屋敷を出る前に、リゼのわたしはハンナに捉まってしまった。
わたしが生まれる前からこの屋敷でメイド長をしているハンナは、わたしに対しても厳しい態度を取る厳格な人だけど、リゼに対する態度は全然、そんなものの比ではなかった。
まず遠くからわたしを呼び止め、服やヘッドドレスの乱れを指摘された。
当然部屋を出る前に鏡の前で身だしなみを整えてきたわたしにとっては、一体どこが乱れているのか分からない。
言い掛かりに等しい指摘に思わず文句を言うと、彼女の前で何度もリボンの結び直しをやらされた。
ようやく(偶然にも)彼女が満足する仕上がりでリボンを結べたと思ったら、次は当たり前のように井戸からの水汲みを言い付けられた(まあ、これはメイドなんだから当たり前なんだけど)。
普段から厳しい厳しいと思っていたハンナだったけど、あれでも一応は手加減をされていたのだなと、わたしは重いつるべを引っ張り上げながら、思い知ることになった。
その後もいくつかの用事(主に力仕事)をハンナに見守られながらこなしたわたしは、ようやく開放され、隙を見て屋敷の裏口から逃げるように外に出た。
そこでホッと溜息を吐いたところに、木陰から小さな声がした。
「おい……。おい、お前」
生まれてこのかた、そんな失礼な呼び止められ方をしたことのなかったわたしは、凄く新鮮な気持ちで振り返る。
街路樹の木漏れ日に照らされて現れたのは、なんとあのノイン君だった。
あの夜、今とほとんど同じ場所で、ミハイル様姿のわたしを呼び止められたときのことを思い出す。
こっちに、という身振りに誘われてわたしは彼と同じ木陰に身を寄せた。
王宮でもこうやって人目を忍ぶようにして語らい合う男女の姿を何度も見掛けたことがある。
これも端から見たら、逢引きしているみたいに見えないかしらと少し心配になる。
「お前、アシュリー様の侍女だろ? あの夜、ヒーストン伯に俺たちを引き合わせてくれた」
「メイドのリゼでございます」
せめて名前で呼んであげてよね、と思いながら名乗る。
「ミハイル様を探してるんだ。もしかして、この屋敷の中にいたりしないか? 人目を忍んでアシュリー様と逢瀬を重ねている、とかさ……」
「えっ……、ぇえ!?」
突拍子もなく、かつ的外れな質問に思わず脱力する。
「おりません。先ほど、他の騎士団のかたもお尋ねになっていたようですが?」
「いや、俺たちに内緒で匿ってるとか……、いや……ないよなあ」
自分でもおかしなことだと気付いたのか、ノイン君はあからさまに消沈したように肩を落とした。
そんなこと、もし、仮にそうだとしても、屋敷のメイドが勝手に口を割るわけがない。
「一体どうしてそんなお考えを?」
「いや、あの夜の団長の様子が明らかにおかしかったからだよ。姿を消す前の団長が、一番らしくない行動をしてたのがこの屋敷の前だ。きっと何かあると思って……」
確かに何かはあった。
その件はもう解決したのだけれど、ノイン君ら騎士団の人たちに、おかしな行動と思われることをしでかしていたのは、ミハイル様ではなくわたしだ。
わたしのせいで、ミハイル様の捜索に支障を来たしていると考えると申し訳ない気持ちになる。
「わたしも……、この家の者たちもミハイル様のことは心配いたしております。実は、今もアシュリー様から少しでも手掛かりとなる情報を掴めないかと言い付けを受けて出てきておりまして……」
「何か、当てはあるのか?」
いや、ないわ。
わたしだってノイン君の当てずっぽうの行動を笑えないわねと自嘲する。
騎士団の人たちですら、こんな有り様なら、わたしが当てもなく探したところで首尾よく事が運ぶとは思えなかった。
あ……、そうだ。
何か自分の体裁を取り繕える言い訳はないかと考えて、懐に忍ばせた自分のメモ書きのことを思い出した。
「これを……」
わたしが差し出した紙片に目を落としジッと考え込むノイン君。
その真剣な表情を見て、これを見せてしまったことが早計だったと気付く。
「あ、これは御内密に。アシュリー様の単なる思い付きなのでございます。これらの情報から、何かミハイル様に思い当たることがあったようにお見受けされたので……」
ノイン君はなおも真剣な表情を崩さず、紙片を見つめながら考えに耽っていた。
「……いや、これは貴重な情報だ。少なくとも行ってみる価値はある」
「行ってみる? ……一体どこへでございますか?」