己を徹底的に痛めつけるのが大好きな超絶ドMウマ娘は周りから世界一の努力家と勘違いされている 作:座敷猫いおり
ウマ娘と内ラチによって包囲されているかのような逃げ場のない状況。しかも極端に皆が私の側に密集している今この状態は――間違いなく私にとって最高のレース展開だ!
そもそも水捌けがよろしいとは言えない阪神レース場。雨で濡れたターフの内側は、前のレースの出走ウマ娘に荒らされてぐっちゃぐちゃ。泥溜まり、とまでは言わないがそれに近い状態になった不良のバ場だ。それが、私の前方を走るウマ娘に跳ね飛ばされ
私の走法スタイルは顔を前に出し身体を沈み込ませるような超前傾姿勢。他のウマ娘ならばせいぜい泥が飛んでも胸元にかかるくらいだろうけど、私の走り方では直接顔にぶっかかるしぶち当たってしまうのだ。時速60キロを叩き出すウマ娘の踏み込みから放たれる泥水の勢い+自分の速度でぶつかる威力と来たらさながら泥団子を直接ぶつけられてるかのよう。たまに小さな砂利だって混ざってる。
私の白い髪は泥色に染まり、今日のメイクデビューの為にクリーニングに出してピッカピカにして貰った体操服が汚れていく。泥水が口に入って口の中がジャリジャリして苦い。いつもは走れば弾むような心地よいレスポンスをくれるターフの路面は
――ああ、もう最っ高だ! 気持ちいいいいいぃぃぃぃ!!!
ええ!? こんな素敵な
オシャレになんて気遣ってないけど、おじいちゃんやオグリさん……沢山の皆が綺麗だって褒めてくれるから、それなりに手入れして割と大切にしてる髪がドロドロになっていく
今日という日がメイクデビューなんて私はなんて幸せ者なんだ! いやっほぃ!
――と、ドMに現を抜かしている私だが決してレースで遊んでいるわけでもなければ他のウマ娘達を舐めているわけではない。どんなレース展開になっても負ける要素が見当たらないから好きに走っていい、と哲夜トレーナーから断言されたレースであるけれどそれはイコール慢心していいということではない。
だからこうして私は己の性癖を満たしつつテンション、気力、脚が最高潮になるまでチャージする。そして最終コーナーを回ったら直線一気で大爆発させる! それで勝つ!
――おいおい、周りから徹底マークされてラチに貼り付けにされているこの状況はどうするのかって?
うーん、いやね。私の前方と左前に併せるように走ってる3人……特にラチ側のスリーラブさんなんて、クラスでは私と同じくあまり目立たないタイプだけど、きちんとした基礎練習に裏付けされたレース技術に定評があるウマ娘。今も測ったかのようなベストで絶妙な位置を陣取っていて、
普通の前傾姿勢で走るウマ娘では出来ない、
そこで確実に抜く。
……のは良いんだけど、ちょっと気になる事があるんだよね。
さっきまで綺麗に走ってたスリーラブさんの様子がおかしい。なんか、挙動が乱れてる? 何かあったのかな……まさか! 彼女も
■■■
(はぁ、はぁ、はぁ、はぁっ――やばい、感触がおかしい)
スリーラブは焦っていた。明らかに、普段と感触の違う自分の右脚――を
(なんで……いや、これ――まさか、
間違いない、靴に装着している蹄鉄が外れかけている。
(嘘でしょ……レース前にもちゃんと付いてるか確認だって……!)
超人的な脚力を持つ彼女達ウマ娘の履く競争靴は並大抵の強度ではない。この世の陸上競技の靴の中で一番の頑丈さと言っても過言ではないのだ。しかしそれでさえもウマ娘の脚を守るプロテクターとしては心許ないのである。故にさらなる補助として靴に取り付けられるのが蹄鉄だ。
アルミニウム合金で出来たU型の蹄鉄を靴に装着すれば強度の底上げになるし、グリップ力だって増す。特に今のような不良バ場のターフでは滑り止めにもなる必需品。競争靴に蹄鉄が付いているかいないかでは天と地。その蹄鉄が――今、スリーラブの右靴から外れようとしていた。
基本的にきちんと靴に装着していれば簡単に落鉄はしない。だがウマ娘の全力走行時には1トンクラスの衝撃が発生していると語られる程の負荷である、不運が重なれば外れてしまう時は外れてしまう。
(お願いもう少し保って……! もしかしたら、もしかしたらこのレース……
後ろを走る
蹄鉄はすこぶる頑丈だが100グラム程の重さしかない。しかしそれでもウマ娘のパワーで蹴り飛ばされた時――100グラムという重さは、時として致命傷になりうる破壊力を宿すのは想像に容易いだろう、万が一が起こり得る。仮にぶつからなかったとしても、ターフに落ちた蹄鉄を踏んで滑って転倒する可能性だって考えられるだろう。
――落鉄による被害が出ても、それは責任問題には問われない。不確定要素の塊であるレースに置いて責任の所在がそもそもどこにあるか誰にも追求できないからだ。
だが責任に問われないから良いというわけがない。一着という勝者を決めるレースで一緒に走る相手は確かに敵で、ライバルで、蹴落とすべき存在。だが――同じ日本一のトレセン学園で同じ釜の飯を食い共に学ぶ
(お願い、お願い、お願い、外れないで――そうだ、前だ! ペース上げてもっと前に行けば、外れてもぶつかる可能性が少なく――)
スリーラブは必死に、そう願った。アスリートとして、誇りを持って対処しとうする。
だが――その願いは、競バの神様には届かない。
パキンッ。
ウマ娘達の怒涛に響く足音に混じって、踏み込んだ瞬間にそんな微かな金属音がスリーラブの耳に響いた。そして、途端に右足のグリップ力が限りなく低下した事を認識する。スリーラブから血の気が引いて、頭が真っ白になる――それを引き戻したのは、絹を裂く様な観客席の
おそるおそる、目を背後に向けると――。
額から派手に鮮血を散らす、ホワイトグリントの姿がそこにはあった。
■■■
あの美しい白い毛並みが、雨と泥に晒されて酷く汚されていく。
全員が女神の祝福を受けてこの世に生まれてくると謳われるウマ娘は、皆々が容姿端麗の美しい生き物だ。そんな美しい存在が、レースとなると、必死な形相を浮かべ、汗を垂れ流し、咆哮し、土埃で衣装を汚す。
それを初めて見る者は、あるいは可哀想と思う者がいるかも知れない。せっかくの美しさが勿体ないと思う者もいるかも知れない。けれども最後には誰も彼もが思うのだ、その必死さこそが見るものを熱く魅了するのだと。
勝つ為に、誰かの為に、大切な物の為に、必死で歯を食いしばる姿が尊く美しい。
――けれど、そのホワイトグリントという白いウマ娘は、何かが違っていた。フォームが他のウマ娘よりも低い故に、他のウマ娘から囲まれているから故に、跳ね上がった大量の泥水を頭から被っているのに……彼女は、笑顔を浮かべているのだ。
あれほど美しかった純白さが泥まみれになって見る影もなくなってしまっているのに、彼女から発せられる輝きが衰えるどころか――尚も増しているかのよう。
レースを楽しむように走るウマ娘は少なくない。レースで笑顔を見せるウマ娘が居ないわけでもない。それでも、かつて居ただろうか。周囲を覆い囲まれているというのに、それ故に更に泥と雨に塗れているというのに、あそこまで――レースを、走る事その物を愛しているかのような幸せそうな笑みを浮かべるウマ娘が。
彼女は、違う。何かが違う。普通じゃない何かを持っている。そのレース場に居た大観衆は感じ、そして幻視する。いつか、そう遠くない未来の
――立派な勝負服を身に着けて、GⅠレースの最前線を走る彼女の姿を。
しかしその時、悲劇は起きた。
「ッ! グリント!!!」
それは主賓席で見ていたタマモクロスさえも同じだった。白い稲妻の異名を持つ歴戦のウマ娘にとって、それが前方のウマ娘から外れた蹄鉄が額に当たってしまったという
それは不運。レース中に起きた不運でしかない事。競バという激しいスポーツの中で流血自体は決して珍事とは言えないのだ。仮にタマモクロスが同じ状況になった所で、視界が塞がらんならどうでもええわとレースに集中することだろう。
だけど、可愛がって目にかけている後輩だ。どうしても心配になるのは当たり前ではないか。
「オグリ! 大変や! グリントが……!」
「落ち着けタマ。グリントはちゃんと走れているし、大声を出す程の怪我じゃないのはわかってるだろう。むしろ心配するなら落鉄を
「なっ――!?」
なんやその物言いは! グリントを一番可愛がっとるのはお前とちゃうんか! とタマモクロスの血気盛んな血潮が一瞬だけ頭に上ったが――オグリキャップの力の限り
「……何もうちの前で格好つけんでええやんか」
「寮なら脇目も振らずタマに泣きつく。だがここはプライドを懸けたウマ娘達が走るレース場だ」
「ふぅー……知らん間にうちの大親友が大人になってしもて誇らしいやら悲しいやら……まあ、確かに心配するならグリントよりも、あの子の方やな。それとそこで泡吹いてぶっ倒れとるフリートか」
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やってしまった。
やってしまったやってしまったやってしまったやってしまったやってしまったやってしまったやってしまったやってしまったやってしまったやってしまったやってしまったやってしまったやってしまったやってしまったやってしまったやってしまったやってしまったやってしまったやってしまったやってしまったやってしまったやってしまったやってしまったやってしまったやってしまったやってしまったやってしまったやってしまったやってしまったやってしまったやってしまったやってしまったやってしまったやってしまったやってしまったやってしまったやってしまったやってしまったやってしまったやってしまったやってしまったやってしまったやってしまったやってしまったやってしまった。
どう償えばいいんだろう。どう取り返しをつければいいんだろう。
こんな状況の時の対処法なんて習ってない。教えて貰ってない。教科書にだって書いてなかった。
私はこのまま走ってていいのか? 走る? あれ? そもそも、走るって、どうするんだっけ――。
血を流すホワイトグリントを見て、スリーラブは完全にパニック状態に陥っていた。統計によれば事故による怪我はした方よりも怪我をさせた方が心理的混乱を及ぼす割合が高いと言う。
走り方が定まらない、ガクガクと足が震える。そもそも視線が後ろから離せない。スリーラブの心拍数が上昇し、思考が支離滅裂になっていく時――そこから考えられる
それを解決したのは意外にも――血を流す白いウマ娘の決して絶えない、スリーラブを見つめる優しい笑顔だった。
(……私、あなたに怪我させたんだよ? そんなに血を流させたんだよ? 痛いでしょ、辛いでしょ、苦しいでしょ……。私に怒らないの? 私にムカついてないの? なんで、なんで、なんでそんなに楽しそうに笑っていられるの――)
ホワイトグリントは、いつも無表情だ。
だけど頑張っている時、努力している時、そしてこうして走っている時――いつも彼女はこうして、心の底から楽しそうで、同姓でも見惚れてしまうくらい素敵な笑顔を浮かべる。
その理由が知りたくて、スリーラブはホワイトグリントと同じレースに出た。勝てる自信なんてほとんど――いや、本音を言うなら全くなかったけど――それでも一緒に走って見たかった。レースをしてみたかった。その理由を知れれば、普通の自分を少しでも変えられるかも知れないと思ったから。その結果がこの自体を引き起こしたというのに。
『大丈夫だよ』
大絶叫と足音にかき消されて聞こえなかったけど、わずかに動いたホワイトグリントの口はそう言っている気がしたのだ。
『だからレース――楽しもうよ。皆で』
きっとそれは、都合の良いスリーラブの幻聴だ。罪悪感を薄れさせようとしているだけの醜い妄想だ。だけど――だけど! 伝わってくる気がして仕方がないのだ! その笑顔から! ウマ娘の本能! 全身全霊で、一生懸命走りたい! 走るのがたまらなく楽しいという思いが!
それを感じたのは、ホワイトグリントを囲んでいた他のウマ娘達も同じだった。血を流し、体操服を赤く染め、すっかり泥に塗れた白毛が血濡れになっていても――それがどうした、それが何のレースに妨げになるのかと言わぬばかりの誇り高い表情と走りを見れば――熱くなる、本能が揺り動く。
見たこともない数の大観衆にビビっていたウマ娘が。
緊張で吐きそうになっていたウマ娘が。
踏み荒らされ泥が浮かぶ不良バ場で走るのを嫌がっていたウマ娘が。
今日というこの日をメイクデビューに選んだことを後悔していたウマ娘が。
魂の雄叫びをあげる。
「うっあああああああああああああああぁぁぁ!!!!」
――レースをしよう。本気で走ろう。全力を駆使して、教わった事をやって、覚えた事を使って、この走ることが
才能とか、普通とか、普通じゃないとか、最初から関係なかったのだ。それが重要な要素であることは間違いないけれど、
才能が有っても無くても、普通だろうが普通じゃなかろうが、大人だろうが子供だろうが、それは誰であっても、どんなウマ娘であっても誰だって出来る
走るのが大好き、だから頑張る。
(……本当に、都合の良い妄想なんだけどさ)
スリーラブは思う。彼女は、私達の事なんて大して知らない。こちらも彼女について知っている事なんてあんまりないのだから。彼女達の関係は単なるクラスメイト……でも、もしかして――自分達が伸び悩んで、それを変えたくてホワイトグリントと同じレースを選択した事を知っていたのではないだろうか。
そうでもなきゃ――わざわざ、まるで
(……近くで走ることで、教えようとしてくれたの? 私達が知りたがっていた答えを……よくわかんない。本当によくわかんない。でも、これだけはわかる。私のクラスメイト、ホワイトグリントは――)
世界一の努力家で、走るのが大好きなとても優しい子だって。
■■■
血を流して走り続けるホワイトグリントの姿を、ほぼすべての観客はあまりの痛ましさに胸が締め付けられるようだった。
けれど次第に、苦しむ素振りも見せず、幸せそうな笑顔で走り続ける気高い彼女を見て――理解する。彼女はそんな同情や哀れみなど一切求めて居ないことを。
不運の怪我や、抜け出す隙間さえ伺えない包囲状態でも――降り注ぐ雨に打たれ、跳ね上がる泥を被り、血に濡れてもそれがレースだ、それこそがレースだと言わんばかりの彼女の走りに、心が叫びたがってしまうのを止められない。
「がんばれぇー! ほわいとぐりんとー!」
もはや涙目にすらなっている小さな
(さあどうするのホワイトグリント! この包囲をどう破る!? 私達に見せて――あなたの走りを!)
スリーラブとて、いやその側にいるすべてのウマ娘達は勝つ為に勝つべくして走っている。ホワイトグリントが抜け出そうとしても絶対に抜かさせない、止めて見せる。そしてあなたより先に一着でゴール板を超えるという思いだ。けれどもそれと同じくらいに見たい。これ程までに自分達の胸を打つ走りを見せてくれた、ホワイトグリントのラストスパートを。ことレースに限っては敵なのに、勝たなきゃいけない相手なのに――ホワイトグリントに対する敬意が、スリーラブ達には溢れていたから。
――瞬間、ホワイトグリントが動く。
彼女の超前傾姿勢が、更に低くなる。更に這うように、獲物を定めた大型の肉食獣の様に――脚に力を溜めた。
(来る――私と内ラチの間には入る隙間なんてない、それでも強引に来るつもりなら、私の外――なッ!?)
それはスリーラブの想定と真逆。ホワイトグリントは
――ラチの作りは単純だ。昔と違って今は比較的柔らかい素材で出来ているラチの板を、支柱で支えるように横に並べているだけ。しかし、ラチと支柱には衝撃の緩和の関係、そして支柱に脚を引っ掛けないように若干の
それはまさに普通の前傾姿勢で走るウマ娘は成し得ない超前傾姿勢というフォームだから出来る、ラチとは違いそれなりに頑丈で出来ている支柱にぶつかる
(本っ当に、このウマ娘は……その毛色と同じで、普通じゃない――)
スリーラブ達は恍惚とする表情で、抜け出したホワイトグリントを懸命に追う。しかし――。
(これ、は――!)
ドンッ ドンッ! ドンドンドンッ! ターフが水飛沫と芝生を巻き上げて爆ぜる度に、削岩機の様な轟音が万雷のように鳴り響く度に、ホワイトグリントは狂ったように加速していく。身を屈め、頭を突き出し、チーターの様にターフに足跡を刻みながら地を駆ける。
(速すぎる――!)
『ホワイトグリント抜け出した! ホワイトグリントロングスパートォ! 信じられない脚だ! 信じられない脚だ! 伸びていく、どこまでも伸びていく! 末脚が衰えない! ホワイトグリント! ホワイトグリント! ホワイトグリントが駆けていく! スリーラブが追う! しかし誰も追いつけない! 誰も食い下がれない! これはまさに“白い閃光”だホワイトグリントォ――! ホワイトグリント一着でゴールイン! 今、日本競バに新たな歴史が刻まれました! 白バのウマ娘が初勝利という歴史が刻まれました!』
――圧倒的に不利だと思われた包囲網で始まったホワイトグリントの
『勝ちタイムは1分31秒9! 阪神レース場1600mコースレコードを大幅に更新! これが不良バ場のタイムなのか!? 流血に見舞われたウマ娘のタイムなのか!? ジュニア級ウマ娘のタイムなのか!』
これだけの圧勝劇であれば、普通は負けたウマ娘達の顔色は優れない。才能の差に絶望し、能力の差に失望し、顔を覆いたくなるような悲壮感が広がっていてもおかしくはない。
けれども、ほとんどの敗者達は俯かなかった。輝いた目でその白いウマ娘達を見ていた。
――体中が泥まみれだ。美しい白毛が汚れまみれだ。恍惚とした吐息を零したくなる美貌が血まみれだ。
けれども、その姿こそが美しく思う、その笑顔が尊いと感じる。あんな風になりたい、彼女の様に姿形でなく有り様が美しくなりたい。彼女のように、努力すればそうなれる。そう思わせてくれるから。私達も――彼女の様に、走るのが大好きだから。
『阪神レース場に! 否! 日本にとんでもないウマ娘が現れた! そのウマ娘の名は――!』
“黄金世代の白雪姫”ホワイトグリント。
後にそう称される、日本どころか世界に競バブームを巻き起こした彼女の――伝説の幕開けである。