「トレーナーさん、お酒、飲みに行きませんか?」
「え?」
2月の、まだ寒さ残るターフの上。
私に飲みに誘われたトレーナーさんは少し驚いた様子です。
「しかし、いいのか?君は……」
「ええ、いいんです。引退はもう少し先ですけど、せっかく20歳になったんですから。」
「そうか……?いや、しかし……」
「それとも、トレーナーさんは私とお酒を飲むのは嫌ですか?」
「い、いや、そういうわけではなく。ただ、意外だっただけさ。てっきり君は――」
「え~!?トレーナーさんとグラスちゃん、お酒飲みに行くんですか!?うぅ~うらやましいです!!」
「あら、スぺちゃん。」
「スぺ。」
トレーナーさんが言い終わるより先に、ともにトレーナーさんに師事しているスぺちゃんがこちらに駆け寄ってきます。
今しがた”もう一周走ってきます!”と言って駆けていったばかりなのに、トレーナーさんのこととなると流石です。
「まあまあ、スぺもあと3か月もすれば一緒に飲めるんだから……」
「むう~~~!!」
「あらあら。」
苦笑しながら宥めるトレーナーさんの右腕に抱き着き、こちらを威嚇するスぺちゃん。
ふふっ。まるで妹……いや、わんこのようでとてもかわいいです。
「大丈夫ですよ、スぺちゃん。門限までには帰ってきますから。」
「うう~~!」
「スぺも成人したら、みんなでまた行こうな。」
「うう~」
最終的に諦め、がっくりとうなだれるスぺちゃん。
心配性ですね。
たった数時間の間では、何も起こりませんよ。
……でも、今日ばっかりはあげません、なんちゃって。
◇◇◇
「「乾杯」」
私とトレーナーさんは、学園からほど近い大衆居酒屋へやってきました。
”初めて飲むのがこんなところでいいのか?”と言われましたが、いいんです。
私にとって重要なのはどこで飲むか、というよりもむしろ、誰と飲むか、ということなのですから。
「どうだい?」
「う~ん。飲み慣れていないからか苦くて、不思議な味ですね~。トレーナーさんはおいしいと思いますか?」
「う~ん……最初はあんまり好きじゃなったけれど、段々と飲めるようになって……まあ、おいしいかどうかは別として、好きかな。」
「そういうものですか~……う~ん、やはりすぐには、おいしさは分からなそうです。」
「無理しなくてよかったのに。飲みやすいカクテルとかもあったろうに。」
「いいんですよ~。乾杯は、ビールがしきたりみたいなものなのでしょう?」
「まあ……でも、最近はそうでもないらしいよ?」
「あら、そうなのですか?」
「ああ。この前同僚と飲んだ時なんて――
他愛のない話をしながら、お酒や料理をどんどん消費していきます。
私がどんどんと勧めるからか、トレーナーさんの顔はすぐに赤くなってなんだか口調も定まりません。
なるほど。どうやらトレーナーさんは、酔うと少しフランクな口調になるみたいですね。
「―――それよりぐらすちゃんは~」
「あらあら~そんな”グラスちゃん”だなんて。いつも通り、”愛しのグラス”でいいんですよ?」
「そう呼んだことはないかな。」
既に何杯目かわからないジョッキに二杯目のカクテルが入ったグラスをかちんとぶつける。
素面ではなかなか、こんなやり取りはできませんね。
「それより、どうするの?これから。」
「えーと、お嫁さん、とかですかね~?」
「はッ。」
「あら~?」
「冗談です。」
「あら~。」
目をとろんとさせながらも、軽口に付き合ってくれるトレーナーさん。
……でも。
「トレーナーさん。あの……その。あの――」
「……アイツのことか。」
「……えぇ。」
”アイツ”だなんて。
あんなに仲よくやっていた相棒を呼ぶ言葉でしょうか。
……いえ、仲が良かったからこそ、なのかもしれませんね。
「俺も、知らないよ。夢破れて中央を去る奴は少なくないから、仕方ないと言えば仕方ない……」
「……」
「でも、何も……まだまだチャンスはあったのに……」
やはりトレーナーさんの心の中には、まだまだ”アイツ”の影が残り続けているのでしょう。
……このもやもやを晴らさないことには、なんとも。
私がこの先に進むことは、できません。
「連絡とか、取っていないんでしたっけ?」
「前も言ったかもしれないけど、一切取ってないよ。……どこで何をしてるのかも、さっぱり。」
「そうですか。」
「あ、すみません。これもう一杯お願いします。……何か飲む?」
「あ、私は大丈夫ですよ。」
「わかった。とりあえずこれだけでお願いします。」
「……」
トレーナーさんにとっても、決して話して気分良い内容ではなかったのでしょう。
傷をアルコールで洗い流すかのように、追加オーダーをしています。
彼がどれくらい飲めるかは知りませんが、だいぶ飲むペースが速いのではないでしょうか。
「すみません。せっかくの席でこんなこと……」
「いいんだよ。酒の席でしか話せないこともあるしね。」
「ありがとうございます。……少し、お手洗いに失礼しますね。」
「うん。」
――――お前、■■で、あんなとこで、何やってんだよ――――
去り際、確かに、そんな呟きが聞こえました。
……やはり。
トレーナーさんはやはり……
”酒の席でしか話せないこともある”ですか。
……なかなか、言い得て妙ではありませんか。
彼の不用心な呟きを拾った耳をせわしなく動かしながら、私は店の奥へ歩を進めました。
◇◇◇
「あ、グラス。お帰りデス。」
「ただいまです、エル。」
あの後、私は平静を装ってテーブルに戻り、何事もなかったかのように彼と酒を飲みました。
正直もう、何かを飲みたい気分ではありませんでしたが、これも大人の付き合いというものでしょう。
トレーナーさんもあの後は普通でした。
あんなに酔っていたのに、お会計も恙なくこなして。
やはり社会人というか、大人の男なんだということを実感します。
「ふぅ……」
……予想していたこととはいえ、なかなかハードルは高そうです。
でも、これも私が進むため。
超えなくてはいけない、壁なのです。
「どうしまシタ?」
「いえ、なんでもないですよ。明日バイトなのに、少し飲み過ぎてしまったかな~と。」
「はは~ん。さてはグラス……初めての飲酒なのに、節操なしデスね!」
「エ~ル~?あ、もしかして酔い覚ましの運動に付き合ってくれるのですか~?」
「ケッ!?な、なんでもないデス!!エルも明日早いので、もう寝マス!!では、おやすみデス!!」
「あらあら~。」
”グラスが引退したら、一緒に飲もうね!!”
……彼は、あの約束を覚えているのでしょうか。
トレーナーさん……
……”アイツ”がいなくなってからというもの、私は心乱されてばかりです。
二人きりのときは、こんなことになるなんて思ってもみませんでした。
「……」
手帳に挟まれた、新聞記事のスクラップ。
これを寝る前に見るのが、私の日課。
一年目、私が初めて重賞を取ったときの記事。
決して大きな記事ではないけれど、記事の中では彼と私がトロフィーを携えて笑い合っています。
「……」
また、あの頃に。
あの頃みたいに。
戻れるでしょうか。
「そろそろ、寝ますか。」
おやすみなさい、トレーナーさん。
そう心の中でつぶやき、私はスクラップを手帳にしまいました。
◇◇◇
「あら、グラスちゃん!おはよう!」
「おはようございます~」
翌朝、いつも通りに目を覚ました私はいつもの和菓子屋にアルバイトへ向かいました。
初めての飲酒、二日酔いや寝坊は少し心配でしたが、そこは大和撫子としての矜持が勝りました。
「新聞見たわよ。グラスちゃん、引退しちゃうのね。」
「ええ、もう少し先ですけれど。次の3月のレースを最後に引退します。」
「グラスちゃんが走るのを見れなくなるのは寂しいけれど、お疲れ様。あ、でも引退するってことは、もう学校……というか、バイトも辞めちゃうのかしら?」
「もう、気が早いですよ~。卒業までは学園にいますし、バイトも続けさせてもらいたいです。」
「あら、そうなの!!ありがたいわ~~グラスちゃんみたいな可愛い子がいるだけで、売り上げも店の雰囲気も全然違うから!!」
「ありがとうございます~」
ええ、卒業までは。
いろいろと、やり残したこともありますしね。
「でね~。あ、そうだグラスちゃん聞いて!」
「どうしました?」
「今朝の朝刊でグラスちゃんが引退するって報道されたでしょ?あ、それで今朝から常連さんの予約の電話かかりっぱなしよ。あ、ごめんなさい。それが本題じゃないわ。」
「その中にね、とっても珍しい予約が入ったのよ。」
「まったく知らない方でね、”和菓子の郵送はやってますか?”だって。」
「そんなこと聞かれるの初めてだったから、びっくりしちゃった。んで、とりあえずどこまで届けるのか聞いたのよ。」
「そしたら、どこだったかしら……ちょっと地名は忘れちゃったけど、確か東北の田舎の方だったと思うわ。」
「……珍しいですね~それで、どうしたんですか?」
「すっごく迷ったけど、”是非食べたい!”って言われちゃって。なんでも、このあたりに一度来た時に食べた味が忘れられないんだって。うれしいわよね~」
「だから、受けちゃったのよ~。こういうのって、どうしたらいいのかしら?」
「もしよろしければ、私が届けますよ~ちょうど、私もそちらの方に用があったんです。」
「あら、気を遣わなくていいのよ。ただ、グラスちゃんならネットとかにも詳しそうだから聞いてみたの。そういうサービスとかないのかしら?」
「あるにはありますが、期間的にすぐにというわけにもいかないでしょうね。本当に、私が届けても大丈夫ですよ?旅行がてらいって、届けてきますから。」
「でもねぇ~グラスちゃんだってまだ学生なんだし、そんな負担をかけるわけには……」
「いえいえ~大丈夫ですよ。それに、学生生活でずっとお世話になっているこの店のお菓子を食べたいと言ってくれる方がいるんですもの。どんな男性か拝見したいです~」
「そう?悪いわね、いつも。」
「それで、お届けするのはいつ頃ですか~?」
「たしか……3月の中頃……あら?グラスちゃん、レースの日程と被らない?」
「大丈夫ですよ~」
「そう、えーと、今メモとってくるからちょっと待っててね~」
「は~い♪」
◇◇◇
ついに、この時が来た。
……来てしまったと、言うべきか。
グラスワンダーの引退。
ひと月前に新聞で報じられ、今日がそのレース当日だった。
諸事情により映像でその勇姿を見届けることができなかったのは残念だが、ラジオで彼女が勝利を収めた様子を確認することができた。
「感慨深いなぁ……」
彼女の引退日に祝宴をあげることができないのは残念だが、どうせやるのならしっかりと。
きちんと準備をして明日、彼女の引退を、勝利を祝おう。
「ふぅ……」
もう夕飯を食べて風呂に入り、後は寝るだというのに、まだ昼のレースの興奮が冷めやらぬ。
あの末脚。
実際に見てはいないが、素晴らしいものだったろう。
どんな逃げウマでも、彼女の末脚から逃れることはできなかったはずだ。
「少し、夜更かしするか。」
ごそごそと、戸棚をいじる。
そこには大量の新聞のスクラップと、ひと際丁寧に飾られた日本酒があった。
「懐かしいなぁ。」
これは重賞初勝利。
これはGⅠ初制覇。
これは……
これは……
「おや、もうこんな時間か……」
机の上には、不思議な光景。
幾つものスクラップが所狭しと並べられている机。
そのスクラップには、二種類あった。
普通のもの。
そして、栗毛の少女の隣が真っ黒く塗りつぶされているもの。
よく見ると、とある期間までのスクラップは一部が黒塗りにされ、それ以降は普通だ。
もっとも、この男はそんなことをまったく気にしていないが。
「ふぁ……」
夜も更けてきた。
眠気も十分。
「明日は荷物も届くし、そろそろ寝るか。」
……おやすみ、グラス。
そう心の中でつぶやき、電気を消、そうとした瞬間。
……こんこん。
「お?」
戸がたたかれた。
誰だろうか、こんな夜更けに。
寝ぼけているし、気のせいだろうか?
こん、こん、こん。
「ふむ。」
いや、気のせいではないようだ。
どうにも、こんな夜更けに人の家の戸を叩く不躾な来訪者がいるらしい。
そういえば、学園で似たような体験をしたトレーナーもいるとか。
……まあ、自分には関係ないが。
こん、こん、こん。
「う~ん……」
迷う。
こんな夜更けに。
すごく丁寧なノックだ。
だが、逆にそれが不気味でもある。
例えばトイレを貸してほしいとか、そういった緊急の用事だったらもっと切羽詰まっているはずだ。
こん、こん、こん。
「はぁ~~」
まあ、仕方ない。
大方ろくなやつではないだろうが、何せ今宵の自分は機嫌がいい。
出てやろう。
◇◇◇
「はいはい。こんな夜更けに誰ですか~―――ッ!!」
がっ。
半ば反射的に、戸を閉める……これが何の意味も持たない行為であることは分かっているが。
扉を、開けるべきではなかった。
いや、でも仕方ないと思う。
こんな東北の片田舎の寒村では、映像で確認できるインターホンなんてないのだ。
いつもは近所のじいちゃんやばあちゃんしか訪ねてこないものだから、油断していた。
しかしまさか、足を突っ込んで止めるなんていう、漫画みたいなことをやられるとは思わなかった。
「あっ……」
……つっこまれた脚は、左脚。
そっちの、脚は。
無意識に、力をに抜いてしまった。
がらがら。
「こんばんは~♪」
「和菓子のお届けに、参りました~♪」
「おや?どうしたのですか、トレーナーさん。夜分遅くで失礼なのは承知の上ですが、無反応だと寂しいです……」
なぜ。
「あ、でも、私が骨折した脚、覚えていてくれたんですね♪」
どうして、ここが。
「私のことを覚えていてくれて、うれしいです♪トレーナーさん。」
「……っあっ!……だ、だれ」
「あ、大声は出さないでくださいね?私とて、手荒な真似はしたくないですから。」
なぜきみは、そんなにふつうでいられるんだい?
「ぐ、ぐら、す。」
「はい、トレーナーさん♪あなたのグラスワンダーです♪」
そういうと、風呂敷包みをもった彼女――
グラスワンダーは、建付けが悪い我が家の扉を優しく閉めた。
◇◇◇
私、逃げられてしまったんです~
とっても寂しかったです。悲しかったです。
トレーナーさんは知らないと思いますが、私、泣いてしまったんですよ?
エルに涙を見られてしまって、慰められたのは不覚でした。
”我未だ木鶏たりえず”
この言葉を使うのは、あの日以来ですね~
でも、ずるいですよね?
自惚れではないですが、私の末脚があれば逃げられることはなかったはずなんです。
誰かさんが、私がゲートに入っていないにも関わらず出走してしまうから。
それではいくら、私の末脚が。
……あなたの育てた末脚が鋭いとはいっても、追いつくことはできませんよね~
……目を、逸らさないでください……はい、よくできました♪
つらかったですよ。
”怪物”なんて言われていますけど、私だっていたいけな乙女ですから。
……今のは笑うところですよ?
でも、つらかったのは本当です。
トレーナーさんに、あなたに、逃げられた。
いえ、見捨てられたんですから。
”違う”?
何が違うかは分かりませんが、私はトレーナーさんに発言を許した覚えはありませんよ。
……いい子ですね♪でも、目を逸らしてはいけませんよ。三回目はないです。
いろんなことを我慢しました。
嫌なこともいっぱいありましたけど、耐えました。
……本当は、初めてのお酒はあなたと飲みたかったんですよ?
あなたが約束を覚えているかは、分かりませんけど。
でも、感謝もしているんです。
この経験で、私は気づきましたから。
気づけましたから。
……謝らないでください。
私は怒っていませんし、あなたに謝ってほしいわけではないですから。
本当ですよ?
本当に怒ってなんていないですから。
むしろ、今でもあなたを慕っています。愛しています。
あら……泣かないでください。
そんなにうれしかったんですか~?
……だから、謝らないでください。
……。
……。
……謝らないでください。
謝るな。
私を見ろ。
……。
出来ないんですか。
そうですか。
悪い子ですね。
怒っていないのは本当ですよ。
愛しているのも本当です。
でも、私はあなたを憎んでいます。
なぜ?
なぜ私の前から逃げたんですか?
なぜ私を見捨てたんですか?
なぜ?
言ったじゃないですか。
あなたが私の星だって。
私の道を、照らしてくれるって。
言ったじゃないですか。
あれ、嘘だったんですか?
違わないです。
あなたは逃げたんです。
見捨てたんですよ。
……謝らないで。
だから、謝るな。
こっち、見ろ。
私を、見ろ。
おい。
……トレーナーさんが、こんなに聞きわけが悪いとは思いませんでした。
ふぅ。
あ、でも私、本当にトレーナーさんを愛していますし、感謝もしています♪
本当ですよ。
ここまでこれたのも、あなたのおかげ。
いきなり道標となる星が消えてしまったのには驚きましたが、なんとかここまで来れました。
……暗い道を、真っ暗な道を走るのは、つらかったですよ。悲しかったですよ。寂しかったですよ。
でも、それだけオモイも強くなりました~♪
そして私がこうなったのも、トレーナーさんのおかげ。
あなたの、おかげですから。
もう、逃がしませんから。
ああ、泣かないで。
怒ってませんから。
ああ、謝らないで。
もう寂しくないですから。
でも、まだつらいです。
悲しいです。
そう簡単には癒えません。
赦せません。
ですから、ちゃんと責任、とってくださいね?
あなたがこうしたんですから。
私を、こうしたんですから。
……だから、こっちを見てくださいってば。
……はぁ。
もう。
悪いトレーナーさん。
……それは今更ですね。
責任を取ってもらう前に、罰を与えなくてはいけませんか?
喜んでください。
いまに赦されますから。
だから、泣かないで。謝らないで。
…………あ、また目を逸らしましたね。