△月○日(日)
今日、勇子が退院した。お義母さんのところなら、勇子も安心して暮らせるだろう。
ようやくだな、という感じがする。勇子はリハビリも頑張ってたし、日常生活に戻るのも遠くないと思っていたけど、あの年ごろにしては長い時間だったんじゃないかと思う。
事故で意識を失って、それからここまで。長かった。勇子はまだ信彦が生きていると思っている。先生はメガマスに掛け合って信彦の体まで準備した。あれが良いことなのか私には判断がつかない。でも勇子は、勇子の記憶はそれで整合性がとれてる。いつか勇子が事実を受け入れられるまで、信彦はそこにいることになると思うと、やるせない気持ちになる。
姉はいまだに眠ったり起きたりを繰り返している。少しずつ起きる時間は増えてきているらしい。まだ起きている姉に出会えてないけど、 どうしたら元に戻るんだろう……。元に、戻せるものなのだろうか? どうしたらいいんだろう。
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ダイチ 発毛ス
【メールが届きました】
作業中のウィンドウに通知が来たのは昼頃だった。プライベートなメールに返信するのに、幸枝はそっと周囲を見渡す。分かっていたことだが、誰もが何事かに集中している。幸枝の動きに注目している人はいない。
受信フォルダを開くと芳野からだ。個人的な用事でメールが来るのは珍しい。タイトルも無し、というのは彼の性格からすると本当に珍しい。疑問に思いながらもファイルを開く。
【動画を見て!】
疑問に思いながらも、確かに添付されていた動画を開く。これがもしも芳野を騙った悪質なアソビなら、幸枝は渾身の力(この場合は職場の力も含む)をもって仕返しをする。それにこのメールアドレスは外部サイトに使っていないので、詐欺やウィルスの可能性も低い。
短いロード画面の後に表示されたのは、ひげ面の人の様子だ。どうも盗撮らしく、見知らぬ顔の女性の視線がこちらを向くことはない。ひげ、である。大まじめな顔をした女性の顔にひげだ。
それから急にぶれたカメラの視点は、他の人の顔に向く。それぞれの顔はやっぱりひげ面になっていて、しかしその顔に頓着した様子もない。
「・・・・・・なに? 」
【この動画はなんですか? 】
メールに返信を書き込む。少なくとも女性がヒゲを生やした状態で街中を歩くなんて、"非常事態"ではないか。本人に気がついた様子もないのがさらに恐ろしい。多分、というよりこれは電脳体になんらかのバグが起きているのではないか。目に見えていたら、もっと早々に混乱が起きているはず。
【植村さんが撮ってきました。電脳体のバグらしいのですが、原因がわからなくて・・・・・・。ついでに植村さんもヒゲ顔になってます。】
返信を読めば面白い。添付されているのはキメ顔の植村の顔だ。残念なことに顔の下半分にはヒゲが大量に生えている。それが妙にマッチしていて面白い。
道を歩く多くの人たちは、電脳メガネをつけていない。多くの人にとってメガネは仕事の道具であって、常につけているのは子どもか職務的につけないといけない一部の人間だけだ。
だから気がつかないのではないか。もしくは彼らのうちの誰かが、家や会社に行けば気がつくのかもしれない。時間の経過に比例してクレームが増えることだけは分かった。
なら原因はなにか、そう考え始めた幸枝に新しいメールが届く。植村からだ。こちらもタイトルがなく、添付されているのは動画。サイズが大きくないから、ごくごく短い物だろう。
『ちょっと芳野、あなたまでヒゲが』
『んっふ』
『えっ、どういうことですか、ちょっと! 』
『わははは! 』
飛び出してきたのは大きな笑い声と、ひげ面の芳野を写した動画である。それだけだ。松川さんが音声だけで出演しているし、植村は中学生のような笑い方をしている。
植村の笑い声は耳障りだが、この短期間で芳野にまでヒゲが発生しているとなると伝染性が高いウィルスかもしれない。しかし松川さんが言及されていないとなると、彼女にはまだ伝染していない。もちろん彼らは電脳空間の知識があるから、うまく防衛するだろうけれど。
「・・・・・・どういう規準で伝染してる? 」
「なにこれ、また変なバグが流行ってるの? 」
ぽろりと口から漏れたつぶやきを、これがなんとチーフが拾った。チーフは動画の笑い声のときから幸枝を見ており(これは幸枝の勤務態勢を問題視しているのではなく、自分が飽きたからこその行動)、静かに幸枝の後ろに移動していたのだ。他人の画面を勝手に覗くのはプライバシーに抵触するので良い行動ではないが、どっちもどっちなので幸枝は気にしないことにした。いや、少し気まずかったが、チーフの様子を見て気にしないことにした。
しかしチーフの声を聞いて、作業に行き詰まっていた同僚たちはわらわらと興味を引かれてやってくる。おりしも昼が近くて集中力は低下を示す時間帯だ。「助かった」と言わんばかりに遠くの席からマグを片手にやってくる。
幸枝が見ているのは最後のシーンだ。芳野が嫌がって顔を隠す、そこをストップして見ている。慌てて「ちょっと」と言いながら顔を隠そうとするところをアップで撮っているのだ。植村は鬼のような所行をしているが、この動画は参考になる。
「おれも見たい」
「これ、どういう原理でバグってるんだろうね」
「電脳ペットとかの毛髪モジュールとは違うっぽくね? 」
「電脳体特有のちらつきが少ないんだけど、これどこのカメラ? 」
「伝染性はやばくない? 」
「死んでもこれにかかりたくない・・・・・・、これバグ? ウィルス? 」
「アー・・・・・・、チーフ? 」
「かまわないよ。みんな休憩にしたい時間だろうし、どうせバグだ何だって空間管理局も忙しいだろうから助けてあげよっか」
幸枝の背後に集まった人たちが好き勝手にしゃべるので、ちんぷんかんぷんだ。それぞれが好きな方向に思考を広げているし、事前情報も少ないから本当に好き勝手だ。
チーフもチーフでこれを積極的に進めていく方向になったらしく、情報の提示をやんわりとお願いされる。メガマス研究課とは、かくもそういう集団なのだ。
それでそれぞれに動画が2つ、写真が1枚送られる。芳野にはかわいそうなことをするが、メガマスの研究部門の一部が彼の動画を保有することになった。哀れである。
町を歩く人たちのひげ面と芳野の様子、それに植村の写真だ。配られた途端にそれぞれの端末で再生され、比較・検分されていく。もはや幸枝の手を離れてしまった。
「面白いけどやっぱり実際に見ないとわかんないよね。ウィルスでしょ? バグにしては広範囲に広がりすぎだし」
「最近、電脳体に関するアップデートってありましたっけ? 誰か見ました-? 」
「空間管理局の? 近々大規模なアップデートが入りそうって噂しか知らないな-」
「全域で変更するならもっと通知が出てるんじゃない? 」
「やっぱり実物と生体関連データを見たいよね」
もうどうにもならない。あっちもこっちも生き生きと動き始めたし、それぞれのデスクに戻ることなく好き勝手に集まって、自分の気になる輪に加わっている。チーフもマグを片手に動画を止めたり進めたり、じっと見ている。別の画面ではなんらかのログが動いているが、それがなんなのかは幸枝にはわからなかった。
「それで? 地村さんの考察は? 」
「・・・・・・2つめの動画での増加のスピードと範囲。それから電脳ペットの毛並みと比べて、毛髪系のモジュールではない事から、ヒゲのような"何か"ということしかわかりません。それと何らかの条件で伝染しています」
「チーフぅ! おれ、外行ってきていいっすか! 」
「ずるい・・・・・・、それはずるいとしか言えない」
「ログデータだけ送ってほーしーいーなー」
盛り上がる彼ら彼女たちはすさまじい熱量だ。行き詰った試験勉強の最中に部屋掃除をしたくなるような、そういう感覚だろう。電脳空間の研究をすすめている彼らであるけれど、普段とは違うことをするのは楽しい。いつもとは違うパズルをいじるのにも似ているかもしれない。
いつもよりも白熱しているのは、集団で取り組んでいるからだろうか。学校の教室を思わせる騒がしすらあった。チーフに向けられた要望もその延長のようなものだ。普段ならそう簡単に言わないような言葉を、今この瞬間になら言えた。それを許可するかどうかはチーフ次第であったし、チーフは責任者の権限を持つだけの落ち着きと経験があった。
「ま、明日だね。報告されたデータの解析は管理局から上がってくるだろうから、それまでは知り合いから集めたデータとかで我慢しな。上もそううるさくは言わないだろうし」
鶴の一声ならぬチーフの一声である。先生に注意された小学生のように彼らは喜んだし、落ち込んだ。知り合いに情報を求めたり、あるいは内線をとったり、もしくは掲示板を漁ったりしている。
まあ、こんな日常も悪くないなと幸枝は思う。好きなことをやるのは楽しいことだ。だから、幸枝は原因になった、あるいは被害者というべき芳野に連絡した。
【動画ありがとう。貴重なサンプルとして扱われることになりました。】
返信は見ないことにした。ログデータは植村に請求することにするためにメールを書いて、それで幸枝はこの件には触れないことにした。興味がないわけではないけど、彼女がやりたいのはこういうことではなかったので。だから同僚たちの楽しそうな姿が、翌日には盛大な嘆きに変わっていて驚いた。
「そんな時限式の伝染ウィルスなんてあんのかよ! ていうか、電脳生物をウィルスに仕立て上げたのは結局誰だったんだよ! 」
とは外に出たがっていた年下の男の言である。
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イサコの病室
天沢のお義兄さんが入院したと聞いたのはつい先日のことだった。「大したことはないけれど、年齢のこともあるし入院することになった」と電話で話したお義姉さんの口ぶりは軽く、本当に笑い話のひとつとしているようだった。
お義姉さんとは何度も電話で連絡をとりあっている。お義母さんにも連絡をとっているが、それよりも頻繁になってしまう。姉が入院して、それから勇子が引き取られてからは頻度が上がった。幸枝が連絡をすることもあれば、お義姉さんから連絡が来ることもある。それでちょっとした近況を報告し合うのだ。少しだけ"定型"とは言い難い形の家族だから、連絡を密にしていないと怖いのだ。
「勇子なんだけどね、こないだ浴衣を着せてあげたのよ。夏祭りに一緒に行く友達ができたのね。もう嬉しくってね。写真も何枚か撮ったから後で送っておくわ」
「嬉しいです! 勇子の浴衣姿、かわいかったでしょうね。見れなかったのが悔やまれます。……それにしても夏祭りに行くなんて、勇子も少しずつ変わってきてるんですね」
「そうねぇ。信彦君の病室に行くのは変わってないみたいだけど、やっぱり時間が解決していくものなのね。心配なところもあるけど、もうちょっと見守っていくのがいいのかもしれないわね」
「そうですね……、私もなんとか勇子に会いたいんですけど」
「勇子は頑なだものね。でも大人になったら分かるものよ。幸枝さんが何を思っているか見えてくるには、もう少し時間がかかるわねぇ」
「そうですねえ、気長にいきます」と返事をしながら、顔に自嘲が上がってくるのが止められなかった。勇子は頑なに幸枝に会おうとしない。それが何故なのか幸枝には分かるような気がした。
時間がある時に見舞いに行くことを告げて、そのときは電話を切った。
それから数日して病院に行くことを思い立った。とりわけ忙しい用事があるわけでもないし、天気もよくて良い日取りだった。病院はそう遠くない。車で15分かかる程度だろうか。手みやげに何を買うか迷ったが、先日なにかの折りに話題になった菓子屋で適当に見繕うことにした。義兄が食べなくとも同室の人たちに配るだろうし、お義姉さんが見つけて食べるかもしれない。
信彦には花を持って行こう。もうずっと信彦の病室には花を持って行っている。そこに信彦はいないが、でも勇子にとっては「いる」ことになっている。なので、幸枝やおばの一家が見舞いに行かないのはおかしなことになってしまうのだ。幸枝は月に2度程度のお見舞いを続けていた。
病院の中はいつでも同じ匂いがする。清潔な匂いというのか、消毒液の匂いというか。数年前にずっと通っていたから慣れたと思っていたが、久しぶりに本棟の中に入るといやに強く香った。
受付で病室を聞き、エレベーターへと足を進める。ホールの中にざわざわと人が多い。年齢も性別も様々だし、来ている理由も様々だろう。なんだかそれが世界との断裂に感じられて、ひどく気持ちが落ち込んだ。
義兄は本当に元気そうだった。「たいしたことはない」という義姉の言葉は全く正しかったらしい。菓子折も喜ばれた。お酒を控えるように指導されていて、最近は甘い物に目がないらしい。近況を話していると、勇子の話も聞けた。
「ああ、こないだの夏祭りはね。かわいらしかったよ。随分と急に言うもんだからね、ばたばたとしてしまったけど。勇子ね、ずーっと難しい顔をしててね、それが面白くってね。笑ったら悪いと思って耐えてたんだけど、家から出て行った途端に笑っちゃったよ。嫌とは言わなかったけど、出がけにちっちゃく"ありがとう"って言うからね」
近頃は日が落ちきる頃に帰ってきて心配だとか、学校から帰ってすぐに外に出て行くこととか。休日は家にほぼいなくて、ご飯を食べても気がそぞろであるとか。そういう話を聞けた。
「幸枝さんはどう? やっぱり忙しいかい? 」
「まあ、そうですね。でも忙しいというのは繁盛してるってことですからね」
当たり障りのない返事は、返答に苦しんだ結果だった。思っていることを全て人に伝えられるほど子どもではないし、共犯者になるほど近しい関係ではなかった。
あれだけ頑なな勇子を育てている夫婦だから、やさしいし根気がある。幸枝のこともある程度わかっているようで、口元には小さな苦笑いが浮かんでいた。
「・・・・・・体はね、大事にした方がいいからね」
「そうですよねー。気をつけます」
「じゃあこの辺でおいとましますね」と告げて席を外した。晴れていた空には少しずつ雲が流れてきているようだった。雨が降るほどではないが、日差しは随分と陰ってきた。今までの晴天が嘘のようである。
それで幸枝は次の場所に足を運ぶ。一般の病棟とは離れた位置まで、そこそこの距離を歩く。病院にやってきて迷子になったとしても、ここまで来るのは難しい。探検でもしていればこの場所まで来る人もいるかもしれないが。
中庭を横目に見ながら別棟に。だんだんと人の気配は少なくなり、病室の前につく頃には自分の息づかいが耳につくようになる。
申し訳程度のノックと共に入室すれば、そこには物置のようなラックと投影された"信彦"がそこにいる。ご丁寧なことに信彦の姿は事故の後も成長している。両親の外見データから予測された姿を電脳体に反映させているのだ。時々、データをアップデートしているのだろう。どこで請け負っているのか分からないがご苦労なことだ。
申し訳程度に置かれた病室っぽさ。小さな棚とイス。投影をきってしまえば、病室だなんて思いもしないだろう。勇子は心から信じているのだ。だからこんな部屋すら病室に思える。
しなびた花を取り替えて、イスに腰かければため息も出る。掃除が行き届いているが、本当に物品の管理に使われているのだろうことが分かる。訪れる人がほとんどいないし、投影されている時間も決まっているだろう。ここに来る意味なんてないのだ。実際、義姉と義兄はこの病室にほとんど来ていないと聞いた。
「ずいぶんと色々なことがあったよ。イリーガルが空を飛んだり、電脳ペットの病気が流行ったり。勇子はね、こないだ友達と夏祭りに行ったって、」
ここに来るたび、幸枝は沈んだ気持ちになる。今までの選択だとか、後悔だとか。そういうのを引っくるめて「上手くいかなかった」ことがどうにも胸をひっかくのだ。
前と同じように見舞いをする。前と同じように話をする。変わったのは誰に向かって話をしているのか。ぽつぽつと、順序や内容を気にせずに思い出したことを口に出す。
あとちょっとなのだ。もう少しで手が届く。証拠を手に入れてしまえば、あとは公にさらせばいい。そこも考えなくてはいけない。もう少し頑張ればいい。
そうやって近頃のことや季節のこと、勇子のことを話しているとノック音がする。
「どうぞー」
入ってきたのはやはり勇子だった。花束を持って、入室するのにためらいを感じているようだった。
どうも気まずい表情でいるのは、幸枝と会うのが久しぶりのせいなのか、それとも他に理由があるのか。幸枝にはもう理由が分からない。
「久しぶり。元気そうだね」
「・・・久しぶり。オバさんも元気そうね」
「もちろん。夏祭りで浴衣を着たんだって? 写真が送られてきたよ。夏祭りはどうだった? 」
「・・・別に、普通」
「そう? 仲のいい友達ができたんじゃないの? いつも遊び歩いてるって聞いたけど」
幸枝は1つしかないイスを譲るために立ち上がった。「まあ座んなよ」と声をかけて促すと、そろそろと足を動かして勇子はイスに腰を下ろした。イスをゆずった幸枝は立つしかないので、少し迷いながら壁に背中を預けることにした。ただ立つよりは体が楽かもしれない。
勇子はその間も迷うような顔をしていた。数少ないながら、幸枝と顔を合わせたときの勇子はよくこういう表情をする。目線が動いて落ち着きがなく、指先がぎゅっと握りこまれて小さく顔をうつむかせる。最近の幸枝の記憶にある勇子の姿そのままだった。話したいことがあるのかもしれない。でも幸枝は「話したければ話す」と思っている。無理に話すのはきっと嫌だろう。
「そうでもないよ。そこそこつるむやつらが出来ただけ」
「そっか」
質問に答えて、それで勇子はじっと信彦のことを見つめていた。
幸枝は退室するタイミングを計りきれていないし、勇子が退室する必要はない。会話を続けるには幸枝の話題は尽きていたし、勇子は口を開く気がないようだった。室内には機械が作動している低い音が満ちるばかりで、だんだんと居心地が悪くなってくる。自覚してしまえばあとは早くて、幸枝は勇子と会って嬉しい気持ちよりもずっと、勇子といるのが気まずかったのだと分かってしまった。どうしようもなさすぎて笑いすら湧かない。
焦る必要はないのに勇子と同じように信彦の影を見つめながら、そっと幸枝は口を滑らせた。
「ねえ勇子、友達ができたんなら、そっちを優先しな。信彦のことは私が見ておくから大丈夫」
目線を向けて目に入った勇子の顔に、幸枝は自分の失敗を悟った。なにをどう考えても、そんな顔を勇子にさせるつもりではなかった。そこまでに劇的な変化で背筋に冷や水を浴びるような、そんな感覚がした。
「なんで、オバさんにそんなこと言われなきゃいけないの…」
「勇子、気に障ったならごめん、でも…」
「オバさんにだけはそんなこと言われたくない! 」
「もうすぐ叶うんだから!」そう言って、勇子は病室を駆け出ていく。
「やってしまった。」そればかりが胸の中でくるくると回る。ぐしゃぐしゃと頭をかきまわして、喉の奥からは呻き声が湧き出る。でもこの程度の感傷なんて些細なものだ。あんな、あんな表情の勇子を見てしまえば、自分がどれだけ勇子を傷つけたか分かるのだから。とてつもない罪悪感が幸枝の心のうちによぎる。
勇子はくちびるを噛み締めて眉を下げて。怒るのではなくて悲しい顔をしていた。
「・・・・・・悪いね信彦。もうちょっと私たちに付き合ってよ」
・・・
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side イサコ
息が乱れる。100mよりもずっと短い距離を飛び出しただけだ。中庭に出ればすぐに人の目が気になって足をゆるめた。それでも心臓がばくばくと動いている。胸が苦しい。
いつもと同じように兄の見舞いに来ただけだった。オバが兄の見舞いをしているのも知っていた。今までかちあわなかったのが珍しいだけで、いつ会ってもおかしくはなかった。それが突然だっただけだ。驚いただけだ。それだけなのだ。
(じゃあ、どうしてこんなに苦しいの)
無性に兄の顔が見たかった。今戻ったところでオバがいるだろう。戻ることなんてできない。進むしかない。これまでの勇子がそうであったように、彼女は戻るという選択肢を選ばない。選ぶことができない。
内心の感情を抑え込むように平常心に戻るように努力する。深い呼吸を繰り返せば、幾分かましになる。気持ちが落ち着けば周りを気にする余裕ができて、それまでに感じなかった視線を感じた。簡易的な偽装アクセスで近くの記録ログを漁ると、見知ったアドレスが近くを移動している。耳をすませば、確かに遠くない距離で急ぐ足音がする。
もしかしたら自分の勘違いで、ただ誰かを探しているのかもしれない。でも、もしも自分を尾行していたのなら? この病院で見つけて、どこから尾けていた? 捨て置くには握られたくない情報を得られているかもしれない。それなら、カマをかけてでも聞き出す必要があった。
中庭を突き抜けて本棟に向かう道からはぐれてやれば、彼女の行き先が分かる。もしも自分を追いかけてくるようなら、
「どういうつもりだ? さっきから、なぜ私をつける? 」
「あ、天沢さん…私、夢で、夢で見たの。それからデンスケ、一緒に探してくれて……。
いやだ私、わけのわからないこと言っているよね」
驚いた顔で振り返った小此木優子は、それから立て板に水を流すように頭の中の情報を口から吐きだした。それは意味の通じるように整えられたものではない。本人の表情には必死さが浮かび、彼女がどういう意図で自分を追いかけて来たのかが分からなくなった。
「私……、私、もしかしたらあの人に出会っているの。あなたがいた"4423"っていう病室の男の人、」
「貴様! 一体どういうことだ!」
バツが悪そうに、あせった顔で吐きだす言葉に勇子は反応せずにはいられなかった。小此木優子の胸倉を掴み、壁に押し付けて逃げられないようにした。抑えたはずの感情がボタンを弾き飛ばすようにして飛び出してくる。叫ぶように吐きだした。
「待って、」
「兄のことを、なぜ知っているんだ…!」
曇り空だった空はついに耐え切れずにぽつぽつと雫を落としていく。雷が低く鳴りだし、すぐには止まないだろうことがうかがえた。コンクリートに雨粒が弾かれ、ぱちぱちと音を鳴らす。
こらえられない興奮に息があがった勇子は、直後の小此木優子のつぶやきにはっと我を取り戻すことになる。
「──あに、? 」
余計な情報を与えた。バツが悪くて小此木優子を開放して、表情を見られないように顔を背けた。小此木優子は何を知っている? なぜこのタイミングでここにいる? どうして?
「じゃあ"4423"ってあなたのお兄さんなのね。私、何年も前、小さい頃、あなたのお兄さんと会っているかもしれないの」
「……なんだと?」
「そこで何かが起きた。
──教えて。何があったの? あなたのお兄さんに」
ざあざあと雨が降っている。
ともすれば小此木優子の声がかすれるほどの雨だ。
勇子の声は静かに小此木優子の耳に届く。顔を背けて、雨の中でなお響く声。
「そんなに知りたいなら教えてやる。……でも、お前は信じない。きっと私がおかしなことを言っているとしか。
私の兄は、戻れなくなったんだ。魂が電脳の体と共にあっちに行ったままだ。今も……」
その声が震えていなかっただろうか。いつもと違う声でなかっただろうか。勇子は精一杯の努力で自分の心が言葉に乗らないように努力した。小此木優子がなにを思うかは分からない。得られた情報で何かが進むかもしれない。だが、だが。
「"あっち"って、都市伝説に出てくる…、そんな、でもそんなことって…」
「やはりな」
「え? 」と聞き返す小此木優子に対して、もう慣れたはずの痛みを感じる。この人間も信じない。"見たことがある"と言った口で拒絶する。今までに何度も繰り返してきたことだ。たくさんの人たちに否定されてきた。話しを聞かれたから答えたのに、誰もがみんな「現実を見ろ」と言う。……一番初めに否定したのはあのオバだった。
「…思ったとおり、お前も大人たちと同じだな。ああ。お前の言う通り"都市伝説"さ。馬鹿馬鹿しい話しだろ。気が済んだか? 私がおかしな子だって分かって満足だろ? 満足したなら、もう二度と近づくな」
馬鹿馬鹿しい。それこそ馬鹿馬鹿しいことだ。だって勇子は知っているのだ。これから兄が戻ってくることも、戻ってきてもらうためにしなくてはいけないことも。ほんの少し期待しただけだ。それがいつもと同じ結果になっただけだ。
雨の中を進む。後ろで名前を呼ばれたところで何が変わるんだ。いつもと同じだ。靴に浸み込んでつま先が冷たい。振り返ってやる必要なんてない。体が冷えていく。雨の中を歩いているんだから当然だ。
天沢勇子には進む以外の道がなかった。