「この鏡は証拠として持ち帰る必要はない、ということでよろしいですか?」
わたしは因縁の鏡を元あった台の上に掛け直し、手の埃を払いながら、後ろにいる騎士団のお二人を振り返った。
今わたしたちがいるのは寺院跡……、とは言っても石壁の多くは崩れ、往時の面影はほとんど残っていない。
長い年月のうちに石畳も砂と土で埋もれ、そこから草木が繁り、森の中に還ろうとしていた。
「持ち帰ったところでただの古い鏡ですからね。アシュリー様がいらっしゃる前に我々がこれを現認しておりますので十分ですよ」
「証拠というなら、我々騎士団のその証言と調書がそれになります」
エッガースさんとシュルツさんがテキパキとわたしの問いに答える。
やはりミハイル様がお側に置かれるだけあってお二人とも文武に優れてらっしゃるのね。
感心しつつ遠くを見やると、ノイン君がミハイル様に叱られている場面に焦点が合った。
「こら、ノイン。あちこち動き回るな。余計な足跡が付くだろう」
「うへぇ、す、すみません団長。ちょっと用を足そうと思って……」
近くに人家すらない森の中のボロボロの寺院跡。
それがアダナスの人間によって密会の場所として使われているのであれば、人が行き来した真新しい足跡が沢山残されているはずである。
わたしたちは逆に、それがないことを確認して、伯爵令嬢に掛けられた嫌疑の反証としようというのだった。
証拠としては弱そうだけど、こういった心証の積み重ねが大事なのだというミハイル様のお言葉に間違いはないだろう。
「団長! あちらに野営の跡が見つかりました」
「分かった。今行く」
遠くから声を掛けられ、ミハイル様は他の騎士団の方を引き連れて行ってしまわれた。
こちらには一切目もくれずに。
せっかく一週間も帯同しているというのに、わたしはミハイル様とほとんどお話しする機会に恵まれなかった。
明らかに、避けられている気がする。
そう感じるのはわたしの思い込みとは限らないだろう。
だって、わたしはすでにミハイル様自身の口からそのお考えをお聞きしているのだから。
決して個人的な情で伯爵令嬢に肩入れしているのではないのだと、万が一にもそんな噂が立たないように、ミハイル様はわたしには極力近寄ろうとはなさらないのだ。
それならそれで良い。
どうせ結ばれることがないのなら、
こんな悲しい思い、早く断ち切らなければ。
「参りましょう」
エッガースさんとシュルツさんに付き添われて、わたしは馬車が停めてある場所へ向けて踵を返す。
そのとき──。
「おい」
耳元で不機嫌に唸るように響く悪魔の声。
ああ、そうだった。
よく光る物を身に着けろと言われて、わたしは小さな円形の飾りの付いた銀のイヤリングをしてきていたのだ。
「まさか、このまま帰るとか言わねェよな? ひょっとしてお前、忘れてたなんてこと──」
「忘れてない。忘れるわけないでしょ」
足元を見たまま小声で返す。
エッガースさんとシュルツさんは少し前を歩いているので聞こえていないはずだ。
「これ以上鏡から離れたら約束を破ったと見なすぜ」
「分かってるけど、あの二人に変に思われないようにしなきゃいけないでしょ?」
鏡の悪魔とその呪いのことは、今のところ、わたしとミハイル様、それにリゼの三人だけの秘密だ。
エッガースさんとシュルツさんのお二人の前で、怪しげなことをして信用を損なうことは避けたかった。
「やっぱり馬車に戻った後でリゼにやらせるわ。わたしはずっと見張られてるもの」
「駄目だ。お前じゃなきゃ。お前がやれ」
我ながらチョロい女だ。
お前じゃなきゃだなんて、絶対そんな意味じゃないのに、そのフレーズがちょっとラブコールめいて聞こえ、悪魔相手にドキリとしてしまった。
「別に、ここまで来たらリゼでも構わないでしょ? どうせ沼に沈んじゃえば一緒なんだし」
「あん? お前はどうせ最後は死んじまうんだから、途中誰と結婚しても一緒だとか考えんのか?」
いや、それは極論。というか全然別の話なんじゃ……。
でもそれってやっぱり、どうせなら、リゼじゃなく、わたしの手で沼に沈められたいってこと?
前を行くシュルツさんが足を止めて振り返る。
それに気付いてエッガースさんもこちらを向いた。
「どうかされましたか?」
ヤバい。悪魔相手にブツブツ言ってたのが聞こえたんだわ。
え、えーと。
必死で頭を巡らせ、その考えに自ら顔を赤くする。
「す、すみません。先に、戻っていただけますか? ちょっと、は、はばかりに……」
二人のお顔を直視できない。
わたしはジッと足元を見つめて返事を待った。
見えないけれど、二人が互いに顔を見合わせるのは雰囲気で分かった。
「こちらこそ申し訳ない。気が利かずに。私たちはここでお待ちしておりますので、どうぞごゆっくり」
「すぐ。すぐ戻りますから」
ひー、恥ずかしい。
きっと想像されてしまったわ。
わたしは鏡が置いてあった広間の方へ急ぎ足で引き返した。
周囲を見回し、誰も見ていないことを確認してから台座の上の鏡に手を掛ける。
両手を左右に回してようやく持てるその丸鏡はズシリと重い。
鏡面がはめられているこの
悪魔が取り憑いている鏡と知れば、なるほどそうか、と頷けるおどろおどろしさがある。
「このすぐ裏手だ。干上がってなければな」
鏡に映るわたしの胸元からヒョッコリと悪魔が顔を出した。
どこから出てるのよ、と怒りたかったけど、我慢我慢。
言うとおり沼に沈めてしまえば、それきりお別れなんだし。
わたしは鏡を抱えたまま、崩れた石壁の隙間から顔を出した。
寺院の裏手は一面低い背丈の雑草が広がっていて、その先に、草が途切れる境界があった。
足元に注意し慎重に、でも、できるだけ急いでそちらへ歩いていく。
近くまで行くと、確かに悪魔の言うとおりの沼があった。
いや、想像よりも大分茶色い。
沼だと思って見るからそうと分かるのであって、一見するとただの泥溜まりに見えた。
透明度は0%。
本当に、こんな泥の中に浸かりたいと思う人がいるとは思わなかった。
いや、人じゃないか。
悪魔の考えることは皆目理解できない。
「本当にここに沈めていいの?」
「ああ」
本気の本気? と顔色を窺うつもりでもう一度鏡の中を覗く。
けど、悪魔の顔は相変わらず。
怒っているのか笑っているのかも分からない。
人間のような黒目と白目の境もない、吊り上がった裂け目のような目をしている。
「参考までに質問してもいいかしら?」
「許す」
「なんで、こんな汚いところが好きなの? 悪魔ってみんなそうなの?」
「馬鹿言うな。汚れるのが好きなんて、そんな奴いるかよ」
「だったら何で?」
なんで鏡を綺麗に拭いたことに怒ったの?
話の噛み合わない答えに対し、わたしはパチクリと目を瞬かせた。
「……ふッ、まあいいか、教えてやる。お前もじきに分かることだし。クフェフェ」
悪魔は鏡の中で浮き上がり、そこに映るわたしの周りをぐるりと飛んで回り、答えをもったいぶった。
「眩しいとなァ、眠れないのさ」
「……?」
「永遠に眠れないとなァ、退屈なんだ。死ぬほどなァ。まあ、死ねないんだけど。ケッケッケッ」
……そうか、悪魔も大変なんだなあ、なんてボンヤリと思った。
それで全部分かったというわけではないけど、なんとなく腑に落ちた気がする。
この悪魔はずーっとここにいて、一人でずーっとここにいて、寂しかったんだろう。
鏡に光が射している間はずっと意識があって、でも、どこにも行けなくて、仲間もいなくて……。
長い長い年月のうちに、飾られた鏡に埃と塵が積もって、ほとんど泥で塞がれた状態になって、それで、ようやくこの悪魔は眠りに就くことができたんだ。
そんな、この悪魔にとって救いとも言うべき状態を、わたしが壊したんだ。
布でピカピカに磨いて、悪魔の眠りを台無しにした……。
「……そんなの……、教えてくれないと分からないよ……」
罪悪感に胸が締め付けられるのを誤魔化すように、ポツリと呟く。
わたしの精一杯の悪態であり、謝罪だった。
「あん?」
「何でもない! それより、約束は守ってよ? わたしに掛けたあの呪いを解くって」
「あ? ……あァ」
なんとなく歯切れの悪い応答だったけど、このときのわたしは自分の後ろめたさを隠すのにいっぱいで、そのことに気付く余裕がなかった。
両腕を伸ばし、鏡を泥沼の上に掲げる。
重い……。腕がつりそう。
「どっち向きがいいとか、希望はあるのかしら?」
念のため聞いてみる。
上から太陽の光が射さないように鏡面は下向きにしてみたけど、落とした後で文句を付けられ、約束を反故にされては敵わない。
意思疎通の
なにしろ、相手は人間とはまったく感性の異なる悪魔なのだ。
「変なところ几帳面だなァ? まァ垂直だな。すぐに底まで沈むだろ? ……あァ! 違う違う。馬鹿、逆だ。お前の方に向けろ。そう、真っ直ぐ」
どっちが几帳面よ、やっぱりこだわりがあるんじゃない、と
そうか、この泥沼の底に沈んだら、鏡の悪魔が最後に見る光景がこれになるんだわ。
最後にわたしの姿を焼き付けたいだなんて、なかなか可愛らしいところあるじゃない。
「じゃあ、落とすわよ?」
「三つ数えろ。タイミングを合わせて……、そのゥ、それで同時に呪いを、解いてやる」
「いいわ。いくわよ? 三……二……一……、ハイ」
両手に込めていた力を抜くと、フッと全身から力が抜ける感じがした。
それと同時に視界がグラリと揺れる。
揺れる、というか……落ちる!?
落ちる……堕ちてる……し、沈んでる!?
ズブズブと泥に足を取られて身体全体が沈んでいく。
そのことに気付いたときには、もうすでにわたしの身体は腰の辺りまで沈み込んでいた。
わたしは目の前にあった青銅の鏡に必死でしがみ付く。
身体全体で。
あれ!? この鏡って、こんなに大きかったっけ?
でも、そんなことより、これでは駄目。
この鏡もいっしょに沈んじゃう。
なんとか岸に手を掛けて這い上がらないと。
そう思って振り返ったところに、後ろから手を掴まれた。
鏡の鏡面から伸びる真黒で細い、この腕は、あの悪魔のものだ。
半分ほど沈み込んだ鏡の鏡面から悪魔が顔を覗かせる。
自分も半分ほど沼に身体を浸けて。
まるで、わたしを道連れに引きずり込もうとしているみたい。
「っ! ……どういうこと!? なんで!?」
「ケケケッ、まったく、お前ってやつは本当に人を疑うってことを知らねェなッ。まァ、この場合、人って言うかどうかだが……。お前、よくこんな得体の知れねェ悪魔の言うことを丸々信じる気になったもんだ」
疑う? 信じる?
もしかして……、騙されたの、わたし?
「だがまァ、そういうとこが気に入ったんだけどな! クフェフェッ」