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お前、競馬場って知ってるか……知ってるわけねぇよな。まだほんのチビなんだから。簡単に言えば、馬が集まって駆けっこする場所だよ。楽しいぞ。大人になったら行ってみるといい。
禪院甚爾とはよく競馬場で会ってた。競馬場だけじゃなく、競艇とか競輪も。賭け事が好きなんだ、あいつは。
あの日の待ち合わせも競馬場だった。大井っていう平日もやってる所で、客はみんな新聞を睨みつけながら馬券を買ってる。梅雨の晴れ間、蒸し暑い日だった。遅れてやって来た甚爾は見慣れない服装だ。青みがかった灰色の作業着。当時は工事現場で働いてたらしい。笑えるよな、地道に肉体労働していたなんて。堅気の仕事をしてたのは、ガキが嫁の腹の中にいるってわかった辺りからだよ。
甚爾は当然のように俺に焼きそばだったかタコ焼きだったか奢らせて、ビールで流し込んでた。俺も隣に座ってビールを呷る。で、甚爾は文句つけてきやがった。わざわざ平日に呼び出してんじゃねぇ、って。
「早く帰ってきてガキの顔見てやれってうるせぇんだよ、アイツが」
アイツとはもちろん甚爾の嫁のことだ。どんな女なのかは知らねぇ。何の因果か、所帯を持つずっと前から俺と甚爾は付き合いがある。腐れ縁ってやつだよ。そのせいか、この男の印象は初対面のままで止まってる。クソ生意気なガキ。まさか父親になるなんてなあ。笑いながら言い返してやった。
「お前が嫁の尻に敷かれてるとはな。そもそも待ち合わせ場所に競馬場を指定してきたのはそっちだろ。良い父親ヅラすんなよ」
「うるせぇ。一年近く競馬我慢してたんだよ。口出しすんな」
口論しているうちにレースが始まった。大井競馬場のコースは砂地で、競走馬たちが走ると砂が舞い上がる。なかなか見ごたえのある光景だよ。
戦いはあっという間に決着がついた。馬券をぐしゃぐしゃに破り捨てている様子から察するに、甚爾は盛大にスッたらしい。
競馬はラジオ中継しててな、馬の情報を解説してるんだよ。ナントカっていう馬は親父も有名な馬で、誰より速くなるだろうと期待されていた。それが最下位に終わるなんて番狂わせもいいところだ、とか、まあ、いろいろだ。くだらねぇよな、馬の世界も血筋が第一だなんて。
狭い椅子にふんぞり返って、悔しそうに天を仰ぎ見てる男。普段の姿からは想像もつかない間抜けぶりだ。ビールを飲み干し、横から話しかけた。
「動物でも商売道具にされんのはたまんねぇだろうなァ。な、万馬券当てたことあんのか?」
「つまんねーこと訊いてんじゃねぇ。万馬券が出る確率は8%ちょい、だいたい1日に1回は出るんだよ。たまたま俺が買ってねぇだけだ」
「なんだ、つまり当たってねぇのか」
「ひとこと余計なんだよ。まあ、当てたところで20%は胴元が持ってく仕組みになってんだけどな」
甚爾は博才がないことの言い訳をペラペラ並べ立てた。俺は聞き流し、ビールのカップを握りつぶした。本題に入る。
「……万馬券より確率低いこと、あるだろ? なんだと思う」
甚爾は怪訝な表情を浮かべ、知るわけねーだろ、と答えた。にやりと笑って、上着の内ポケットに手を伸ばす。差し出したのは茶封筒だ。受け取った相手はぞんざいな手つきで中身を確かめ、それからポカンと口を開けた。握られていたのは数枚の万札。
「何のカネだ? 最近お前と仕事したか?」
「ばーか。祝ってやってんだよ。ガキが健康に生まれる確率なんて数万分の一だろ、たぶん。貴重な万馬券、当てたな」
くっくっと笑いながら分厚い肩を叩いた。昔馴染みの男は思いきり顔をしかめ、手を振り払う。
「……出産祝いぐらいフツーに寄越せよ」
「いらねぇなら返してくれてもいいぜ」
甚爾は金を封筒に戻し、作業着のポケットに捩じ込んだ。要るらしい。素直じゃないくせにわかりやすい奴だ。
再びドカっと腰を下ろした甚爾は、次のレースを眺めている。倣ってコースに視線を投げた。またどこかの名馬の倅か娘が競走している。馬たちは歓声とも罵声ともつかぬ声援を受け、懸命に駆けていく。
「……ガキが優秀に育つ確率は?」
不意の質問に、咄嗟に返事が出なかった。甚爾は視線を前方に据えたまま、淡々と続ける。
「ガキが馬鹿みたいに強い力を持ってる、そんな確率も誰か計算しろよな」
横顔はあくまで静かで、だからこそ体に染み込んだ苛立ちを感じさせた。
ふと想像したよ。禪院とかいう家で、この男が受けた侮蔑を。侮蔑、って、まあ……子どもが知る必要のない言葉だ。何気ない口調で訊き返した。
「なあ。勝算はあるのか? ガキが強い力の持ち主に成長する。あるいは……」
ちらりと横目で確認した甚爾は、相変わらずの無表情だった。もうひとつの未来を口にした。
「呪力を持たないガキを、平和に育てる。嫁と仲良く。ハタから見てりゃ負け犬だ。だが……」
そういう人生のほうが"勝ち"だ。フツーの奴にとっては。その言葉は飲み込んだ。
「お前にとっての勝ちはどっちだ?」
こちらに向けられた瞳は昏かった。言わずもがな、なのか、初めての質問に戸惑っているのか。しかし、すぐに不敵な笑みを浮かべた。
「決まってんだろ。最強の馬にする。サラブレッド共を蹴散らすような。そしたら賭けは勝ちだ」
その瞬間、周りが一斉に沸き立った。レースが終わったらしい。歓声に包まれた競馬場には、同時に怨嗟の怒号も響いていた。勝ち馬がいれば負け馬もいる。そんな場所だ。甚爾は悪態をついて立ち上がった。帰る、と吐き捨て、食べモンのゴミを俺に押しつけて去ろうとした。呼び止める。
「禪院」
振り向いた男の表情は、見慣れたものに戻っていた。退屈、と顔に書いてある。俺は声を張り上げた。
「死なねぇようにしろよ。どうせお前、そのうちこっちに帰ってくるだろ。堅気の仕事は向いてねぇんだから」
返事はなかった。代わりに口を歪ませ、静かに笑っただけだ。それからふいっと背を向けた。なんの未練も感じさせない動きで。
客席の合間を進み、遠ざかる背中から漂うのはなんだったんだろう。おそらく諦念。作業着なんかじゃ隠せないぐらいの。
どうだ?
これがお前の親父の話だ。他愛もねぇ話だが、俺が見たお前の父親だ。
***
回想を終え、ふ、と息をついた。
眠る赤ん坊の頬にそっとふれる。恵、と名付けられたガキ。
散らかった1LDKの部屋の中、ベビーベッドに眠っている。まだ人間になってないんじゃないかと疑ってしまうほど丸くて柔らかい赤子。
もちろん、今までの思い出話は声に出したわけじゃない。けれど甚爾の息子に父親のエピソードをひとつ語るなら、まあこんなモンだろう、そう思って語りかけるつもりで記憶を辿った。くだらねぇ。珍しく感傷的になったもんだ。
ベッド脇に置かれた椅子に深く腰掛け、無意識に胸ポケットの煙草を取り出していた。すぐにしまう。さすがに禁煙だ。小声でガキに話しかけた。
「出産祝い渡してからまだ一年も経ってねぇのになあ。因果なモンだぜ」
そのとき、玄関から物音がした。部屋の主の帰還だ。狭い廊下を巨躯がずんずん進んでくるのが見え、居間に甚爾が顔を出した。
「おい。恵、ちゃんと寝てたか?」
尋ねる男の右腕には血が付着している。仕事でついた返り血を洗い流しきれなかったのだろう。呑気に寝てたぞ、と答える。甚爾は洗面所に向かったらしい。水音を聞きながら質問した。
「いつまでひとりで育てるつもりだ? ベビーシッター雇えよ。俺だって暇じゃねーぞ」
「今日はたまたま都合つくオンナがいないだけだ。好きこのんでテメェに頼むかよ」
尖った声に苦笑する。ずいぶんな言い草だが、しおらしくされるよりずっといい。
嫁が死んで間もなくの頃、甚爾は酷いツラだった。見兼ねて食料を買ってきてやったのがきっかけで、折にふれアパートに足を運んでいる。あいつはいつも素気なく礼を言い、札を数枚渡す。俺は黙って受け取る。そんな日々が数ヶ月続いていた。
部屋の空気が変わったのを悟ったのか、恵が目を開けた。ふぁ、としゃがれた声を合図に泣きはじめる。短い手足をばたつかせ、顔を真っ赤にして。庇護者を呼んでいるのだ。
「ご指名だぞ、パパ」
「うるせーな。今行く」
甚爾はドタバタと居間に踏み込んできて、恵を抱き上げた。太い腕に不釣り合いな小さな赤子。まだ泣き止む気配はない。
テーブルの上の茶封筒を示され、謝金を手に取った。去り際に甚爾の肩を叩き、軽い口調で話しかける。
「なあ。勝率はどうだ? そのガキが万馬券に化ける確率は」
切れ長の目を伏せ、男は考え込んだ様子だった。やがて薄く笑った。一年前と同じように。
「さあな。どっちでもいい。俺が育てりゃ同じ話だ。勝率100%だよ」
唇の端に寄り添うように、傷跡が歪んで見えた。
そうだな。相槌を打ち、背を向けた。振り返って見た甚爾の後ろ姿はやけに小さく見えた。
ドアを閉める直前、内心で問うた。
甚爾。
今でも、賭けに勝ちたいか?
終