲れなど微塵も感じさせない声が遠くに響いた。
次からちゃんと満月の日の話に入ります。