明里視点の話になります。
踏切での別れの後、彼女はどう過ごしていたか。
彼女は、思い出をどのように捉えていたのか。
そもそもいつ、彼女は「思い出」にしたのか。
「A time in spring」の少し前。
三月の話から、始まります。
夢は、他の平行世界にいる、別の自分が見ているものなんだって。
昔、何かのテレビ番組で言ってた。
とてもインチキっぽくて、まだ子供だった私ですら信じていなかったけれど。
そうだったらいいな、と思う。
彼と生きていくことを、夢に見ながら。
彼のいない世界で、生きていこうと決めた。
思えばもう、その時点で。
現実と、夢は、分かれてしまっていたと思う。
彼が、いるか、いないか。
その違いだけで。
現実は、思っていたよりも優しくて。
沢山の幸せも、愛も溢れていた。
夢の中ではずっと、彼と桜の木の下。
肩を並べ、同じ未来を見据えている。
現実だけは、しっかり進んで。
夢だけは、進まない。
そんなことって、あるのかな。
今が、その未来じゃないのなら。
夢は、いつまで、夢であれるのだろう。
夢の終わりが、どこにあったんだろう。
=====================
夫と円満に暮らし、子宝に恵まれ。
毎日毎日、惜しみなく。
思いつく限りの愛情を、子供にひたすら与え続ける。
与えたものをどんどんと吸収し、大きくなっていく娘に日々感動があり、
子供と共に、自分が強くなっているような感覚に喜びを覚えながら、日々を過ごす。
今の生活に不満が無い訳ではないが、心の底から幸せな。
そんな日々の中での出来事だった。
三月の上旬。
篠原明里は一泊だけ、一人実家に帰ることになった。
季節の変わり目のせいか、揃って体調を崩してしまった両親の、看病のためである。
娘も連れてこようかと考えたが、両親の世話で相手ができない、周囲に何もない岩舟の実家に連れて行ってもしょうがないので、夫に家と娘を任せ、彼女だけ行くことにした。
娘は母親っこ過ぎるところがあるから、たまには離れてみた方がいい…という、教育の目的も実はある。
ただ、彼女が実家に到着した時には両親はほとんど回復しており、家事もほぼいつも通りに行われ、彼女がやるべきことはあまりなく、ただの帰省になってしまい。
子供が生まれてから数えるほどしかなかった自分の時間を、久しぶりに彼女は手に入れた。
昼過ぎ、寒さの中にも仄かな温かさを感じられる、三月らしい気候の中。
近所を気ままに散歩し、静けさに心を落ち着けて。
その後彼女は自室の机にゆったりと座り、持ってきていた小さな文庫本を開いて、読書に耽っていた。
そうして夕方、その文庫本を読み終えた後。
窓の外から部屋に、夕焼け色の光が差し始めて。
夕焼け、一人、この部屋にいる状況に、何か懐かしさを覚える。
あぁ、そういえば。
入籍前に、ここに帰ってきた時に。
押し入れの中を整理していて、私は…
未だ押し入れの缶の中にある、手紙のことを思い出した。
ずっと前、大好きだった男の子に渡すはずだった、別れの手紙。
入籍前に、一度読もうとして、途中で止めた、手紙。
あの時は、読むのはまだ早いと思っていたけれど。
…今なら、もう、大丈夫なんじゃないかな。
何が「大丈夫」なのか、その根拠も欠けている自覚はあったが、
こうして一人になれる機会もそうそう無い。
それに、何か勢いに任せないと、もうあの手紙を読み返せないのではないか。
そんな予感もあった。
押し入れを開く。
あの時と変わらない、段ボールの配置。
缶は確か上の段、昔のものを詰めた箱の中。
…
…あった。
クッキーの空き缶の中。
昔と変わらず、薄いノートに、挟んである。
床に座り、手に取った手紙を無心に眺めた。
手紙の感触から、胸の奥で優しい何かが目を覚まし、息を吹き返すような感覚。
思い出の切れ端が、頭の中に芽吹き始めるような。
…今なら、きっと。
彼女は心を決め、手紙を開き、ゆっくりと読み始めた。
あの雪の日の夜。
桜の木の下。
彼の優しい、微笑み。
眼差し。
キスの感触。
その前と、後の世界。
会う前に感じていた、別れの予感と。
キスの中に見えた、春のこと。
とても大事な、思い出たち。
ずっとずっと変わらない、温かな。
綺麗な… 優しくて。
そうして思い出に浸り、その温かさに包まれる。
ふと、
一瞬頭をよぎる、踏切の先の、彼の後ろ姿。
数年の前の春、すれ違った時の。
そして、今の。
夫や、娘との日々が、よぎる。
目眩がした。
頭の中が溢れて、視界にあるものが、虚ろに。
力も抜けて、自分の鼓動も、急に弱くなってしまったたような。
歩くことさえ、ままならないような。
自分を支えていた、大切な力が無くなってしまったような、感覚。
悲しみとも、寂しさとも、不安とも、違う。
喪失感や、虚無感。
今までも、昔のことを思い出すことは、たまにあった。
でも、こんな風になったのは、初めてだ。
私は今、何を感じているのだろう。
何で、私は、こんなことに。
何もわからないまま、手紙を手に持ったままで、彼女はその場に座り続けた。
未知の混乱に襲われたまま、頭の中を整理しようとする。
私は、この手紙を読んで、どうしたかったんだろう。
入籍前日の夜、何で、途中で読むのを止めたんだっけ。
どうなってしまう、予感があったんだろう。
何年か前、春の、ある日、踏切ですれ違った、彼。
彼は、あの遮る電車の先で、待っていただろうか。
何でその答えを、私は、今、求めているんだろう。
日も沈みかけ、暗闇に染まりかけた部屋の中。
夕食を一緒に作らないかと、母に声をかけられるまで。
彼女はその場で手紙を手に持ったまま、ひたすら考え続けていた。
======================
母と雑談しながら一緒に夕食を作り、両親と食卓を囲む。
こうして三人でご飯を食べるのは、随分と久しぶりだ。
子供が生まれてからは、多分一度も無かったと思う。
懐かしさを感じながら、近況の話に花を咲かせた。
夫の仕事の話、未だ直らない癖の話。
娘の成長について、最近覚えた言葉について。
二人目はどうしようか。
収入は大丈夫か、今後私も働くのか…とか。
「今」のことを話す。
その間だけ、心の安定を得ることができた。
多分、誰でもよかった。
誰でもいいから、何でもいいから、今の話をしたかった。
そういう会話しているだけで、今この現実の感触を確かめられて。
その間だけ、手紙のことを忘れられるから。
でも、回復してきたとは言え、まだ熱の残る両親。
夕食を食べ終えると、「早くちゃんと治さなきゃな」と言って、二人とも寝支度を始めてしまった。
もう少しだけ、話し相手になって欲しい、なんて。
子供の我儘のように思えて、言えなかった。
…何かが、辛い。
ピリリリリリッ
ポケットの中の携帯が震える。
タイミングを見計らったかのように、夫から着信が来た。
すぐ、電話に出る。
「やぁ。今、大丈夫かい?」
夫の声に、再び安らぎが胸に広がっていく。
両親の調子や、久しぶりの栃木の話をする。
夫の後ろであの子の喚く声も聞こえる。
…あの子も元気そうだ。
その優しい声に落ち着きを取り戻しながら、明日の帰りのことを話していると、急に夫の声が途切れ、突如慌ただしい音が響いた。
「お母さんどこ~!?」
娘が電話を奪ったようだ。
自分を呼ぶその声に、思わず微笑みが零れる。
今日なにしてたの?
まだ帰ってこないの?
夕ご飯はなに食べたの?
おいしかった?
お父さんのご飯おいしくなかった!
はやく帰ってきて!
矢継ぎ早に放たれる娘の言葉が微笑ましく、思わず東京の自宅が恋しくなる。
「明日また、すぐ会えるんだから。
お父さんのことちゃんと聞いて、いい子にしなさい。」
「わかったけど、早く帰ってきてね!」
思わず笑ってしまう。
そうして、おやすみを交わし、電話を切った。
カチッ カチッ
時計が刻む音だけが、居間に響き。
その静寂が、無力感のような何かを、また連れてきた。
また、すぐ会えるんだから。
娘に言い聞かせた、言葉。
ただの、挨拶のようなものなのに。
何故か、今この時だけは、残酷な言葉のように思えた。
気を紛らすように、洗い物をする。
でも、今日は料理も少なめだったから、すぐに終わってしまった。
…静かだ。
テレビをつけてみる。
お笑い、アイドルのライブ、温泉の紹介…
チャンネルを回す。
しっくりこない。
一番マシに思えたニュースをしばらく見ていたけれど、
むしろ邪魔に感じてしまい、結局消す。
時計が針を進める音だけが、響く。
カチッ カチッ
時間は、まだ21時過ぎ。
寝るにも、まだ早い。
そもそも、多分、眠れない。
力の無さに屈したように、重力任せに椅子に座り、テーブルに上半身を預ける。
私は今更、どうしてしまったのだろう。
…中学生の頃。
あの手紙を学校の鞄に入れて過ごした日々。
あの日々の中にあった、ただ、どうしようもない、という気持ちに似ている。
ぼんやりと、部屋を見回す。
壁にかけたカレンダーが、目に入る。
…そういえば、三月は。
昔、彼がここまで来てくれた日も、三月で。
私が手紙をしまったのも、三月の、中学の卒業式で。
それまでは、あの桜の木。
中学生まで、彼のことを考えた時、たまに見に行ってたっけ。
でも、手紙をしまってからは、もう、行くのも止めようと思って。
高校からは遠くに見る程度で、近寄ってもいない。
私はいつ、あの夜を、思い出にしたんだろう。
カチッ カチッ
立ち上がる。
コートを手に取り、羽織る。
静かに靴を履き、両親を起こさないように、そっと。
彼女は玄関を開け、外に出た。
======================
三月の栃木、それも夜となると、やっぱりまだ寒い。
息が白い。
風が強い。
空は雲一つない、満天の星空と綺麗な満月。
月明かりの下、薄い銀色に輝く田園。
遠くに、人家の灯りが、疎らに見える。
あの日と違って、雪の気配は微塵も無い。
この時期にあんな雪が降ることなんて、あの日以降そうそう無かったと思う。
何て、静かなんだろう。
世界に私しか、いなくなったみたいだ。
そんなことをふと、頭に浮かんだ。
…あの日、家から駅に向かう途中。
どれくらい寒かったか、どれくらい雪が降っていたか。
周囲がどれだけ暗かったか、どんな、景色だったか。
この道を走って駅に着くまでのことは、あまり覚えてなくて。
彼が、会いに来てくれる。
久しぶりに、彼に会える。
頭の中は、そのことばかりだった。
胸の鼓動の速さに合わせて、必要も無いのに急いで走った。
約束の時間より早く着いてしまうと、分かっていても。
電車がかなり遅れていると、分かっていても。
手作りのお弁当と、大きな水筒を入れた鞄を持って、走って、走って。
あの時は、行く先が完全に決まっていて、他の道なんて無かった。
漠然と広がるその先への不安や心配は、尽きなかったけれど。
あの駅で、また、彼に会える。
その目の前の幸せだけを、ひたすら考えてた。
そうして着いた、駅の待合室で彼を待ちながら、私は、あの手紙を書いたんだ。
手紙を書き終わった後、眠気が襲ってきて…
目を開けたら、そう、彼が目の前に…
その後にあった、駅の待合室での温かな時間を思い出しながら、
遠くに見える岩舟駅に目をやる。
小山方面に発車したばかり電車が加速していくのが、小さく見える。
段々と速く、遠くなっていく、音、光。
何だか、胸が苦しくなる。
…ここの冬は、こんなに寒かったんだな。
もう二週間も経てば、春だって言うのに。
時折吹く風の寒さに耐えながら、
桜の木に向かって、歩き続けた。
======================
桜の木に続く、真っ直ぐな細い道の上を、歩く。
あの人と並んで、歩いた道。
目の前の景色に、自然と在りし日の思い出の景色が、重なる。
大きくなっていく、桜の木の輪郭。
記憶の中の、雪の気配。
無いはずの雪に、足が埋もれる感触。
二人が雪を踏みしめる音だけが、響いて。
幻のように、二人が肩を並べて歩く、シルエット。
近づいてくる、思い出。
ちょうど木の全体が視界に収まる、桜の木から少し離れた位置で、私は立ち止まった。
二人の邪魔に、ならないように。
肩を並べて、雪を、その桜の木を、見上げた。
二人だけの、言葉を交わして。
互いを、見つめ合って。
私たちだけの、キスをした。
彼の心が、どこにあるのか。
私の心が、どうしていきたいのか。
だけど私たちがこれから、離れて行ってしまうことも、はっきりと。
なのに、いつか、春の日に。
一緒に桜の木を見ることができると、何の迷いも無く信じて。
あの頃知りたかった何もかもが、わかって。
わかった、気がしたのに。
あの時願った、春に。
今はもう、絶対、繋がらないんだ。
その言葉を、頭の中に作り上げた、途端。
涙が、溢れた。
そうか、私は。
手紙に自分で、書いたように。
貴樹くんがいなくても、やっていけると思うまで。
振り返らずに進もうって、決めたんだ。
後戻りのできないところまで。
手紙を、あの缶にしまったのも。
手紙を読むのを、途中で止めたのも。
そう、決めていたから。
暖かくて、優しくて、確かな未来が、私を待っていて。
その方向が、前で。
私の進むべき方向で。
…振り向くべきじゃないって、信じてた。
それが間違ってたなんて、思えない。
今日、手紙を読もうと思ったのは、きっと。
自分が強くなったから、ではなくて。
もう自分が、『そういうところまで来た』って、わかったからなんだ。
箱の中に、手紙と一緒に閉じ込めて。
もう届かなくなるまで、進んだだけだったんだ。
全部覚悟して、前に進んでいた、はずなのに。
踏切の向こうの彼を、振り切ったはずなのに。
あの手紙を渡すことは、本当に、もう無いんだ。
もう、彼に、会えないんだ。
もう、何も伝えられないんだ。
夢に見た春も、本当に、来ないんだ。
本当に、終わっていたんだ。
私は、終わらせていたんだ。
その実感はとめどなく湧きあがり、すぐ、涙に変わって。
頬を伝い、地面に落ちていった。
桜の木の下、抱き合う二人の幻影。
それは本当に、夢に、幻になり果てたのだ、と。
…でも。
それでも、あの踏切で、
電車が過ぎるのを待つなんて、どのみち、できなかった。
捨てることのできない、今がある。
でも、あの日の気持ちは。
私の、彼の、心は、今、どこへ。
…夢が終わったことよりも、もっと悲しいことが、ある気がする。
それが、何なのか、まだ、わからない。
涙に滲んだ空を、見上げる。
憎たらしいほど澄んだ、綺麗な星空。
雪でもいいから、降ってくれればいいのに。
そう都合よく、救いが降ってくるわけが無いと、分かっているけれど。
だって、二人にとってだけは。
いつも世界は冷たくて、残忍だから。
彼女はそのまま、星空を見上げたままに。
声を上げ、涙を流し続けた。
======================
シャワーを浴び続ける。
何かを、洗い流そうとする。
何も、変わらない。
浴室を出る。
焦るように、体を拭いた。
髪もろくに乾かさず、寝間着を適当に羽織って。
階段を上がり、自室へ。
そして、逃げるように、布団に潜った。
胸に大きく空いた穴は、遠い昔に覚えのある、
底知れぬ闇を覗くような感覚をそのまま形にしたようで。
その闇を、抱えていた頃の。
中学の、まだ手紙を鞄に入れていた頃の私。
その後の、高校になった後も、更に進んだ後の。
社会人になって、夫と出会うまでの。
一人、進んでいた頃の。
一人、この部屋で眠っていた頃の。
布団の中の暗闇に、そんな私たちが、帰ってきた。
眠っていた彼女たちの想いは、まだ目覚めたばかりで。
すぐに眠らせることなど、到底できなかった。
布団の暗闇の中、抑え込むように瞼を強く閉じて、胸の内に湧き上がる熱さを抑えながら。
浮かび上がる言葉、感情、疑問への答えを探し続けた。
あの日のことも、この日のことも、どの日のことも。
今さらこんな気持ち、どうすればいいだろう。
あの頃の私に、何ができただろう。
何もできることなんて、無かったはず。
今の私も、幸せ過ぎるほど、幸せ。
夫も、あの子も、愛してる。
でも、あの手紙をずっと、閉じ込めたままになんて。
二度と読み返さない、なんて、きっと無かった。
なのに、なんで。
あの日、電車が過ぎるのを、待てばよかったとでも?
どうすれば、よかったのだろう。
どう、なりたかったのだろう。
今、何を目指していたんだろう。
思い出って、何?
私は、何をしているの。
循環し続ける疑問と想いに震えながら、涙で枕を濡らし続けた。
私は、あの時、何で。
今、どうして。
願いは、どこに。
これから、どうする。
どうするも、何も。
私は、どうなる、どう、なりたい。
今さら、今さら。
…ごめんなさい、あなた。
押し寄せる大きな苦悩の塊に、彼女はその全てが解決できるような答えを、懸命に探し続けた。
一人でいることの孤独を、且つてそれから守ってくれた彼のことを想いながら。
全てが今さらだと、分かっていながら。
======================
空が、白み始めた。
微かな日の光、雀の鳴き声、遠くの新聞配達の音。
霞がかった頭で、それらを朧げに感じ取る。
泣き、悩み、疲れ果てた彼女の中は、今も、過去も、夢もぐちゃぐちゃに混ざり合って。
今自分がどこにいるのか、何がいつのことなのか、何もわからなくなって。
わかっているのは、疲れが呼び寄せた眠気が自分を覆い始めている、ということだけだった。
体が妙に暖かく、浮遊感を帯び始めている。
そうしてぼやけた頭のままに、窓を虚ろに眺めていると。
窓の外、遠くに飛んでいく、鳥の姿。
その姿に、ふと、ひとつの考えが浮かぶ。
そうだ。
会いに行けば、いいんだ。
彼があの日、来てくれたみたいに。
今思えば、ただ、それだけで。
それで、彼の想いも、私の想いも。
何もかも、全部、わかる。
一回だけ、会いに行くくらいなら。
今なら、そう大したことじゃないって、わかる。
あの子みたいに、とにかく行ってしまえばいいんだ。
会いに行くねって、手紙を送って。
二人とも行きやすい街を、待ち合わせ場所にして。
難しそうなら、いっそ私が、彼のいる、遠くの島まで。
もう、実行しようのない計画を、次々に立てていく。
夏休みとか、ゴールデンウィークとか、二人の都合が合わせやすい時期がいいのかな。
冬休みは、また雪が降ったら、大変だよね。
バイトでも、お年玉でも、お小遣いを前借りしてでも、お金を貯めて。
お母さんも、説得して。
ダメなら内緒で、また、書置きだけ残して。
どんなに遠くても、会いに行ってしまえば。
だって、会いたかったから。
もう一度だけで、いいから。
せめて、知りたかった。
会えば、きっと。
手紙なんかよりも、ずっと。
私のこと、どう、想ってたの。
あの日、電車が、通り過ぎた後。
待って… くれて… いたのかな…
そこまで一気に考えたところで、まるで明日すべきことが、やっと決まったような。
そんな安心感に包まれ、糸が切れたように、彼女は眠りに落ちた。
夢の中。
雪も、桜も無い季節。
遠く、見知らぬ土地で待つ男の子に、
彼女は真っ直ぐ、会いに行った。
======================
篠原明里が起きたのは、昼前。
階下から昼食は食べて行くの?と母に大声で訊かれ、その声で目を覚ました。
本当は朝には実家を発ち、昼食までには東京の家に帰るつもりだったが、
彼女が出発したのは昼食を食べた後、東京の自宅へと到着したのは、結局夕方となった。
東京へと帰る電車の中でも、彼女は昨晩のことや夢の中のことに、様々な想いを巡らせていた。
だが、東京の家へ帰った後は、彼女自身も驚いてしまうほど、何事も無かったかのように。
彼女はすんなりと日常へ帰っていった。
玄関を開け、夫と娘の顔を見る。
寂しがっていた娘が、泣きながら飛びついてきた。
「おかえり」という、優しい夫の声、眼差し。
それだけで、今の自分の居場所はここだと、はっきりと認識できた。
ここが今の居場所で、あれはもう、夢なのだと。
私は望んで、ここいるのだと。
大きく、区切りをつけることができていた。
現実的ではないにせよ、過去に対して、
「どうすればよかった」という答えを、実家の布団の中で見つけられたことも、大きかった。
もうできないと、分かっていても。
何もできなかったと思い続けるよりは、きっと良かったと思う。
寂しさや切なさ、罪悪感も残ってはいたが、目の前の輝きを前に、
夢のことは日を追うごとに、霞んでいった。
もうすぐ、また、桜の季節が来る。
会いたかった。
現実と夢の間に生まれた、その言葉だけが。
彼女の頭の片隅から、離れなかった。
======================
今年も桜が綺麗だな、と。
公園の桜を見上げ、素直に思う。
同時に、カバンの中で携帯が震え、短い音鳴った。
メッセージの着信音だ。
ごめんなさい、今日、遊びに行けなくなっちゃいました…
マナが凄い転び方しちゃって。
膝から結構血が出て、念のため病院に向かってます。
お詫びに、今度美味しいプリン持っていきます!
ホントにごめん!
すぐ、返事をした。
大丈夫です。
マナちゃんの怪我、大事ないといいですね。
娘には言っておくので、心配しないでください。
プリン、楽しみにしています。
携帯を閉じ、自然と胸に手を当て、無事を祈った。
「マナちゃんまだかな~」
娘がせがむように語り掛けてきた。
「…マナちゃんね、来る途中でケガしちゃったみたい。
お医者さんに診てもらうから、今日は来れなくなっちゃったって。」
「そうなの!?マナちゃん、大丈夫なの!?」
遊ぶ予定が無くなったことより、
友達を心配するわが子が、少し誇らしい。
「きっと、大丈夫よ。
お医者さんがばっちり、治してくれるからね」
「よかった!
じゃあ今日は、お母さんとおさんぽだね!」
「そうだね。
お母さんがまた、色々教えてあげる。」
そうして、手を引きながら、
公園の中をゆっくりと回った。
地面に咲く、たんぽぽの生涯。
空に浮かぶ雲が、本当は少しずつ落ちていること。
遠くに聞こえる鳥の鳴き声の、種類。
この子はきっと半分も理解できていないのに、
私のそういう話を聞くのが好きみたいで、
ひとつひとつに驚いたり、楽しそうに疑問を投げかけてくれる。
公園の中に咲いた、一本の桜の木の下に立つ。
「…桜の花びらはね、『秒速5センチメートル』の速さで落ちるんだって。」
「びょうそくごセンチメートル?どういうこと?」
「1秒で、大体これくらい。
桜の花びらが、落ちるんだって。」
親指と人差し指の間に、その大きさを作る。
「桜じゃない花びらは、違うの?」
少し、戸惑う。
「きっと、そうね。
桜の花びらだけ。
みんなにとっても、特別な花だから。」
何という回答だろう。
みんなって、誰のことだろう。
「ふ~ん?
びょうそくごセンチメートルって、遅いね!わかった!」
「偉いね~」
よしよしと、頭を撫でる。
私は今、何を教えているんだろう。
その言葉の何を、教えてあげたかったのだろう。
それ以上、考えるのは、止めた。
その後もそのまま、手を繋いでゆっくりと公園を回りながら、
公園にあるもの一つ一つを、確かめるように歩いた。
「ポン太だ!ポン太! わたし、ポン太と遊んでくる!」
不意に娘が手を離し、犬の方へ駆け出した。
娘はぶつかるような勢いで思い切り、柴犬を抱きしめる。
もう見慣れているけれど、初めてあの突撃を目の当たりにした時、本当に肝を冷やしたものだ。
ああいった遠慮の無さや、誰かをすぐ信用できるような真っすぐさが危ういと思いつつも、今では少し、羨ましく思う。
飼い主の老夫婦に、挨拶する。
この公園によく来て、娘の相手をしてもらっている人だ。
ポン太とマナちゃんとで遊ぶのも、もう何度も。
「今日はもう一人の子はいないのかい?」
「来る途中で転んで、怪我してしまったようで。
念のため病院に行くみたいで、今日は来れなくなっちゃったみたいです。」
「あら、それは大変ね!」
そんな風に会話をした後、いつも通り、娘の相手をお願いした。
二人とも、いつも楽しそうに引き受けてくれる。
快い夫婦の笑顔を見ながら、
私たち夫婦も、こんな風に年を取って行けたらいいな、と思う。
視界がほんの少し、ぼやけた。
頭がクラクラして、熱い。
日の光に当たり過ぎたせいだろう。
…少し、休もうかしら。
「お母さん、こっちで休んでるからね~!」
「は~い!」
そう言って背を向け、反対側のベンチに目を向けた。
男性が一人、座っている。
こちらに気づいて、端に寄ってスペースを空けてくれた。
「すいません、隣、失礼しますね。」
そう言ってゆっくり腰を下ろし、
あの子と、その奥の桜の木に目をやる。
…そういえば、この公園の、隣の道は。
「明里・・・?」
不意に名前を呼ばれ、体をびくついた。
どこか、聞いたことのある、声。
その声のする方に、顔を向けた。
紛れもなく、彼だった。
「貴樹くん・・・?」
======================
また、夢でも見てるんだろうか。
こんなところに、彼がいるはずない。
でも、この人は。
この、静かで優しい、瞳は。
懐かしい。
もう、会えないと。
終わったと、思ってたのに。
こんなに、あっけなく。
会えたんだ。
本当に。
何か、伝えなくちゃ。
私、あなたのことを。
瞼を強く閉じ、振り切るように逸らした。
今に、戻らなくては。
もう、帰ってしまった方が、いいだろうか。
でも、娘はまだ、遊び始めたばかりだ。
それに、それに。
少しだけで、いい。
…もう少しだけ、ここにいたい。
「久しぶりだね」
話しかけられた。
本当に彼の、声だ。
「うん。久しぶり」
何とか返す。
「あの子は、君の子?」
「そうだよ」
言葉が上手く、出てこない。
「君に、似てるね。」
「そうかな。
自分じゃあ、よくわからないの。
あんなにわんぱくでは、なかったと思うけれど」
「髪型とか、声とか、あの走り方とか。
昔、ここで遊んでた頃も、ああいう風、だったと、思う。」
「そう」
ぎこちなく語りかけるその声は、記憶よりもずっと大人びた印象があるのに、何故だかちゃんと、懐かしくて。
それだけで胸がいっぱいになる。
でも今さら、何を話せばいいのだろう。
伝えたいことは、沢山あったはずのに。
でも、私たちはもう、大人で。
私にも、守りたいものが、あって。
もしかしたら、彼にも。
今さら、伝えられることなんて、あるのかな。
目の前を、ひらりと。
桜の花びらが数枚、落ちていく。
彼も、その様子を見ていたようだった。
何もかも終わったと、思っていたのに。
また、春の日にあなたに、会えて。
こんな風だけれど、また桜まで一緒に、見られて。
一体、何なのだろう。
…私の予感なんて、全然当てにならないんだな。
思わず、笑ってしまう。
「…やっと、一緒に見られたね」
そんな、何かに呆れた笑顔のまま、彼にそう言ってみた。
「うん。」
会えない予感、とか。
離れて行く予感、とか。
本当にこんなにも、あっけないものだったんだ。
こんな簡単なことに、あの頃気づいていたら、と。
三月の夢のことを、また思い出していた。
少しずつ、世間話を始めた。
桜の話ではなく、今の話から。
======================
「あまり自分は変わってなくて、弱いままのかなって、考えちゃう。
あなたにだって、会いたかったら、ただ会いに行けばよかったって」
久しぶりの彼の会話に、いつの間にか心が高ぶっていたのだと思う。
それを口にした瞬間、お互いにとって良くない言葉だと思い、つい口を塞いだ。
想いのほんの一端を、零してしまった。
そういう言葉は、言わないようにしていたつもりだった。
…でも。
引っ越しの話なんて切り出した時点で。
どのみち、いずれ、零れていたと思う。
私は、ただ…
もっと、上手く零したかっただけだと、思う。
こちらを見た彼の顔は、何かを見つけてしまったような。
昔、一緒にいた頃の眼差しだったように思えて。
その反応がどうしようもなく、嬉しくて。
でも同時に、夫にも娘にも、申し訳ない気持ちでいっぱいになって。
私は何て汚いんだろう。
あぁ、でも。
どうすれば。
何もかもに、挟まれて。
もう、黙ることしか、できない。
貴樹くんは、こんなに立派になったのに。
私はまだ、どこか思い出に甘えて。
やっぱり、弱い人間なんだろう。
手を握り、目を瞑り、背けながら、ひたすらそれを痛感した。
「君は、いつも、強い女の子で。
ずっと、僕を、守ってくれた。」
不意に、彼の言葉。
彼を見る。
苦しそうに、俯いて。
指輪の光る左手も、震え続けたままに。
「小学校の、卒業式の日も。」
それから彼は、話し始めた。
何もかも、忘れて。
彼だけを、ただ見つめて。
彼の言葉だけを、聞いた。
=====================
「俺はもう、大丈夫。
だから、明里だって。
絶対、大丈夫だよ。」
彼の言葉は、とても幼くて、たどたどしくて。
思い出の中、少年だった彼の言葉よりも、拙かったのに。
その中に、昔望んでいた春が。
どこかに繋がったような、そんな気がして。
何度も、何度も。
その言葉を、噛み締めた。
身体の中に、染み込んで。
開いていた穴が、塞がっていくのがわかる。
…あぁ、三月の。
あの星空の下、泣いてしまったのは。
夢が終わったこと、だけじゃなくて。
願った未来と今が、どうしても違い過ぎて。
どこを見渡しても、もう思い出が欠片も残っていないような、そんな気がして。
あの時感じたことも、幻になってしまったように思えて。
ただ、寂しかったんだ。
一緒に生きていけないことは、わかってたけれど。
あなたも同じことを、願っていたと。
彼の、私の心も、確かにそこにあったと。
この先も、ただ信じていたかったんだ。
…ようやくちゃんと、思い出にして、生きていける。
私も、もう、大丈夫だと思う。
沢山の言葉、ありがとう。
でも。
でも、やっぱり。
あなたが好きだった、って。
伝えたかったな。
あとはもう、それだけが。
ただ、悲しくて。
涙が、止まらない。
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夕焼けに染まる空の下、
眠りに沈んだ娘を背負って、家に向かって歩みを進める。
電車に乗って座席に座ると、この子はすぐ眠りに落ちて、全体重を預けられた。
もう、こんな風におんぶするほど幼くないはずだけれど。
たまにはいいかな、と思うことにした。
公園で、三人で桜を見て間もなく、彼は去っていった。
連絡先は、交換しなかった。
私も、しない方がいいって、わかってた。
でも、去り際の彼の言葉。
…少し、迷ったようだったけれど。
『また、いつか。』
私もその言葉を、一語一句、同じ様に返した。
また、いつか。
また、何かの手違いみたいに、出会って。
また、ちょっとだけ言葉を交わす。
それぐらいは、明日の中に夢見ても、いいんだ。
それだけで、もう。
…彼も私も、何だかズルい大人になっちゃったなと、小さく笑う。
でも、祈るだけなら、願うだけなら。
それだけなら、彼も、私も、自由だから。
彼も、今までしてくれていたように。
これからもずっと、私の幸せを願ってくれるだろう。
私の、願いたいように、願おう。
そう、思った。
街灯が灯り、行く道を優しく照らし始める。
そういえば帰り道、彼と一緒に夕焼けを見たことも、あったな。
雨の日も、紅葉も…
背中に、温もりと重さを感じながら。
夕焼けの光の中に、思い出を辿りながら。
彼女はゆっくりと、家に向かって、歩いていった。
後書きはまとめて、次話として記載いたします。