○月○日(△)
ほんとうによかった。
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金沢市はざま交差点
私の行動はなんらかの監視を受けているのだろうか。人からの監視、カメラの監視、それからメガネの監視。メガマスの特性を考えればどれも容易く行われてしまいそうだ。
これまでずっとメガマスの中で怪しまれないように生きてきたつもりだった。馬鹿みたいな好奇心と知識欲の塊で、電脳技術が大好きな人。そういう人に見られるようにしてきた。何年もやってきたのに、疑われているのかもしれない。
もしも監視があるのなら、ばれないように小此木さんに会わないと要らない手間が増えてしまう。勇子が生死をさまようような手を平然と使う相手だ。小此木さんに妨害のような危害が加えられるのはいけない。どうしたらいいだろう。
悩んでいたものの、一周回って堂々と会社を休めばいい思いついたのはすぐだ。有給だってちゃんと使われて本望に違いない。薄暗い気持ちを持つ必要なんてないだろう。見舞いも墓参りもそうやっていたのだ。密談だって有給でやっていい。
こっちは親戚が生死の境をさまよっているのだ。休んだって不思議じゃない。休んで正解だ。本当にクソみたいな日だ。
小此木さんとの約束の日に勇子が倒れていなくて良かったと、思う。どちらも、おざなりになっていたら、幸枝は耐えられなかっただろう。
勇子の青い顔が思い出されて、幸枝は強く目をつむった。そして、なんらかの突破口になりそうな小此木さんのことを思い出す。
しかし、金沢とはまた、不思議と縁のある街だ。
待ち合わせ場所を検索してみると、その喫茶店は案外とアクセスのいい場所にある。幸枝は迷ったが、今回は電車での移動にすることにした。少しでも目くらましになればいい。そう思いながら電車に揺られる。乗り慣れないからか、幸枝はだんだんと不安な気持ちになっていた。移り変わっていく町並みも、勇子から離れていくのも、そんなはずはないのに身から何かが剥がされていくような気がする。
手元にはメガマスを訴えるのに必要なデータがいくらだってあるのに、幸枝はいつだって不安だった。幸枝自身にも理解できないほどで、決定的な監視カメラのデータですらも彼女の心を落ち着かせられない。
そんなだったから、喫茶店に着いて小此木さんの顔を見たときにはほっとしてしまった。
目立たない通好みの外観に、かろりと鳴るベルの音。観葉植物や衝立でゆるく切り分けられた空間。タバコとコーヒーのにおい。
先に席にいた小此木さんは、ベルの音にひょいと顔をのぞかせて幸枝を手招いた。
挨拶もそこそこに幸枝は本題を切り出す。そんな時間も惜しいと思ってしまう。鞄から取り出したのは小さな黒い記憶装置。
「チーフの佐脇から預かってきました。こちら、小此木さんにお渡しします」
「ありがとうございます。旧式のUSBフラッシュメモリだなんて、彼もよく考える」
内容を確認させてもらいますね、と一言告げて。小此木さんは鞄の中から接続アダプターで閲覧をはじめる。
小此木の目の前の幸枝は、上着も脱がずにじっと座っている。運ばれてきたコーヒーはまだあたたかいはずだが、それに口を付ける様子もない。
その顔はお世辞にも明るいとはいえなかった。
『旧コイルスの研究データの一部と、現メガマスの事故データの一部をここに。
全部のデータは怖いから乗せられないけど、ネット上にもいくらか分散して保存している。これを使っていい結果が出せるといいんだけど。
小此木君の手腕に期待しているよ。こんなことを頼むことになって申し訳ないね。
それから、他の情報は彼女が保持している。話を聞いてあげてほしい。』
古くから付き合いのある相手だ。今までの暗号キーをいくつか試すと、該当のファイルが勝手に開いて内容が読めた。
続いてUSB内に保存されているいくつかの情報、該当のアクセス先のURL。簡単に目を通すが、まさにほしいと思っていた情報である。佐脇は見た目よりもはるかに出来る男だ。
その彼がそう伝えてきたのだから、小此木も腹を決めて話さないとならない。彼女がどういう存在なのか、小此木もデータベースから拾ってきた情報を知っていた。
「さて、地村さん。ぼくたちは少し話しをしなくてはならない。あなたにはきっと信じられないことだろうけど。
――ぼくはね、メガメス内部の監査を行っているんだ。それも、メガマスから依頼を受けた上で」
「は? 」
メガマスが内部調査を行っているということが理解できなかった。なぜ今更になって。調査をしているのに、勇子はああなっているのに。小此木の話に幸枝は混乱を深めていく。
「幸枝さんのことは噂ですこし聞いたくらいだけど、どうもメガマスのことは信じ切っていないんじゃないかと思ってね。・・・・・・データベースを見させてもらったからさ。
どうだろう、答えにくいしやりにくいとは思うんだけど、きみの考えが聞きたい」
「い、いえ。あの噂は、? 仕方ないと思うのですが、内部監査を小此木さんがされているというのは? 」
「そうだ。ぼくはそのために空間管理室に配置されたといってもいい。きみの上司の佐脇はとくに協力的な人だ」
「チーフが・・・・・・」
「そう。それで彼があなたを指名した。これまで得た情報以上のものをあなたが持っている、と」
ごくり、唾がのどを落ちていく音がした。
そのときの感情をどう表すべきかを幸枝は分からない。ただ、とても、心臓がしめつけられるように痛んだ。痛むのを唇を噛んで耐えた。あの人は、本当に幸枝に良くしてくれた。
「本当に、小此木さんは、メガマスのことを直してくれますか? 」
あえぐように出た言葉の幼稚なことが、小此木にはことさら痛々しく感じられた。この人は、メガマスの被害者のひとりだと、小此木は知っている。
「正直なことを言うとわからない。でも、出来る限りのことをしたいと思っている。メガマスはもう少しちゃんとしなくちゃならない。利権と便利さにあぐらをかくだけじゃだめだ」
真剣に話す小此木の目が、ひとつもそらされないことが幸枝に真実味を与える。不意にこの人はやっぱり小此木医師の家族なのだと感じられた。あの人もやっぱり、真剣に向き合っていた。
だから幸枝は信じられると思った。
「・・・・・・信じます。
お渡しします今まで集めてきたデータを、すべて。
ですが、集めてきたデータの多くは個人のサーバ、それもスタンドアローンのものに保存していて、今お渡しできるものは多くありません」
電脳空間に対する熱意と好奇心の強い人として仕事をしてきた。怪しむ人は天沢勇子の事故を知っている人だけだが、あれも表向きは事故として処理されている。だから、根本的には彼女は「知識欲豊かな人」でしかない。その彼女が今までしらみつぶしに集めてきたデータの集積だ。
幸枝は言葉とともにモニターを展開させる。ダミーや暗号、パスコードを乗り越えるた先にいくらかのデータが保存されている。電脳メガネと交通事故数、原因の抽出と統計だ。これくらいなら見つかったところでたいしたことはない。
「電脳空間に関するデータはできるだけ集めています。アクセス権限を得たのが最近なので、集めきっていない部署のものもありますが・・・・・・交通系に関しては出来るかぎりやったつもりです」
「いえ、正直なところこれで少しというのは謙遜がすぎるんじゃないかな。ぼくの権限では得られないデータもあるみたいだからありがたいし、別口でもらうデータもあるから、あまり心配しないでくれていい。
・・・・・・裏付けもとれたし、不具合の公表は間違いなく行われる」
小此木の言葉に幸枝は安堵した。今までの時間は無駄じゃなかった。これで、メガマスにメスが入る。なにかが変わってくれる。誰かが正しくなかったことが明らかになる。
長く、幸枝は息をついた。
あまりにも長い時間が必要だった。でも、まだどうなるのかわからないからと、自分に気合いを入れ直す
もうひとつ、と小此木は言う。
「不躾な話になるかもしれないけれど、地村さんの姪の天沢勇子さんの件だけれど、――そっちにも手を回せると思う」
勇子の状態はどうなっているのか、と小此木は幸枝に尋ねた。もともと明るくない幸枝の顔は、それだけで驚くほど曇った。状態が良くないことが伺えた。
「勇子は、誰がやったのかわからない転落事故で、おそらく、ですが・・・・・・コイルドメインにアクセスしているのではないかと思います。
彼女自身は電脳空間からのリンクが切られています。だから迂闊に触れるのは危ぶまれる。それで、電脳体を調べました。・・・・・・あまりに消耗が進んでいました。自意識と電脳体に齟齬が現れるのも遅くないでしょうし、もう起きているかもしれません。
コイルドメインにアクセスしていると推測した理由は2つ。
1つめは電脳体の様子に見覚えがあったこと。心理的・身体的な衝撃が過去のリンクを思い出し・・・・・・、イマーゴ機能によってアクセスしたのではないかと考えられます。
2つめは、勇子がずっと夢を見てることです。勇子は、昔の電脳治療中、ずっとあんな様子だったんです」
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side:イサコ
気がつけば薄暗い石畳の上にいた。場所に検討がつかない。道の向こうには階段が続いている。
登りの先も、下りの先もぼんやりとした霧に覆われて見通すことができない。
「ここは・・・・・・」
その階段の先からさやさやと囁き声が聞こえる。はじめは聞き取れないほどの細さだったが、だんだんと聞き取れるようになっていく。
「あっ・・・・・・お兄ちゃん・・・・・・? 」
わずかに聞こえる声に聞き覚えがあった。この声は。やさしい、遠い記憶の中で何度も繰り返した声だった。
「お兄ちゃん・・・・・・っ! 」
兄の声に刺激されて今まで忘れていたことが思い返される。今までどれだけ会いたかったか。どこに一緒に行きたかったか。今まで自分がどれだけ頑張ってきたのか。話したかった。褒めてもらいたかった。
「そうだ、この階段の上。そこにいるのね? お兄ちゃん! 」
勇子はにわかに思い出していた。この階段に確かに見覚えがあった。この階段の上には公園があって、そこで、そこでお兄ちゃんと長い時間をすこした。なら、ここを上ってしまえば――やっとお兄ちゃんに会える! 自然、勇子の顔には笑顔が浮かんでいた。
『勇子、勇子』
ああ、お兄ちゃんが私のことを呼んでいる! いつぶりだろう。この声をずっと待ち望んでいた。
いつぶりだろう。まだ私がお母さんと一緒だった頃を思い出す。あの時は、たしか――
階段を上りながら思い出す記憶の中。まだお母さんはやさしくて、私とお兄ちゃんのお人形を作ってくれた。
「見て! お母さんが作ってくれたの。このお人形はお兄ちゃんと私。だから私のこと忘れないでね」
『忘れないさ。勇子こそ僕のこと忘れるなよ』
お兄ちゃんはそう言ってやさしく頭を撫でてくれた。
まだ思い出す。そうだ、まだあった。お兄ちゃんが私の話を、
「・・・・・・お母さん、時々怖いの。私のこと、ぶつの」
『泣いちゃだめだ、イサコ』
「イサコ? 」
『ああ。秘密の暗号名だ。勇子の勇は”いさましい”の勇。だから――イサコ』
「うん! 」と頷いた。嬉しかった。そうだ、それはお兄ちゃんと私だけの秘密だって、秘密の暗号だって言った。それで、お兄ちゃんの秘密の名前は・・・・・・?
『そうだなあ、僕は4423』
数字だけのそっけないそれに、私は少しだけ疑問を抱いた。でもそれよりもずっと、お兄ちゃんと秘密を共有できたことの喜びの方が大きかったのだ。
『さあ、もうすぐお別れの時間だ。上で遊ぼう、イサコ』
一緒に遊ぼうと言われたことが嬉しくて、満たされた気持ちの中で一緒に階段を上った。それが、ここだ。この階段だった。
息が上がる。声が聞こえる。やっと、これは夢じゃない! 今まで何度もがっかりして目覚めた嘘じゃない。本当にお兄ちゃんに会える!
「ああ、お兄ちゃん! 」
『ゆうこ、ゆうこ・・・・・・! 』
誰かの声が私の名前を呼んだ。水を差すように、喜びに舞い上がっていた気持ちが少し落ち着く。誰だったろう。でも、親しげで、懐かしくて、あの人といるのは楽しかった――
『迷ってはダメ。そのまま進むのよ、勇子』
ああ、ミチコが呼んでいる。あとちょっとだ。最後の鳥居をくぐったら、そこの先にはずっと待ち望んでいた姿が――
『おかえり、勇子』
「お兄ちゃん! 」
ヤサコとイサコ
「えっ! 優子を迎えに行けって・・・・・・どうし、わかってるって! ちゃんと迎えにいくよ。ポイントは? ・・・・・・うん。ええ? 」
会話に区切りがつき、冷めたコーヒーをすすっていると小此木に電話が入った。断りを一言入れて、小此木は席を立ったのだが、静かな広い店内だから声は聞こえる。なにかしらのアクシデントらしい。
席に戻ってきた小此木は渋い顔つきだ。
「用事ですか? 」
「そうなんだ。申し訳ないけど、急ぎみたいで。娘を拾って大黒市に戻るよ。今までの資料で話を進めることができそうだから。地村さんもよければ大黒市まで送ろう。・・・・・・いや、その手腕を見込んで是非とも協力してほしいのだけれど」
「・・・・・・? 私が出来ることでしたら」
「じゃあすぐに行こう。マスター、お会計! 」
本当に急いでいる様子の小此木さんは、ばたばたと店を出て車まで走る始末だ。これには幸枝もびっくり。
車に乗り込んだら乗り込んだで、あちこちを触りながら作業をしている。幸枝は見るのを咎められないことをいいことに観察している。彼が触っているのはメタバグだ。
「その技術はどうやって生まれたんですか? 」
「これかい? ぼくは母から習っただけだから詳しくないね。父ならもっと詳しく分かっただろうけど、ぼくに分かるのは組み合わせと効能だけ」
メタバグを組み合わせて札に仕上げた。幸枝にはまったく仕組みがわからなかった。幸枝が知るメタバグとは感情の結晶である。それが札にされて、それでどうする。どうなる。
研究員の性なのか、頭の中で推測が勝手に進んでいく。興味深いが、メタバグに対する理解が浅いことがわかるため推測は進まない。
「よしできた」と小此木さんが成功を告げた後、車は急発進し、幸枝は急な運転に奥歯を噛みしめながら耐えることになる。こんなことなら自分の車で来れば良かったと後悔をしながら。
しかし、それもあっという間である。小此木さんの娘さんは金沢市にいたらしい。
「ああ、いた! すれ違わなくて良かった」
車内での小此木さんのほっとした声と、見つかった瞬間の喜びの姿というのはすごかった。小此木さんは「お父さん」になった。
歩道に寄せて、小此木さんは声をかける。
「乗るんだ! 」
「室長? 」
道ばたにいたのは3人の少年少女だ。そのうち2名には見覚えがある。ひとりは小此木さんの娘さんだ。検索したときに勇子と同じ音だから覚えていた情報である。
顔見知りであるもう一人、原川玉子さんは小此木さんを認識するやいなや頭を下げている。幸枝のことも目に入っていない。
「室長、こんなことになってすみません。でも娘さんのやろうとしていることは決して・・・・・・」
「後部の電脳ポシェットにメタタグが入っている」
原川さんを後目に、残りの二人は車のドアを開けて乗り込みはじめた。メタタグという言葉に反応して、原川さんもようやく車に乗り込む。三人とも小此木さんの言葉に夢中だ。
「メタタグ・・・・・・? 」
「これだ」
「コイルタグだ! 」
提示されたのは、先ほど作られた電脳物質だ。どうやらあれはコイルタグというらしい。コイルとタグという言葉から連想されるのは、その物質がなんらかのアンカーの役を果たすのではないかということ。
「何でこんなものを? 」
「本物じゃない。ぼくの技術では再現できなかった。でも、対処療法くらいにはなる」
「お父さん・・・・・・」
「優子、こんなときに近くにいてやれなくてすまなかった・・・・・・」
ヤサコの声に返す小此木の声は後悔がにじみ、肩はうなだれている。その様子に玉子はなにかに気がついた。強い目でルームミラー越しに小此木を見る。
「室長、アンタまさか・・・・・・」
「会員番号1番だ」
「「「コイル探偵局のバッチ! 」」」
「おふくろには色々、弱みを握られていてな・・・・・・」
「やはりその手口か! 」
「ふふふ」息がぴったりのやりとりに、幸枝は思わず笑ってしまった。真剣に話していたのに、どうも小此木さんのお母さんの存在で楽しくなってしまう。ということは小此木医師の奥様だ。幸枝は小此木医師が話してくれた話しを思い出して「らしい」と思う。
一方、幸枝の笑い声に後部座席の三人が、ようやく彼女に意識を向けた。小此木さんはバツが悪そうに視線を動かし、ことの本題について触れていく。さきほどまでのゆるんだ空気は消え去った。
「それだけじゃない。実は半年ほどまえからメガマス本社の要請で内部監査を手伝っていたんだ。
――それでこちらが、」
「地村さん? 」
座席の間から後ろに軽く会釈すれば、原川はすぐに気がついたらしい。
「なんだ。玉子さんは顔見知り? この人はメガマスの監査を手伝ってくれている地村さん。優子のクラスメイトの天沢さんの親戚だよ」
「どうも地村です。姪の勇子がお世話になっています」
驚いた気配はあるものの、ふたりは目を大きくして幸枝に会釈を返した。
「・・・・・・メガマス内部にも旧コイルスと繋がった一派がある。彼らはある男を動かして失われたコイルスの技術を手に入れようとしている」
「それはいったい何者なの? 」
「失踪したコイルス主任技師の名前を知っているか? 」
幸枝は小此木の話しに目を瞬かせた。すぐに分かったからだ。
「その技師の名は・・・・・・猫目。猫目宗助は失踪した技師の息子だ」
車のエンジンの音に、小此木の話す声。車は着々と大黒市に近づいている。だんだんと、幸枝は不安を思い出してきた。
「彼は旧コイルス一派と組んでイマーゴを軸に本社を脅す気だったんだろう」
ああ、だからと。幸枝は今までに自分が蹴ってきた話しはこれだったのだと気がついた。メガマスに恨みがあって、電脳技術に造詣がある人。猫目が、あるいは幸枝に声をかけた人はそれが目的だった。
「まさかカンナの事故も? 」
「いや、原因はイマーゴと古い空間によって起こったナビの誤作動だ。研一君のデータがそれを裏付けたよ」
「本当ですか! 」
「ああ、本社にも不具合の公表を確約させた。カンナ君には何の落ち度もない。研一君、みんなの誤解を一緒に解こう」
「はい! 」
「ハラケン、よかった」
自分と同じ苦しみを抱えた人を目前にしたのははじめてだった。じっと前を見つめたまま、幸枝は胸のうちに広がる感情と対峙する。もっと、はやく出来ていたら――。しかし、後悔と同時に「これで報われる」とも。
「大黒市に入るぞ」
後部座席では幸枝に聞こえないように声を潜めた会話が行われていた。原川とヤサコである。原川は幸枝のことを気にしながらも、今回の件で大きな鍵になるであろう情報を伝えようとしていた。きっと、ヤサコ自身も鍵になると思いながら。
こそこそと話したのは事故の詳細がわかって、幸枝に直接聞くのははばかれたのである。
「天沢さんのお兄さんが? 」
「そう。亡くなったのは交通事故よ。5年前に」
「天沢さんに伝えないと・・・・・・」
大黒市のメガマス病院の前で車は止まった。駐車場に行く時間すら惜しく、車から飛び出そうとする彼女たちに幸枝は声をかけた。
「・・・・・・ユウコさん、私の姪のことお願いします。私にはまだやることがあって、ついていてあげられないから」
ヤサコたちは幸枝の言葉に不思議そうな顔で急いでいく。彼女たちは本当に急いでいたから、幸枝の言葉の意図にまで意識が割けなかった。
反対に幸枝の言葉を聞いて小此木は意外に思いながら顔を向けた。
「地村さん、ぼくのことは気にしなくてもいいから病室に行ってください」
「勇子は・・・・・・絶対に戻ってきます。だから大丈夫です。それよりも資料をまとめて、早々に問題を明らかにしないと」
「――それは、」
身内の一進一退に薄情なんじゃないか。そう思った小此木だが、幸枝の手が抑えきれないほど震えているのに気がついた。年長者としてできるアドバイスがあると、小此木は思った。
ヤサコのお父さんじゃなく、小此木室長でもなく、ただの肉親を亡くしたことのあるひとりの人として。
「地村さん。不安ならそばについていた方がいい。その方が、――いつか後悔しなくてすむ」
幸枝は視界が涙で曇るのを抑えきれなかった。本当は、ずっと側にいたかった。けれど、自分がいたところで変わることなんてないから、出来ることをしなくちゃいけないと思っていた。
「大丈夫。ちゃんと準備は進んでいるから。今日はユウコちゃんの側にいてあげなさい」
車から降りてしまえば駆け出すだけだ。
通い慣れ、見慣れた道のり。勇子が小さい頃の入院から何度も来た。
運動不足の足が悲鳴をあげている。でも大したことじゃない。病室が近づくにつれ、人通りは少なくなっていく。出来るだけ急いだ。心臓はもうずっと痛い。
病室のドアを開ければ、そこにはもうみんなそろっていた。先ほど分かれたばかりの3人、天沢の義兄と義姉、それから小此木医師の奥様。
幸枝のメガネには、電脳空間が焦げた痕跡が見て取れた。ここでなにかがあったらしい。そして、苦しみに身をよじる勇子と、すがりつくように身を寄せて叫ぶユウコちゃん。
「天沢さん! そうよ! こっちよ! 」
アクセスログを確認すれば、勇子の「魂」がアッチにいってしまいそうなのがわかった。どうして。
でも、居並ぶ人の中でユウコちゃんだけが呆けも諦めもしなかった。
「天沢さんのばか! それでも天沢勇子なの? あの勇ましい天沢さんなら戻ってこられるはずよ! 勇子のユウは”いさましい”のユウ! 勇ましい、あなたは痛みを恐れない勇ましい女の子。だからイサコ! 戻ってきなさい! イサコ! 」
イサコと、ユウコちゃんがそう呼ぶたびに勇子のリンクが戻ってくる。
――奇跡だ。
それがどんな奇跡にも劣らない所業だと、少なくとも幸枝には理解できた。隣に立っていた小此木医師の奥様も信じられない顔でログを見ている。
意識を取り戻した勇子の姿に、私の体はついにいうことを聞かなくなった。膝に力が入らない。体をぎゅっと丸めてしゃがみこみ、熱くなったまぶたを手のひらで隠した。ぎゅっと抑えておかないと無様な声をあげてしまいそうだった。
「よかった……! 」
side:イサコ
「――! 」
私を呼ぶ声がする。本当はずっと知っていたのだ。ただ気がつきたくなかっただけ。
ミチコとお兄ちゃんの思い出の中に、ちらちらとよぎる影があった。
アイスを買いに行ったり、新しいおもちゃを買ってくれたり。お兄ちゃんはよくその人の話しをした。長いお休みになったらまた来てくれるよ、と。
その人は時々あらわれて、お父さんとお母さんの知らないことを教えてくれる。久しぶりに会うのにすぐに仲良しになって、たくさん遊んでくれた。
「ユキちゃん、次はいつ来てくれるかな・・・・・・? 」
『勇子、今日はとても暖かい日だよ。――、・・・・・・』
まぶたに光りを感じる。目を開けたらそこにはヤサコがいて。ああそうだ。私の胸の痛みは、夢の先はここにあったんだと分かった。
ぎゅっと引き寄せられた手に頭を少し起こして、思うままに口を開く。ヤサコはきっと聞いてくれる。
「うん。おかえりイサコ」
「ただいま、ヤサコ」
涙がこぼれた。胸はずっと痛む。でも私はここで生きていく。ほかの誰でもなく私が大人になる。
お兄ちゃんを置いて、私は大人になっていく。
閲覧・感想・評価ありがとうございました。次が最後のお話です。