僕にとっては叔父に当たる人の話である。
既に両親と死別し、広くはあるが老朽化甚だしい日本家屋に一人で住んでいた。小ぢんまりとはしていたが庭にはいつも花が咲き乱れていた。
母はそんな叔父を心配して家と土地を売り払って、もっと手頃な場所に住む方が良いと常々言っていた。
独り身で住むには本当に広すぎたし、維持するのも手間がかかる。割と近くに住んでいることもあって、両親に言い含められて僕は様子を見に行く事が時たまあったが、掃除もろくに行き届いていない部屋が少なからずあった。
一度、叔父になぜそうまでしてこの家に住み続けるのか尋ねてみた事がある。
「縁側に座って庭を眺めていると、時折おばあちゃんが隣に座るんだよ」
このおばあちゃんと言うのは僕にとっての祖母、叔父にとっては母である。
しかしその話を聞いた時には既に祖母は他界していた。幽霊とでも言うのだろうか。件の縁側に座ってこちらを見もせずに滔々と語る彼を気の毒に思った。ああ、この人は寂しいのだと。
祖母は隣に座ってどうするのか、更にそう尋ねると叔父は遠くの方を見つめた。暮れてゆく陽を惜しむようだった。
「何もしないんだよ。寒くなってきたから身体に気を付けるように、そんな事を一言二言投げるだけで。おじさんが返事をするといつの間にか消えている」
僕はその様子を思い浮かべてみた。それは怪異と呼ぶにはあまりにも地味で、叔父は精神を病んでいるのではないかと疑う方が合理的だった。
「……隣に座っているおばあちゃんの顔を見てみたいんだけどね、どうしてもできない。見てしまえばもう二度と来てくれないような気がしてね。ただずっと隣から聞こえてくる声に耳を傾けている」
「だからこの家を離れられない。この家を潰してしまったらお袋はどこに行けばいいんだ?」
笑っているような、泣いているような。奇妙に顔を歪める叔父の顔を見ると、僕はそれ以上何も言う事ができなかった。
叔父が亡くなってから暫く経っての事である。
度々訪れた日本家屋も今は住む者がおらず、取り壊す事が決定していた。その土地に新しく何かを建てるのか、何処かへ売り飛ばすのかすら僕の知るところではなかったが。
空き家となって一月は過ぎる頃、浮浪者や動物の類が棲み着いていないか確認してくるように両親に命じられた。面倒臭くはあったが、自転車で叔父の家まで向かう。思い入れがないと言えば嘘になるし、何より昔叔父が話していた「祖母が現れる」という話に興味をそそられていた。
着いた頃には日も沈みかけていて、燃えるような橙色の陽光が家の中に最後の輝きと言わんばかりに差し込んでいた。一通り部屋を見て回る。埃が積もってはいたが、特に荒らされている様子もなかった。ただ、家というものは人が住まなければ少しずつ死んでいくのだ。そう思わせられるほど寂しく感じた。
最後によく叔父が座っていた縁側に腰掛ける。藍色に染まっていく空の下、手入れをする者もない花々はただじっと頭を垂れて緩慢な死を受け入れていた。それがどうにも見るに堪えなくて、立ち上がろうとした時だった。
「寒くなってきたから気を付けてなあ」
隣から叔父の声がした。
生前と一切変わらないその声に、胸が甚く締め付けられて俯く。幼い頃からよく遊んでくれた叔父だった。亡くなってからも彼はずっとこの家に縛り付けられている。ならここが取り壊されてしまえば、叔父はどうなってしまうのだろうか。そのことを考えるとどうにも哀れで、視界が滲んだ。せめて彼が全てを理解して逝けるように、この家は取り壊されるのだと幼子に噛み砕くように伝えた。それでもおじさんやおばあちゃんの事を忘れる事は決してないから、どうか安らかに逝って欲しい。そう付け加えて祈るように目を閉じる。
数分経っても、隣に座っている筈の彼は何も喋らなかった。きっと分かってくれたのだろう、少し寂しさを感じながら隣を向く。
そこにいたのは叔父ではなかった。
祖母でもなかった。
それは人型ではあるものの、奇妙にのっぺりとしていて学校の錆びた鉄棒のような色をしていた。目鼻も口もなく分かる筈がないのに、それは確かに怒っていたと思う。
身じろぎもできないまま、ただ見つめるしかなかった僕にそれは首を傾げた。
釘で黒板を引っ搔くような。断末魔にも似た金属音を立てると、それはいつの間にか消えていた。
結局のところそれが何だったのかは分からない。来週から件の家の解体が始まる。今はただ、一刻も早くあの縁側が取り壊されることを切に願う。