△月○日(日)
今日、勇子に新しいメガネをあげた。病院内でできることは少ないことと、それにメガネをよく触ってたからあるといいと思って。まだ体力が戻ってないからリハビリをした後は眠っちゃうし、昼間は病院の子どもたちと遊んでいるみたいだけど、どうしても夜は分からないから。私でも、お義母さんのところでも、すぐに連絡が出来たらいいと思って。
勇子になにか、って考えた時に電脳メガネになるのが皮肉だなと感じた。だって電脳メガネがなければ勇子は幸せに、暮らしていたかもしれない。姉の様子からしても終わりは遠からずあっただろうけど。この先どうなるか分からないけど、でも電脳メガネがこのまま発達していくなら、なくてはならないものでもある。それは勇子が大きくなったら選べばいい。
……仕事で病院に来るのが難しい。結局、勇子の退院のときには間に合わなかった。メガマスに移籍してからは新入りなのもあるけど、……気が重いのかもしれない。勇子は天沢のお義母さんのところに行くから、なんとなく身を引いた方がいいような気持ちがあるのかもしれない。でも続けないと、
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メタバグ争奪バスツアー
その知らせがきたのは、やっぱり幸枝がメガマスの開発にいるところだった。コーヒーをすすりながら、うまくいかない場所についてぼやいている同僚の会話を聞いていた。
電脳空間はメガマス社内でも、よくわからないブラックボックスのような扱いをされている部分があった。なにせ、よくわからないが「動く」し、かといえば忠実に作成したはずのプログラムが「動かない」。研究者たちはそれを見極めるために研究しているし、それに乗っかる開発者は必死だ。
電脳空間の初期の開発に携わった者は、コイルスからメガマスに吸収されるときにそのまま残った。しかし、その中でとくに熱心だった猫目という人間の情報はほぼ残っていない。研究レポートが名無しで残っている場合は、それが猫目のものかと考えることもあった。だが明確に分かるわけもない。研究に研究を重ねて、時間を重ねて分かる部分を増やして、新たな試みを行って、そうやって電脳空間を分析しているのだ。どうやって作られたのか記録が残っていないのが、いっそうのこと不気味だった。
ああでもない、こうでもないと仮説を重ねて、やってみたいことやコイルス時代の研究を見ては、電脳空間の可能性に目を輝かせる。この場所では幸枝は凡庸な能力な持ち主でしかなかったけど、だからこそ居心地が良かった。能力はさておいても志や希望が近いので、幸枝は好き勝手なことを言っては論理の破綻やら、知識の補完やらをしていた。
「・・・・・・はー? なんですかそのタレコミ。うちでそれを処理しろって? まずは空間管理局が対処に動くはずでしょ? 」
「やっぱり今年は多いね。当たり年だよ」
「・・・・・・多すぎて他の局で手が回ってないって聞きましたけど」
「そうみたいよー。こないだは建築局の方で盛大に空間が崩壊したみたいでね、ビルが一棟丸ごとよ? 大惨事」
「わかりました! わかりましたって! どうせサッチーとかいうやつがもう見回りでもしてるんでしょう? うちがやることってなんなんですか! 」
控えめな声でやりとりをするのは研究所所属の上司と幸枝だ。電話に出ているのは同僚の女性。フレーバーコーヒーをよく幸枝にごちそうしてくれるが、現在のいらつきはコーヒー程度では落ち着きそうにない。電話の向こうではなにやら説明を続けているらしく、何かを話していることだけがわかる。時間に比例して苛立ちは大きくなるようだ。
「分かってますって! 町外れの廃バス置き場でしょ!? 検索したら何とかなりますから! 」
余計ないことを言われていたのか、慌てたように電話を耳から離して切った。長く息を吐く姿はなかなか哀愁が漂っている。そろそろと幸枝は腰を浮かしてこの場からの離脱を図ろうとする。が、隣の上司がすでに椅子に足をかけていた。ぬらりと顔を上げて笑ったのは同僚。諦めた顔でコーヒーをすする上司。
「……範囲も状況も不明なので、ちょっと、手伝ってもらえます? 」
「「はい」」
がたがたとキーボードを鳴らしながら検索をし始めた同僚に、複数のウィンドウを立ち上げながらネット上の情報を拾い上げていく。大黒市に越してきて随分とたつが、簡単な名称だけでは分からないことも多い。クレームとして上がってきたのなら、掲示板にもコメントが出ているかもと軽い気持ちで検索をかけていく。と、幸枝の予想をはるかに超える反応があった。随分と"炎上"しているようだ。
「……かなり広範囲の空間が崩壊しているんじゃ? 」
「なんか言いました? こっちは場所の把握は出来ました。重なってる電脳空間の情報を簡単に解析して、……アー、地村さんには地表データ以外を見てもらっていい? これは広範囲だわ」
「アー、私、公共ドメインへのアクセス権限持ってないんですが」
「ウソ。チーフ、地村さんに権限渡していいですよね? 渡しますね」
同僚の物言いに、上司は苦笑いしたが特に口出しをすることもなく。幸枝は公共ドメインへのアクセス権を得た。普段のメガマスでの仕事ではアクセス権は必要ない。同僚からのアクセス権の譲渡を受け、公共ドメインにアクセスする。指定されたコードを入力すれば、複数のウィンドウに見慣れない文字列が出現した後、大黒市に存在する道路を主にした地図が現れた。
言われた郵便番号を指定すればかなり広域が指定される。市街地からは距離がある場所らしく、民家のドメインにまでは食い込んでいないらしい。道路とその奥に広がる草地、それから付近の水回りやらなにやらが荒れ放題だ。破損状況もひどい。
「事故は起きてないみたいですね」
「GPSの異常反応もないし、完全に電脳空間がやられてるみたいだわ……」
時々地図が更新されるためにちらちらと光が差す。その頻度は数十秒に一度といったところだ。
電脳空間の情報を眺めているだけではらちが明かないが、このままではサッチーが空間を直し切れるのかもわからない。損傷がひどければこのあたりでの運転はとても危険なものになる。現在の車の運転はGPSと電脳空間の連動によって、事故が起きないように設定されているのだ。電脳空間があることが前提の設定では、走る車が少ないとはいえ危険度が増すことは確かだ。
「……電脳空間のあらかたの被害状況を確認して、あとは空間管理局に投げましょう。このあたりは民家が少ないからアップデートが遅れていたはずなので」
「わかりました。……値段で試算します? 状況で? 」
「うーん、そっち側の破損の状態とアップデートに必要な日数を簡単にまとめてもらえればいいわ 」
「わかりました」と返事をすれば、それぞれが動き出す。上司に仕事が割り振られなかったが、どうせこのあと上がってくる資料は全て彼が確認しなくてはならないので。長い息を吐きながら同僚が新しいコーヒーを淹れに行った。熱いコーヒーがないと仕事が進まないのだ。全くお門違いの仕事が回されてきたのだから。
「あ、これって人為的なやつなんですか? 」
「人為的なやつだね。でも、やってる子たちは手練れだよ。カメラにも干渉してることが多くて、証拠が全くつかめないんだからまったく」
チーフは頭が痛そうな顔をしたが、一瞬後には面白そうな顔だ。彼は技術者でメガマスの社員だが、その前に電脳空間が大好きな人間なのだ。新しい技術や電脳空間に関する知識を求めてやまず、持っている人間がどんな人間でも友好的な態度で尋ねるだろう。「すごいねぇ、それってどうやってるんだい? 」なんて言いながら。
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沈没! 大黒市
「……すごい、こんなの初めて見ました」
「……だろうね。うちの電話がひっきりなしに鳴っているのが想像できるくらい……」
窓の外に小さく見えるのは空中に泳いでいる大きな魚の影だ。影といってもそれは実体を伴っていないというだけで電脳空間で生きている人からすれば「いる」のと変わりない。
一般的な魚とは違い、それは影のようにのっぺりとしている。目と体の様子は分かるが、それがどのような理論でそこに存在するのかが分からない。なにせ幸枝が今まで作ってきたペットの中に、水生生物をもとにしたものはいなかったので。でも空中を泳ぐペットというのも悪くないと感じた。実装にどれだけ大変な思いをするのかはわからないが、こういうのは考えるだけはタダなのだ。
「大黒市って、いつから空中にまでペットデータを飛ばせるようになったんですか? 」
「いやー。なってないよね。それは地村さんの方が詳しいよね」
真っ黒な魚がゆうゆうと空中を泳いでいる。見ている分には目に楽しいが、あのあたりでは戦争のようにバタついているのではないだろうか。それこそ郵政局のサッチーが出動して、バグに対処していてもおかしくないように思うが遠すぎてよくわからない。
「……空中って、どこのドメインでしたっけ? 」
「さて。どこだったかな……まあ、でも。管理局だけで難しければウチにくる。それだけだよ」
かっこいいことを言っているようだが、空間管理局で対処が難しければウチに回ってくるだろう。それも巷で話題のイリーガルと思われる電脳生物だ。掲示板には目撃情報と様子が逐一アップされており、考察とコメントが忙しなく動いている。メガマスの失敗作だとか、暗号屋のお遊びだとか散々だ。
メガマスの中でもイリーガルに対する考え方は偏る。なにせサンプリングできるほど目撃例がない。メガマスになくとも、と考える人間は多くコイルス時代の研究内容は擦り切れるほど閲覧されている。それでも、イリーガルは解明しきれていない。意図的に研究内容をぼかしているようにすら感じられた。
コーヒーの湯気にメガネを曇らせながら、チーフは窓の外を眺めている。いつもよりも覇気がないようにも見えるし、眼だけはじっとイリーガルの姿を追っているので頭の中では何事かが起きているのかもしれない。
「そういえば話題の空間管理局だけど、課長の人が代わったらしいね。今までみたいに昇進させるんじゃなくて、外部から入れたらしいよ」
「はあ……」
「空間管理局の課長はさ、クレーム対応でめちゃくちゃ大変なんだよね。正しく言うとクレーム処理じゃなくて、クレームの確認と空間の保持・修繕でさ。しっちゃかめっちゃかだってね、出張したうちの社員が同情してたよ」
チーフはぺらぺらと口を動かすが、その目線は相変わらず窓の外だ。声に抑揚があるが、表情に変化はないのが若干不気味である。この人はいつもこういう話し方をする。今は慣れたものだが初めのうちは少し怖かった。
それにしても電脳空間に関係しない話しは珍しい。良くも悪くもコアな人間が多いのだ。好きな話しばかりしていると、会話の内容は偏りがちになる。
「いや、ホントね。次の課長さんが長続きするといいなあと思ってね。すぐに辞めちゃうんだよ、あの役職に就くとさ。まあ~長続きしそうな感じもするんだけど」
「え、そんなに激務をこなせそうな人なんですか? 」
「そうだよ。だって小此木っていうんだから」
「この辺の小此木っていったら、しぶとくてやり手で困るくらいでね」そう言うチーフは昔のことを思い出しているのか、ふいに視線を下げた。かなり思うところがありそうだ。
幸枝は幸枝で"小此木"に思うことがある。それは世話になった医師の名前であり、今その名前が出てきたことに奇妙な縁を感じる。
「あの医療部門の小此木さんの息子だって話だから、電脳空間にも詳しいだろうし。前任よりもずっと長続きしそうでしょ? この春に異動してきたみたいだから、今度こっちにも挨拶に来るんじゃない? 」