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×月◆日(〇)
久しぶりに昔の夢を見た。
勇子と信彦と、姉さんたちがまだ元気な頃で。夏にふたりの遊び相手になって、アイスを買いに行った。暑い日だった。泣いたり笑ったり、姉さんに怒られたりしている二人。姉さんたち夫婦と一緒に飲んだ発泡酒の味。広い家の中をみんなで掃除をした。
懐かしかった。もう絶対に戻ってこない光景だ。これが本当の「夢」っていうやつだ。
…ごまかすには鮮明すぎた。
最後のコイル
どうして、血縁であるはずの幸枝に連絡がこないのだろうか。幸枝は保護者でも親権者でもないからだろう。しかし、幸枝がメガマスの本社で働いているのに、連絡のひとつもよこさないなんて普通あり得るのだろうか。人身事故を起こすような件の、被害者家族に対する扱いとしてはいささか雑ではないか。
天沢家には連絡が来ていたらしい。電話で確認したところ、「専門用語が多くて難しい説明だったけど、信彦の病室は引き上げるということは言っていたよ」ということだった。
だけど、と幸枝は思う。天沢家の義夫婦は信彦と勇子の状態について、さほど詳しくない。説明の内容を聞いて「難しい」と言ったことからして、電話の相手は彼らに対しての説明の義務を怠っているだろう。彼らの中ではもう「信彦」は死んだ甥だ。聞けば勇子はやはり様子がおかしいらしい。落ち着きがなくなり、食事の量も減っているそうだ。原因は明らかだろう。それで、どうして問い合わせのひとつでもしてくれないんだろう。
思考に沈んでいた意識を会話に戻す。今は珍しく出向元の会社で必要な書類を提出しているところだった。松川は幸枝が提出した書類をチェックしているところだ。
「お姉さんの容体はどう? 」
「もうかなり調子がいいみたいです。退院も遠くないだろうという話しをもらいましたし。カウンセリングなんかをはさんでて……、日常生活に戻れるのも遠くないみたいです」
「よかったわねぇ」
「えぇ、おかげさまで」
(誰に、相談できるというんだろう)
幸枝の心に思い浮かぶのはこれからのことだ。勇子のことも、メガマスのことも。幸枝ひとりだけで対応するにはもう限界が見えていた。だが幸枝には頼れる人にあてがなかった。勇子のことは天沢家に任せるしかなかったし、メガマスを訴えるには致命的なデータが足りず、監査を頼むには伝手がない。幸枝にできるのは、そういった伝手を探しながらさらに証拠を集めることだけ。
メガマスに向かう車の中、ふと思いつく。
――メガマスは古い空間を消さないのではなく、「消せないのではないか」と。
メガマスの資料、つい先日の最新フォーマットの結果。研究に当てられている人員の割合。公共ドメインに文化局、建設局も含めてアップデートを幾度もかけている。それなのに古い空間は消えない。減ってはいるが、時間が経過するにつれて増えることすらある。表面に塗ったメッキがはがれて顔を出すかのように。
古い空間のデメリットはいくつかある。現状の対応ソフトで反応しきれないことや、GPSの反応もにぶいこと。それから、――工夫がききすぎてしまうこと。管理する側としてはこれが一番やりにくい。
だから、メガマス側もこれをなんとかしたいはずだ。
でも、なぜ消しきれないのか。実際、今の状態でも運営できているわけだから、無理に消す必要はないはずだ。
頭の中で今まで閲覧してきたデータを思い返す。しかし、それだけで理由はわからない。消えない理由も、無理にでも消してしまいたい理由も。
メガネからデータフォルダにアクセスする。とくに隠してもいない幸枝の今までの研究成果の集積だ。そこには今まで引き受けた仕事の資料もある。思い出すのはコイルス時代に会話をした猫目主任、それから小此木医師と井戸端会議的に得た少しの資料。ぱらぱらと流し見をしていくうちに、ネットで目にした噂話も思い出す。
「イマーゴ機能、じゃないか…? 」
古い空間ではイマーゴ機能が反映されるようになっている? 今の空間ではそれが働かない? そういえば進行形で研究されている内容にイマーゴ機能に該当するようなものはなかった。研究自体が破棄されるまでの結果がもう出ているんだろうか。眉唾ものだと思っていたけれど、猫目主任がイマーゴ機能に言及していたのだから、コイルスでは周知されていたはずだ。聞くだけで便利な機能なのに引継ぎがされないということは、それなりのデメリットや危険性が見つかったのだろう。
メガマスが空間のアップデートを繰り返している、ということはイマーゴ機能自体を失わせることはできなかったのだろう。だから、次善策としての空間の上書き。どこの部署が担当しているんだ?
小此木医師からもらった電脳心療治療の資料だが、安全性と一緒に試験的な治療であることが明記されている。それに内容が、電脳空間で精神に与えられる負荷の軽減を行うこと、とある。
では、負荷の軽減を行うとは? 実際に電脳空間でなにが起きるのか。
――小此木医師は言った。心の望みをくみ上げて電脳空間が変化する。そこで傷が癒えるのを待つのだ、と。
あの時にはあまり気にしなかったことだが、「人の心の望みを汲み上げる」なんてことは電脳メガネの機能をもってしてもできないことだ。だから、きっとイマーゴ機能のなんらかがこの治療の一端に使われていたのだろう。だから、実際にイマーゴ機能は実装されていた。
そして、それに遠くないものが古い空間の基幹部分にもあるのではないだろうか。古い空間を消すことができない、ということは新しい空間のアップデートで更新できないブラックボックスの部分があるのだろう。
それなら研究資料を探さなくてはならない。でもどこで見つけられるだろうか。メガマスの資料も、今まではイマーゴ機能については調べてこなかった。一番なのは、小此木医師の研究資料にアクセスすることだ。彼なら確実に研究成果をどこかに記録しているはずである。それも勇子が提供した記録がだ。だが、それをご家族に聞いたところでわかるのかどうか。
それにこれだけでは足りない。病院で治療が提供されたのだから、病院にも資料はあるはずだし、少なくともその記録がメガマスにないというのもおかしなことだ。まだ幸枝が閲覧しきれていない資料がどこかにある。
しきりに新たな考えが頭によぎる。本当は、きっと。勇子のことを考えなくてはならない。勇子の体と心の健康が一番だ。だけど、幸枝にできることはもうなにもないから。悩んでいるくらいなら、できることをやった方が建設的だ。焦りと不安ではやる心をなだめる。逃げているのかもしれない。でもそれでいい。少しでも進んでいるならそれでいい。
勇子に、メールを送ろう。
勇子は。勇子はどう思っているのだろうか。納得しているのだろうか。それなら問題もない。私のただの勘違いで終わるのが一番いい。
かなえられた願い
メガマス本社の席について何事もないように仕事をする。過去のデータや統計をとって、必要な実験を申請する。申請が通れば実際の実験に移って、自分がやったり被験者を募集したり、知り合いに頼んだり、そうやって積み重ねたデータが新しい形をつくっていく。幸枝が主体的に実験を行うことはそうないが、手伝ったり、データを借りたり、デモの対象に選ばれることはあった。
細々としたデスクワークは体をひどく疲れさせる。データをまとめたり、見比べたりしていると眼精疲労もやってくる。だから幸枝は、15時頃に適当に休憩をとることにしていた。
休憩する場所をとくに決めているわけではない。自分のデスクでコーヒーとお菓子をかじっているときもあれば、社内の休憩スペースに行くこともある。気分で行く場所を決めるが、今日はひとりになりたくてホールを目指していた。
メガマスは大企業なだけあって、所属する人間もきわめて多い。それに関連した企業や、関連した公務員も行き来する。幸枝が認識している個人名は本当に限られたものなのだ。
だから、人通りの少ない場所で、目の前に人が来たときにも取りあえずのあいさつをした。
「どうも地村さん。研究は進んでる? 電脳ペットと人間の脳波の可能性について、でしたっけ? 」
「はあ、周りの皆さんからデータをいただいたりして、……まあまあですね」
幸枝の記憶の中にぱっと思い浮かんだ顔はない。知り合いかも分からないが、相手がかなりフレンドリーに接してくるので、彼女は顔見知りだったかと内心で首をかしげた。返答も曖昧になる。
「それは素晴らしいことだ。これからもぜひ研究に励んでほしい。あなたのおかげで電脳ペットの分野ではかなり色々なことが分かってきてるからね」
「ありがとうございます」
名前が思い出せないまま、相手が名前を告げないままに話はすすむ。どうも慣れ慣れしい男だった。それなりに親交があれば名前はまだしも、顔を忘れるということはない。一方的に幸枝を知っているにしては、言葉の選び方がへたくそだった。
「いやー、本当にメガマスはあなたのような研究者がいて安心ですね。……ところで、ここだけの話し。地村さんってメガマスのことをどう思ってますかね?
GPSのエラーでご家族を、その、亡くしたってうかがったんだけど」
「--なぜ、今になってそのお話しを?」
血が沸騰するような怒りが巡るのを感じた。一瞬で頭に血が上ったようにすら思える。しかし、この場で感情を見せるべきではないだろう。目の前にいるのは、よく知らない顔の、中年太りはなはだしい男だ。殊勝な表情のではあるが本心とは思えない。簡単な知り合いに話すような内容ではないし、そういう態度からいやらしくヤニ下がった顔が透けて見えるようだった。
「あなたの仕事ぶりを評価しておりまして、ね」
鼻で笑ってしまいそうになるのを努めてこらえる。なにが「評価」だって? あなたは自分の名前も、所属もなにもかもを明らかにしていないのに私を評価する。自分がどれほど偉いと思っているのだろうか。
無礼で無神経な男だ。頭に上った血が冷えて、腹の底に懐かしい重い感覚が戻ってくる。無力感と怒り、復讐心が凝った感覚だ。
「人に評価されるほどの研究をした覚えはありませんが」
「いやいやご謙遜を。ああなたはそれだけ価値のあることをやってきたんです、もっと胸を張って」
大仰な身振りで幸枝に向かって胸を張れ、と言う男。ピエロよりも滑稽な動きをしているが、本人はいたって真面目な様子である。顔は脂で光り、タバコとコーヒーの匂いが染み付いている。40代だろうか、まじめに仕事をしていればある程度は役職を持つ程度の年齢だ。
返答をせずに男の目を見つめていれば、居心地が悪そうに眼をそらされた。所詮、その程度なのだ。幸枝とて、壮大な目標があるわけではない。だけども、男の立場だったならもっとうまく行くように準備しただろう。……その程度なのだ。
「その、」
「あなたがどのような提案をする予定だったのかは分かりません。でも、あなたの態度は信用することができません。私はしがない一般研究員ですし、出向扱いの部外者ですから。きっとあなたの期待に応えることも難しいでしょう」
だから、お断りです。言葉をさえぎってしゃべれば、話が進むにしたがって男の顔がいらだちに満たされていく。真っ赤な顔で、言葉尻に噛みつくように続けられたのが彼の全てだろう。
「あんた、きっと後悔するよ。この話を蹴ったことを……!」
「概要も知らない話を後悔もなにもないと思いますが」
怒りによる体温上昇だろうか、脂汗の増した顔は照明で光っている。その怒りがどれほどのものか推し量ることが幸枝にはできないが、彼にとってはかなりのものであるらしい。肩を怒らせて、ふんぞり返って幸枝をはねのけるように早足だった。ピエロよりも滑稽な姿であるように思えた。
その後姿をぼんやりと見つめていた。
滑稽だと感じるのと一緒に、心底腹立たしい気持ちがある。
なぜ今頃になってそんな話をされるか? メガマスの中でのバランスゲームに動きが出たからだろう。バランスが崩れたのか、それとも切羽詰まったから何かが動いているのか。
ならきっと、あれが現メガマスに迎合したがらない旧コイルス派なのだろう。なんの考えもない行動、浅い思考回路。よくもこれで派閥として成り立っている。それともあの男は試金石的なもので、私のことを精査しているのだろうか。
冷静に判断を下したつもりだったが、心が落ち着いてくるにつれて自分の行動に自信がなくなってくる。話を長引かせて詳細を聞いた方が良かったかもしれない。怒らせるのは適切ではなかったのでは。せめてもっと穏やかにするべきだったのでは?
いいや。それでいい。
私は"正しかった"。家族をメガマスの過失によって亡くして、それでもメガマスで働く人間として正しい返答をした。主義主張を一貫させていた。知らない人にいきなり声を掛けられた側として、おかしな対応はしていない。後悔が全くないわけではないが、でもきっと、いくら繰り返しても幸枝の頭ではあれ以上の対応はできなかった。
そうやって廊下の真ん中で後悔していると、幸枝が来た方からチーフがやってきた。珍しいことだ。そもそも、幸枝は人気のないところに向かっていたのだから、ここいらを歩く人がそもそも珍しい。
チーフは幸枝が気づいたことが分かったらしい。軽く手を上げて、さらに近寄ってくる。どうも幸枝に用事があるようだった。
「ああ、よかった。探していたんだよ地村さん。
空間管理局の室長には会えましたか? うん、大事な話はね、彼にするといいですよ。きっとちゃんと応えてくれる人ですから。それから、ちょっとついでで……手間をかけて申し訳ないんですけどね、これをその彼に渡してきてほしくて」
さらさらと話した室長は、懐から最近ではめったに使われなくなったUSBフラッシュメモリを取り出して幸枝に手渡された。
先ほどまでのやり取りとのギャップで、幸枝はいまいちうまく呑み込めなかった。
「えぇ、物質的なUSBメモリ……久しぶりに見ましたけど、これを……小此木さんに? このご時世にこれって大丈夫なんですか?」
「そうなんですがね、これが一番間違いがなくって。渡せば彼はそれで分かるはずなので。ただね、これ、こっそり渡してほしいんですよね」
「きっと、あなたの悪いようにはならないから」とチーフはやさしく言う。手のひらの上に乗っているのは、電脳メガネが普及してから見なくなった電子記憶媒体だ。黒くてキャップが付いているタイプ、あの頃にはよく見ていた一般的なやつ。
見上げたチーフは穏やかな顔だ。焦ってもいなければ、怒ってもいない。先ほどの男とは大違い。
チーフを疑う気持ちが、ないわけではない。でも、それ以上にチーフはこれまで幸枝を悪く扱わなかった。これまでに一度も。数少ない信頼できる人だとも思う。でも、そんな人に騙されたら、と考えるとたまらなく怖い。
だけど。
メガマスからほとんど外に出てきていない幸枝では、これ以上にできることはない。チーフを信じて、今までの自分を信じて小此木室長を頼るしかないのだ。
頷いた幸枝に、チーフは「おつかいを任せちゃって悪いですね」と微笑んだ。
*****
いつか教えてもらった空間管理局に連絡を入れる。呼び出しのコール音の後に取り次ぎらしい男性の声が答える。
「えぇ、と。小此木室長とお話しをしたいのですが・・・・・・」
『小此木ですか? 小此木は現在出張で外しております。帰ってくるのは・・・・・・調整次第なので、正確な日にちは分かりませんね、申し訳ありません』
なんとも間の悪いことに小此木室長は不在であるらしい。こういう絶妙な間の悪さが自分らしい、と幸枝は思う。
『えぇ、と地村さん。伝言でよろしければお伝えしますか? それともお急ぎでしたら、連絡先をお教えしますので、そちらで連絡を取ってもらっても構いませんが・・・・・・』
「あー……、急いでいるので連絡先を教えていただけますか?」
『かしこまりました。連絡番号は――』
メガネから呼び出し音がする。
呼び出される通知音はよく聞くが、呼び出すことはあまりないため少し新鮮な気分だ。
待つ時間はそう長くはなかった。
『はい、小此木です』
「お世話になっております。研究室の地村と申しますが、急ぎの要件で連絡させてもらいました」
『ああ、地村さん。ちょっと待ってくれるかな』
人の多いところにいたらしく、突然の電話に場所を移動してくれたらしい。電話の向こうで人の声と、指示を出す小此木さんの声がする。忙しい時間帯だったらしい。なんだか悪いことをしたような気持ちだ。
『お待たせしてすいませんね、要件をうかがいましょう』
「ちょっと電話でするには微妙な案件で、資料などもあるので顔を合わせて相談したいのですが。小此木さん、忙しいですか?」
『うーん、ぼくはしばらく金沢から離れられなくてね。あ、聞いてたかな? それで、もしよければ金沢まで来てもらえるかな? ……たぶん、その方がうまくいくだろうから』
その方が上手くいく、とはどういうことなのだろうか。小此木さんは穏やかな声で幸枝に返答をするが、詳しい話はしない。幸枝としても急ぎの顔合わせを断られたわけではない。疑問はあっても、困るほどのことではない。小此木さんの周りには人がいるようだし、詳しい話もできないのだ。しぜん、返答はためらいがちになる。
「わかりました。ではどこで待ち合わせをしましょうか。私はなんとかしますので、小此木さんの都合に合わせます」
『うーん、ぼくが前に住んでいた家の近くにしよう。美味しいコーヒーを飲めるお店があるんだ』
簡単に時間と店の名前について打ち合わせをすると、小此木さんは申し訳なさそうに電話を切った。ぎゅっと胸の前で右手を握り締める。
この判断が正しいかは分からない。何度目になるか分からない不安が押し寄せてくる。この不安というのは尽きることがない。だけど進めなくてはならない。
もしかしたら、チーフに嵌められたかもしれない。小此木さんは人当たりがよくて、落ち着いていて悪い印象はないけれど、もしかしたら説得で人を丸め込むのが担当なのかもしれない。
でももう幸枝にできることは多くなかった。どっちにしたって出来ることをやらなくてはならない。勇子のことを考えれば時間も少ない。騙されたって、また次に何か考えればいいだけだ。自分が裏切られるなんて、些細な恐怖だ。
すぐにしりごむ自分の性根に苦笑いが出る。
気が付けばもう退勤時間を過ぎていた。夕暮れを確認しながら、個人所有のパソコンの電源を落とした。
り、り、り。
呼び出し音だ。歩いていた足を止める。幸枝は電脳メガネからの通知にやけに気を引かれた。夕暮れに通知音。まるであの日の再現のようである。ごくり、喉が鳴った。虫の知らせのような、名状しがたい嫌な予感が湧き上がってくる。呼び出し音は鳴りやまない。手のひらがいやに湿っている。
先ほどまでとは違った覚悟がいった。指先が震える。メガネに映っているのは、呼び出ししてきたの相手の名前。天沢の、
『ああ、幸枝さん。勇子が――』
これからは月一更新になります。
7月の末に更新したいですが、がんばれなかったら8月末に更新になります。