一章分まるまる書き終えてから連日投稿しよう……そう思ってましたが、いつになるか分からないので、ぼちぼち投下してくことにしました。儚い夢だった(白目)
第一話 もう誰も信じない
「それじゃまた明日ね!」
「ばいばい!」
放課後、少女は仲の良い友人達と別れると、いつものようにランドセルを弾ませながら帰宅する。
特にこれといった何かに追われているわけでも、急ぎの用事があるわけでもない。
現に少女の顔に焦りはなく、代わりに明るい笑顔が浮かんでいる。見ていて微笑ましい元気な子供らしさがそこにはあった。
「ただいまー!」
銀色のボブカットを弾ませ、少女は玄関で脱いだ靴を揃える。
台所からは夕飯の匂いが漂い、今晩のメニューを想像させた。
瞳を輝かせながら少女――
そこにはあすみの母が手にお玉を持ち、振り返って娘を迎えた。
「おかえり、あすみ」
「ただいまっ、ママ! なにか手伝うことある?」
「それじゃあ、お野菜切るの手伝ってもらえるかしら?」
「わかった! ちょっと待ってて!」
あすみは急いで部屋に荷物を置いた後、手洗いうがいをしっかりすると、自分専用のエプロンを着て母の隣に並んだ。
「ママ、今日も夜勤でしょ? 無理しなくてもわたしが作ったのに……」
母子家庭であるあすみの母は、四六時中働き詰めでかなり忙しい。
それでも母は頑なに、あすみの食事の世話だけは欠かそうとしなかった。
「あらダメよ。愛する娘のために料理するのは、私の数少ない楽しみなんだから。それにこうしてあすみと一緒に料理するのって、すごく嬉しいの。
あんなに小さかった子が、もうこんなに大きくなったんだなぁって……」
母が言うには、あすみは未熟児として生まれたらしい。
体重も他の赤ん坊よりも遙かに軽く、出産直後の母は気が気じゃなかったとか。
その話は耳にタコができるくらい聞いていたので、あすみは頬を膨らませて母親の話を遮った。
「もう、いつまでも子供扱いしないでよ! それにママはいつも小さい小さい言うけど、クラスじゃ真ん中くらいなんだからね!」
「あら、そうなの?」
「そうだよ。一番小さいのはなっちゃんで、大きいのはちぃちゃん。わたしは真ん中くらいなんだ」
手際よく阿吽の呼吸で母のサポートをするあすみは、機嫌良く今日起こった学校での出来事を母に話した。
母もにこにことあすみの話に相槌を打ち、あすみが良い事をしたら褒め、悪い事をしたら叱った。
母に褒められることは嬉しかったし、あすみ自身も悪い事をしたという自覚はあったので、叱られても素直に反省することができた。
叱られると分かっていても打ち明けられるのは、それだけあすみが母のことを信頼していたからだろう。
あすみの父親は、あすみが幼い頃に母と離婚していた。
物心つく前の事だったから、あすみにとって家族とは母一人のことだった。
片親であることを知った者からは同情されることもあったが、あすみはそれにいつも腹を立てていた。
確かにあすみには、父親はいないかもしれない。
だけどママがいる。
だからあすみは不幸なんかじゃないし、むしろ優しいママがいて幸せだと、胸を張って言えるのだ。
確かにあすみの家は裕福とは言い難く、外から見れば不幸な境遇にあるのだろう。
だがそんなことは関係なしにあすみは幸せだった。
優しいママがいて、たくさんの友達がいる。
これで不幸だなんて言えるはずがなかったのだ。
――ガチャン、と金属音が鳴り響く。
振り向いて見れば、母が包丁を取り落としていた。
あすみは慌てて母が怪我をしていないか確かめる。
「大丈夫!? ……ママ、体調悪いの?」
「……いえ、大丈夫よ。ごめんなさいね。それよりもあすみの話の続き、聞かせてちょうだい?」
「う、うん……」
いつものように笑う母親の姿に、気のせいだったのかな、とあすみは自らの思い過ごしに安堵した。
そして何事もなく夕食の支度を終えると、予定通り母は仕事へと向かった。
その時見た母の背中が、なぜかずっと印象に残っていた。
その日の夜遅くに、電話が鳴った。
深夜の非常識な時間帯に鳴らされる着信音に眉を寄せながら、もしかしたら母の仕事先からの連絡かもしれないと、あすみは寝ぼけ眼で受話器を取った。
「……はい、神名ですけど」
――それは母が仕事先で倒れたという連絡だった。
「……え?」
眠気が一気に醒めた。
その時、あすみは自身の足下がガラガラと崩れていくのを確かに感じていた。
ふわふわと現実感のないまま、電話先から搬送先の病院の名前を聞く。
車を回すと言われたが、幸いあすみも知っている近場の病院だったので、自転車で急いで駆けつけることに決めた。
バスはこの時間止まっているし、タクシーは呼んだ経験もないから詳しいことが分からない。
それを調べる時間があるなら、自転車で駆けつけた方が早かった。
なにより、あすみはじっとしていることに耐えられなかったのだ。
病院に到着すると、あすみは駐輪場に回る余裕もなく正面から乗り込んだ。
詰めている夜勤の職員が困惑する中、あすみは息も絶え絶えに尋ねた。
「ママは……ママは無事なの!?」
母が倒れた原因は――過労だった。
テレビやニュースでよく耳にする「過労死」という言葉が、笑い事じゃなく現実としてあすみの小さな背にのし掛かる。
昏倒し意識不明の状態となった母は未だに目覚めない。
案内されたベッドの上に眠り続ける母の手を握りながら、あすみは懸命に祈った。
気づけばあすみと母の二人だけになった病室で、あすみにできることは、もはや祈ることだけだった。
……神様、お願いです。
ママを助けてください。
優しくて料理上手な、自慢のママなんです。
未熟児だったわたしを、ここまで一人で育ててくれた人なんです。
夜一人で眠れない時、笑顔で一緒に眠ってくれました。
過労で倒れちゃうくらい忙しいのに、わたしのためだと言って食事に手を抜かないような、頑固な人なんです。
機械音痴で、たまに抜けているところがあって、わたしがしっかりしなきゃいけないところもあるけど。
そんなところも含めて、大好きなママなんです。
ママがいなくなったら……なんて、考えたくもありません。
だから、どうか神様。
優しいママを、助けて――。
果たして、その祈りが通じたのか。
あすみの母が目を覚ました。
「……あす、み?」
「ママ!?」
あすみの目尻に浮かんだ涙を見ると、母は「仕方のない子ね」と微笑んでその涙を拭った。
「女の子は笑顔でいなさいって、ママいつも言ってるでしょ。あすみは可愛いんだから、もったいないわよ」
「ママ、ママ……ッ!」
今にも消えてしまいそうな母の姿に、あすみは必死に縋りついた。
母を失う恐怖に、あすみはただただ震える。
「ママは、どこにも行かないよね? ずっと、一緒だよね?」
肯定の言葉を、あすみは望んだ。
だが母は自身の状態を知ってか、あすみの頬に手を当てて精一杯の笑みを浮かべる。
「……ママはいつだって、あすみの幸せを祈っているわ」
「ママ……ママぁああああああああっ!!」
母の状態を観測していた計器が、連続で音を鳴らし続ける。
ほぼ同時に白衣を着た者達が部屋に雪崩れ込んでくる。
母から引き剥がされたあすみは、鎮静剤を打たれるまで取り乱した。
そして二度と、母が目覚めることはなかった。
あすみが目覚めた時には、母の死亡宣告が下されていた。
それを聞いた唯一の肉親であるあすみは、足元が覚束無いほど現実感がなかった。
昨日までとは違う、まるで別の世界に紛れ込んでしまったかのよう。
朝になり一度顔を洗いに御手洗いに向かうと、鏡の中のあすみの顔はひどいことになっていた。
笑顔を作ってみる。
やっぱり変な顔だった。
目は腫れているし、隈も凄い。
こんな笑顔、可愛いと褒めてくれたママには見せられないなと思い……また涙が溢れた。
ようやく落ち着いたあすみが病室へ向かうと、スーツを着た男女とすれ違った。
「まったく厄介なことになったな。今時過労死だなどと、組合の連中を喜ばすだけじゃないか。現場は何をしていたんだ?」
「大まかに話を聞いたのですが、どうも一部の職員による……仕事の押しつけや……事があったらしく……過剰な……」
「それは……大事には……遺族……説明は――」
声が遠ざかっていく。
だがそれを追いかけて確かめる気力は、今のあすみにはなかった。
母はもういない。
死んだのだ。
なにをしたところで母が戻ってくるわけじゃない。
なにもかもが、もうどうでも良くなってしまった。
だけど一つだけわかったことがある。
――神様なんて、いないんだ。
その日から、あすみが心からの笑顔を浮かべることはなくなった。
母を救わなかった世界なんて、滅びてしまえばいい。
優しかった母を、周囲の人間は誰も助けてくれなかった。
働き詰めて体を壊して、それでもあすみのために無理をして。
誰か一人でも母に手を貸していたら、こんなことにはならなかったのに。
だけど現実はいつだって残酷で、あすみの母は死んでしまった。
葬儀の席で、母の知り合いや親戚だと名乗る者達を冷めた目で見ながら、あすみは自らの心が死んでいくのを実感していた。
母の職場の同僚だと名乗る連中があすみの前に居た。
どの面下げてきたのかという気持ちで一杯になった。
許されるならあすみ自身の手で殺してやりたい。
ここにいるのはみんな、あすみの敵だ。
ママを救わなかった――殺したも同然の連中なんて、全員死んじゃえばいいんだ。
それでも喚き散らさなかったのは、亡き母のことを想ったからだ。
あすみが無様を晒せば、たとえ葬儀の席だろうが母を悪く言う奴が出てくると思ったから。
大人達の醜悪な会話に耳を塞ぎ、あすみは気丈に涙を堪えていた。
だが皮肉にも、それを見た大人達はあすみのことを不気味がる。
母親が死んでも涙一つ見せない。
何を考えているのかよく分からない。
あすみの容姿が整っていたこともあり、不気味さはさらに増していた。
人は自身の理解できないモノを排斥する。
あすみの今後を話し合うという名目の押しつけ合い議論は長引き、最終的に決まった一家の顔を見たあすみは、ろくでもない未来しか想像できなかった。
厄介事。お荷物。
彼らの顔に、そうはっきりと書かれてあったからだ。
施設に入れるのは一族の世間体が悪いという、ただそれだけの理由であすみは引き取られた。
母方の親戚に当たる一家に預けられたあすみだったが、そこは以前と比べようがないほど最悪の環境だった。
物置に使われていたプレハブ小屋を与えられ、母屋に立ち入ることは許されなかった。
食事は家族とは別に出され、水や風呂は庭の水道を使うように指示された。
犬猫のような扱いだとあすみは思った。
すでに出来上がっていた「家族」の中に、あすみという「異分子」を受け入れることは彼らには無理だったのだ。
その一家には、あすみ以外にも三人の子供がいた。
中学生の長男はあすみを蹴り上げて笑い、高校生の長女はゴミを見るような目であすみを無視し、あすみと同い年の次女はあすみを徹底的にイジメた。
その家族にとって、あすみは奴隷だった。
特に次女は年が近いこともあり、またあすみの容姿が整っていたことに嫉妬していた。
初めて会った時から、次女はあすみが気に入らなかった。
自分の領域に入ってきた邪魔者。それが彼女の認識だった。
「あんたさ、わたしの家に世話になってるんだから……わたしのお願い聞くのは当たり前の事でしょ?」
あすみは預けられる際、仲の良かった友達とも離れてしまい、転校してきた学校にもあすみの居場所はなかった。
そこは次女と同じ学校だったからだ。
おまけに同じクラスでもあった。
集団でイジメられるのも時間の問題だった。
イジメは次女が率先して主導していた。
なにせ初日から大声であすみの生い立ちを暴露し、散々に陰口を叩いていたのだ。
あすみの過去は話題の一つとして晒され、クラス中が沸いていた。
「へーかわいそー」「そうなの、神名さん?」「それじゃ○○ちゃん家に住んでるの?」
無邪気で無神経な質問が、矢継ぎ早に放たれる。
「両親いないんだ」
「かわいそう」
いかにも善人そうな顔を浮かべ、盛大に哀れまれた。
だがその口端には笑みが浮かんでいることに、あすみは気づいていた。
「ドラマの話みたい」
「いいよなー。口うるせーババァがいねぇんだろ? 最高じゃん」
中には、まるでそれが素敵な事であるかのように語る者もいた。
非日常に対する憧れ。
幸せだからこそ許される、無自覚な優越感に満ちた羨望。
そんな彼らに対して、あすみは心の底から思った。
――みんな死んじゃえ。
それでもあすみは我慢した。
無神経な言葉に耐え続けた。
だがそんなあすみに向かって決定的な言葉を口にしたのは、やはり次女だった。
「それにお母さんが言ってたんだけど、あすみちゃんのお母さんって□□□□だったらしいよ」
「□□□□?」
葬儀で散々に耳にした、あすみの母を侮辱する言葉を耳にした瞬間、あすみは次女を殴り飛ばしていた。
頭が真っ白になっていた。
感情が理性の鎖を吹き飛ばし、体を動かしていた。
だが我に返ったところで、してしまったことは変えられない。
気付けばあすみの手には次女の鼻血が付いていて、周囲は蜂の巣を突いたような騒ぎになっていた。
「きゃああああ!!」「先生、先生を呼べ!」「あの転校生やりやがった!」「なにあの子、信じられないっ!」
それがあすみにとって、更なる地獄の始まりだった。
転校してすぐに「突然暴力を振るった」あすみは完全に問題児と判断され、先生からは苛烈な叱責を浴びせられ、周囲のクラスメイト達から白眼視に晒され続けた。
あすみが家に帰れば帰ったで、先生と次女から事の次第を聞いた一家から帰宅早々頬を張られ、蹴り飛ばされ、延々と正座を強要されながら叱り続けられた。
「引き取ってやった恩を仇で返しやがって!」
父親が机を力任せに叩く。
その大きな音に、あすみはびくりと肩を震わせる。
「うちの子に暴力振るうなんてどういうつもりよ! 傷が残ってみなさい! あんたの体に十倍返しで刻みつけてやるわよ!」
母親が般若の顔を浮かべ、あすみの髪を引っ張った。
「だから言ったじゃん。こういうのは躾が大事なんだよ」
気楽な声で横から長男が訳知り顔を浮かべる。
その耳には最近作ったピアス穴が開いていた。
「どうでもいいけど、面倒事はごめんだし。今からでも施設に放り込めばいいんじゃないの?」
長女はあすみを一瞥もせずに携帯ゲームをしていた。
そのうち喧噪にうんざりしたのか、あすみに一瞥もくれず自室へと戻っていった。
次女は終始、泣き真似をしていた。
被害者であることを全身全力で両親にアピールし、それを見た両親がさらにあすみを怒る。
あすみの味方は誰もいなかった。
日が変わろうかという時刻になってようやく解放されたあすみに、次女が近づいて耳打ちする。
「……これで許されるとか、思わないでよね。
ああ、明日からの学校が楽しみ」
そう言って、次女はあすみを突き飛ばした。
その時次女の浮かべた笑顔は、あすみへの憎悪で醜く歪んでいた。
狭いプレハブ小屋の角に蹲りながら、あすみは周囲への憎悪を募らせる。
誰も、あすみを守ってはくれない。
誰も、母の名誉を守ってくれない。
あすみの母がいない。
ただそれだけのことで世界は豹変し、悪意を剥き出しにしてあすみに襲い掛かってくる。
次女の宣言通り、翌日からあすみに対してイジメが始まった。
手加減を知らない子供達は、無邪気にその残虐性を発露する。
一つ一つは耐えられる事でも、積み重なれば背負いきれない重さとなる。
無抵抗のあすみに対して、遠慮のなくなった集団は暴走を始め、際限なくエスカレートしていく。
階段から突き飛ばされる。
プールの水を飲まされる。
トイレに監禁され、ゴミを投げ入れられる。
剥き出しの悪意に晒され続けた少女は、人間の醜悪さを知った。
子供は誰もが天使だと、どこかで聞いたことがある。
生まれたばかりの赤ん坊を抱きしめ「この子は私の天使です」と笑う母親をテレビで見た覚えがある。
確かに生まれたばかりの赤ん坊は天使なのかもしれない。
だけど地上で生きるということは、穢れるということだ。
つまるところ人は天使にはなれず、なれるとしたら人の皮を被った悪魔がせいぜいなのだろう。
国語の教科書にあった性善説なんてものは、あすみの教科書のように靴跡がびっしりと付けられた代物でしかないのだ。
悪意の中であすみは考え続ける。
それ以外、このどうしようもない現実から逃れる術はなかった。
今日も一日を生き延びたあすみは、口癖になってしまった言葉を呟く。
「……みんな、死ねばいいのに」
母という唯一無二の庇護者を失い、一人になったあすみは、着実に精神を磨耗させていった。
ある時、あすみはふと思い出した。
それは衝動的な閃きだった。
母が生きていた時は欠片も思わなかったことだ。
――あすみのパパは今、何をしてるんだろう?
あすみの父は幼い頃に母と離婚して以来、顔を会わせた事もなかった。
現にあすみの記憶の中の父はぼんやりとしていて、はっきりと思い出せなかった。
かつて一度だけ、父の名で家に送られてきた手紙を見つけたことがある。
中身は抜き取られていたが、便箋だけは偶然にも大掃除の際に発見していた。
以来、母にも内緒で持ち続けていた、唯一父の手がかりとなる物だ。
便箋の裏には住所が記されていた。
その場所を調べ上げ、あすみは計画を立てた。
隠し持っていたへそくりを使ってあすみは父に会いに行く。
そして儚い希望は、呆気なく打ち砕かれた。
そこには幸せな家族の姿があった。
あすみの居場所など、どこにもない。
その光景を見ていると、自分が酷く惨めな存在に思えた。
代わりに眩しい笑顔を浮かべる幼い少女と、見知らぬ女の姿がそこにはあった。
あすみと母を捨てて、父親は新しい家庭を築いていたのだ。
あすみの父だった男は、あすみ達のことを何一つ知らない顔で、幸せそうな顔を浮かべている。
「……………………なにそれ。ふざけないでよ」
母が女手一つでどれだけ頑張ってきたのか、あの男は知っているのだろうか。
母がどれだけ気丈に振る舞っていたのか、あの男は知っているのだろうか。
あすみが今どんな境遇にいるのか、あの男は知っているのだろうか。
知っていたらヒトデナシ。
知らなくても、のうのうと笑っているような輩には違いない。
――あれが本当にわたしの父親なの?
間違いかとも思ったが、男の顔は幼い頃見た記憶の面影と重なり、なにより血の繋がりは一目見てわかってしまった。
一体自分は、何を期待していたのだろう。
母の葬儀にすら顔を見せなかった時点で、あの男はもはやあすみの家族ではなかったのだと悟るべきだった。
あすみの本当の家族は、亡き母だけ。
気が付けば、あすみは地元の駅の改札口を抜けていた。
自らの巣穴であるプレハブ小屋に戻ると、丸くなって眠る。
――もう誰も、信じられない。
そして再び繰り返される日常。
あすみにとってそれはもはや平穏ではなく、永遠の地獄を意味していた。
自分がどんどん惨めな存在になっていく気がした。
死んだ方が楽なのかもしれないとすら思った。
けれど自分が死ねば、あすみを取り巻く連中が喜ぶだけだと分かっていた。
あすみが死ねば、連中も表向きは悲しむだろう。必要ならば涙すら見せるだろう。
世間の目という、本当にあるのかどうかすら分からないものを気にして。
そして隠れて大笑いするに違いない。
そういう連中なのだと、これまでの付き合いからあすみは十分に理解していた。
明らかにイジメられている現場を目撃した教師は、見て見ぬ振りどころかあすみが悪いと決めつけた。
「あなたがちゃんとしないから、そうなるのよ?」
あすみは馬鹿を見る目でその教師を見た。
その反抗的な視線に、青筋を立てて教師は怒る。
図体がデカいだけで、中身はあすみをイジメるクラスメイトと大差なかった。
だからあすみは、大人に期待するのを止めた。
唯一、母との想い出だけが心の支えだった。
そんなある時、あすみの目の前に銀髪の女が現れた。
中学の物だろう制服に、あすみと違って輝くような銀髪をした少女だった。
紅い瞳の少女は、あすみと視線を合わせる。
何もかも見透かすような血を思わせる瞳だった。
あすみよりも年上の少女は、外見よりもずっと大人びた声で言った。
「あなた、良い目をしているわね」
しゃがみこんで、彼女はあすみと同じ視線の高さに顔を合わせた。
伸ばしっぱなしだったあすみの髪をかき分け、顔を覗き込んでくる。
「なにもかも滅茶苦茶にしたくて仕方のない目。
絶望に犯され、世界のすべてを諦めきった目。
それでも憎悪だけは消えてなくならない。
煮えたぎる地獄のような目だわ」
なぜかその間、あすみは身動きがとれなかった。
まるで悪い魔女に魔法を掛けられたかのよう。
「それに可愛い。実に私好みだわ」
その台詞だけ聞くと変質者の類だろう。だが彼女の瞳はどこまでも優しかった。
そもそも今のあすみを見て、いくら変質者といえども可愛いなどという言葉は出てこない。
家でも学校でも、まともな食事にすらありつけない生活を送っているのだ。
イジメと虐待によるストレスもあって、あすみはガリガリに痩せ細っていた。
だがそれでも、あすみは彼女の言葉が嘘だとは思わなかった。
それは彼女の視線が、久しぶりに見たあすみを否定することのない物だったからなのか。
あすみ自身にもわからなかった。
「ねぇあなた、私と契約して魔法少女になってみない?」
その日、神名あすみは銀髪の少女と出会った。
彼女は古池凛音と名乗り、自らを【銀の魔女】だと称した。
【銀の魔女】は<魔法少女>という存在を語る。
奇跡を叶える代わりに、魔女と戦う使命を背負う魔法の契約。
普通なら頭がおかしいとしか思えないそれも、実際に魔法を見せられれば納得するしかなかった。
だが銀の魔女は、更なる説明を続けた。
「あなたには真実を話しましょう。この契約には大きな裏があるの。
契約した少女の魂は<ソウルジェム>という携帯可能な宝石に変えられ、肉体は魔女との戦闘に耐えられる別物になる……ぶっちゃけ、魔法少女っていう名のゾンビね。
そしてソウルジェムが穢れを溜めきった時、魔法少女は魔女へと堕ちる。魔法少女達が戦う魔女の正体は、そんなかつて魔法少女だった者の成れの果てよ。
言ってしまえば奇跡の対価に、絶望的な戦いに明け暮れることになるの。
それでもなお、あなたは<奇跡>を望むのかしら?」
「……願い事は、なんでもいいの?」
だがあすみは、そんな魔女の忠告などほとんど耳に入らなかった。
ただ奇跡の権利だけがあすみの興味を惹いていた。
それ以外の事なんて、本当にどうでも良かったのだ。
魔法少女? 魔女? ――勝手に殺し合って、死ねばいい。
契約の代償がそれならば、あすみも躊躇いなく殺して死んでやる。
そんな自棄とも言える心境のあすみに、魔女は微笑みながら答えた。
「その願いが、あなたの魂を捧げるに値するものならば。なんでも叶えてあげられるわ」
あすみにとって、自分がどうなろうが最早どうでも良かった。
だけど自分ばかり不幸なのに、あのクソのような連中が幸せなのは許せない。
だからあすみは、迷うことなく願った。
「……ならわたしは、わたしの知る周囲の人間を絶望させたい。考えつく限りの不幸を与えたい。
死んだ方がマシだってくらいに……生まれてきたことを、この手で後悔させてやりたい」
他人の不幸を。
あすみを取り巻く世界の破滅を。
希望を願う魔法少女の契約で、真逆の絶望をあすみは願った。
その祈りを、銀の魔女は聞き遂げる。
「くふっ……ふふふっ……あはははははハハハハハッ!!」
魔女が狂ったように大笑する。
だけどあすみは気にしなかった。
嘲笑われることには、もう慣れてしまっている。
だからどうとも思わない。
けれどもし奇跡の話が嘘だったなら、絶対に殺してやろうとあすみは思った。
そしてリンネは息も絶え絶えに呼吸を整えると、三日月のような笑みを浮かべた。
「あなた、最高ね!」
銀色の光が溢れ、リンネは魔法少女へと変身した。
虚空から指揮杖を取り出すと【銀の魔女】は魔法の契約を執り行う。
「【銀の魔女】の名の下に、その願い確かに聞き遂げましょう。
あなたの祈りはエントロピーを凌駕した。
ここに禁断の契約を結びましょう」
あすみの全身を銀色の光が包み込む。
温かな光の眩しさに目を瞑り、恐る恐る瞼を開いた先には、一つの宝石が浮かんでいた。
ソウルジェム。
あすみの魂の宝石は、奇しくも魔女と同じ銀色に輝いていた。
「神名あすみ――あなたならば、やがて最凶にして最悪の魔法少女へと至るでしょう。
その誕生を他の誰が祝わずとも、私は祝福します」
「――生まれてきてくれて、ありがとう」
その言葉にどう答えれば良いのか、あすみにはわからなかった。
だけどこれだけは言える。
「……………………うざい」
あすみにとって、もはや優しさは毒だった。
腹の底がムカムカして頭を掻き毟りたくなる。
だがリンネの反応は、あすみにとって予想外のものだった。
「幼女からのツン台詞頂戴しましたー! これであと百年は戦える! もうそんなこと言ったって、お姉ちゃんは構うのを諦めないんだゾッ!
むしろ私のことはママと呼んでも構わないわ! 同じ銀髪同士だし違和感ゼロよ!」
その言葉を聞いて、あすみは心に誓った。
あすみの聖域に、無神経に土足で踏み込んだこの魔女は、許してはおけない。
――この女も最後に殺してやる。
そんなあすみの考えを知ってか知らずか、リンネはあすみの手を引いた。
「
その日、あすみは地獄のような現実からさよならした。
もしかしたらそれは、新たな地獄へと移っただけなのかもしれないが。
どこまでも上機嫌な魔女の姿を見上げ、あすみはそう思うのだった。
家と呼ぶことすら忌むべき場所へと戻ったあすみは、門前でばったりと次女に出くわした。
軽い様子でちらりとあすみを見た次女は、そのまま母屋へと入っていく。
石くれを見るような目で、あすみを気にも留めていない様子だった。
そんな彼女の背中に、あすみは声を掛けた。
「……ねぇ、ちょっと」
「あのさぁ、気安く話しかけないでくれ……は?」
次女が振り返った先、そこには魔法少女に変身したあすみがいた。
「なに、その格好……」
あすみは陰湿な薄笑いを浮かべ、手にしたメイスを振り回した。
棘の付いた鉄球――<モーニングスター>が次女の両足に直撃し、呆気なく粉砕する。
布に包まれた枝を、まとめて折ったような音が聞こえた。
「あぎゃああああああああ!!??」
鶏が絞められた時のような甲高い悲鳴を上げ、次女は溺れたように手をばたつかせる。
「んだよ、ウルセェな……」
玄関から暢気に顔を出した長男は、目の前の惨状に絶句した。
妹の腰から下が、壊れたマネキンのようにぐちゃぐちゃに曲がっていたのだ。
そして血糊のついた鉄球を手にしたあすみが、ゴスロリ姿ともいえる奇妙な格好で立っていた。
わけもわからず頭に血が上った長男は、反射的にあすみを怒鳴りつけ、いつものように蹴り上げようとする。
だがその足を掴んだあすみは、一振り。
それだけで長男の体は宙を舞い、即座に叩きつけられた。
石垣に長男の頭部が命中して鈍い破裂音が聞こえる。
ぴくぴくと痙攣する長男の足を離すと、あすみは一歩一歩ゆっくりと次女に近づいた。
「ひっ!? い、いや……いやあああああ! 助けて、助けてママ! ママぁあああああああっ!」
顔面から涙と鼻水を垂れ流して助けを呼ぶ次女を、あすみは冷たく見下ろした。
「……いいわね、助けを呼べて」
あすみにはもう、そんな相手は誰一人いないのに。
その幸せが妬ましい。
だからもっと不幸にしないと。
「ちょっと!? なにを騒いで――!!」
遅れてやってきた母親に、あすみは魔法をかけた。
それだけで母親は狂った。
「あぎゃががほほおおおおいえっ!?」
【精神攻撃魔法】
あすみが契約で得た魔法は、相手の精神に直接作用する物だった。
今の母親の精神は歯車を二三本外した状態で、見るもの全てに恐怖を感じるようになっていた。
「お、お母さん……!?」
その狂態に思わず我に返った次女だったが、さらなる絶望が彼女を襲う。
助けを求めたはずの母親が、なぜか自分の首を絞め始めたのだ。
「ぐ、ぐるじい……やめ、で……っ」
だが返ってくるのは意味の分からない叫び声ばかり。
あすみの魔法によって、母親の認識では次女が全ての元凶になっていた。
怖いのも。
苦しいのも。
風が吹くのも空が青いのも娘達の成績が悪いのも夫の帰りが遅いのも、何もかも次女が悪いと思い込んでいた。
その様を、あすみはしゃがみ込んで横から観察していた。
「……そんなに苦しい?」
次女は視線であすみに助けを求めた。
たすけて……!
どうしてわたしが、こんな目にあわなくちゃいけないの……!?
涙を流して懇願する瞳。
自分は被害者だと訴える無邪気で残酷な目だ。
その両目で、あすみがイジメられるのを笑いながら見ていたことを、あすみは忘れていない。
だからその目玉を、あすみは容赦なく抉り取った。
「――――ッッ!!」
「……そういえば、わたしがやめてって言った時、あなたはいつも笑ってたね。
ねぇ、いまどんな気持ち? 苦しい? つらい? 死にたくない?
……大丈夫、安心して」
あすみは久しぶりに感じる、晴れやかな気持ちで笑う。
「……簡単に死なせてなんか、あげないから」
神名あすみは、その名に相応しい天使のような微笑みで、悪魔のように残酷な言葉を吐き出した。
この世の全ての不幸を味合わせるには、この程度ではまだまだ生温い。
生まれて来たことを後悔させるまで、惨劇は終わらないのだから。
閉ざされた結界の中で、無数の屍が転がっている。
魔女の生み出した使い魔でも、魔法による幻影でもない。
それらは紛れもなく人間だったモノだ。
今ではただの肉片となってまで生かされ続ける存在となり、もはや人間と呼ぶことすら痛ましいモノへと成り果てていた。
肉片の中には、あすみをイジメたクラスメイト達がいた。傍観していた者もいた。担任の姿もあった。ただ同じ学校に通っていただけの者もいた。ただあすみと通り過ぎただけの者もいた。母の葬儀で見た者がいた。その者の家族であろう子供達もいた。父親がいた。知らない少女がいた。知らない女がいた。
あすみの記憶にある全ての人間がここにいた。
その全てを、あすみの手で不幸にしてみせた。
犠牲者達の呪詛は、結界の中にさらなる異界が生まれかねないほど濃密なものだった。
ただの魔法少女なら一歩踏み入れただけで汚染され、穢されかねない猛毒の瘴気だ。
その中心地にて、ゴスロリ衣装を身に纏った銀髪の少女が、狂ったような笑みを浮かべている。
「……これでわたしのサヨナラ勝ち。ざまあみろ、バーカ」
肉体を、魂を冒涜し尽くした少女は、晴れやかな笑みを浮かべる。
その惨劇を、銀の魔女が月夜の特等席で見守っていた。
――新しいオモチャ、みーつけた。
いま再び、新たな絶望の物語が幕を開ける。