”いい香りがする人とは、相性がいい。”
パソコンをかたかたと鳴らしながら男はふと、そのような噂を思い出した。
はて、どこで聞いた噂であったか。
学園内で何気なく耳にしたかもしれないし、この前のトレーナー同士の飲み会で耳にしたかもしれない。
まあ、どこで聞いたかはさほど重要なことではないか。
くんくん。
ふむ、安物のコーヒーではあるが、なかなか良い香りではないか。
自分とこのコーヒーは、もしかして相性ばっちりなのかしら。
そんなバ鹿なことを考えながら、男はゆっくりとコーヒーを口元に近づける。
「あちっ。」
熱い。
いや、淹れたてだから当然ではあるが。
ちなみに、男は猫舌である。
相性がばっちりなんて、前言撤回だ。
こんなにも鋭い牙をむいてくる即席コーヒーなんぞとは、よろしくやっていけるわけがない。
まったく、とんでもない飲料である。
男は疲れを訴える目頭を押さえながら、もはや泥水としか見えなくなった眼前のマグカップを睨みつける。
ちなみに、男は昨夜寝ていない。
寝る前に一つ、トレーニングの本を読み返していたら思いのほか興が乗り、いつの間にかお日様とおはようを交わしていた。
「……あんまり、おいしくない。」
ちびちびとインスタント泥水(仮称)を口に含みながら、男は顔を顰める。
第一、こんなコーヒーよりももっと、グラスが淹れてくれた茶の方がよっぽどいい匂いだ。
「……」
ふと、男の脳裏に栗毛のおっとりとした少女の姿が浮かぶ。
うむ、彼女が淹れてくれる茶は何とも、香り高い。
男は少女の淹れる茶が大好きであった。
きっと、自分とあのお茶の相性は◎に違いない。
男はやはり、くだらないことを考えている。
繰り返すが、男は寝ていない。
「!!」
そんな徹夜明けで、食べ終わったシーザーサラダの皿の上で忘れられたクルトンのようにしなびた男は、いきなり目を見開く。
”彼女は、自分のにおいをどう思っているのだろう?”
いや、これは何も、変な意味ではない。
彼女……グラスワンダーは言うまでもなくウマ娘。
つまり、人間である自分とは一線を画す嗅覚も持ち合わせている。
くんくん。
男は急に不安になり、自らのにおいを嗅ぐ。
徹夜明け。
寝る前に風呂に入ったのはもちろん、念のため朝もシャワーを浴びた。
「……わからない。」
だが、人というのは自分のにおいは分からないものである。
現に、自らのにおいを確かめた男も己がにおいをわからずにいる。
ううむ。
男は腕を組み、悩まし気に目をつぶる。
少女とは、それなり以上の信頼関係を築いてきた自信がある。
それを”相性が良い”と呼んでよいかはわからないが、少なくとも悪くはないのではないか。
いや、しかし。
しかしである。
うまくやっている(と、自分は思っている)少女がその実、自分のことを”臭い”とでも思っていたら。
くんくん。くんくん。
だめだ、分からない。
臭いと思われていたら辛すぎる、申し訳なさすぎる。
どうしたらよいのだろう?
一等星の少女のトレーナーに、おすすめの柔軟剤を聞きに行くべきか?
はたまた、カワイイ少女のお兄ちゃんに、お香を分けてもらうべきか?
「……」
分からない。
ひとまず男は制汗シートを手に取った。
その後、自分の服と部屋中に、念入りに、それはもう念入りにファブリーズをぶちまけた。
◇◇◇
”いい香りがする人とは遺伝子的に相性がいい。”
そんな爛れた噂を、そしてその発信源が隣の寮の長であることを、グラスワンダーは未だに信じていなかった。
だいたい、”遺伝子的に”とはどういうことだろう……つまり、そういうことなのだろうか?
……だって、仮にそれが、噂が事実だとしたら、私は……
ぶんぶん。
トレーナー室に向かう道中、ほんのり赤くなった自分の顔を戒めるように顔を振る少女。
自分は大和撫子であると言い聞かせ、平静を装う。
いつからか広まったこの噂はあっという間に学園中に広がり、今や年頃のトレセン生たちの話のタネになっている。
だが、だからといって、自分もそれに乗じるべきではない。
少女はそう考えていた。
仮に、総大将が、一流が、トリックスターが、怪鳥が。
そのどれもが各々のトレーナーの匂いに現を抜かしていたとしても。
自分は大和撫子然とし、いつも通りふるまうべきであると。
「……」
ここで少女はふと、己の言動を振り返る。
あれはとあるレースの日。
「やりました~トレーナーさん♪」
「や、やったな、グラス!!」
強者ひしめくレース。
それに勝利した二人のテンションは、最高潮であった。
故に。
ぎゅっと。
そのままの勢いで。
彼と、トレーナーとハグをしてしまった。
「……」
下心なんて、本当になかった。
ただこの勝利を、感動を、彼と分かち合いたかっただけ。
あくまでそれだけだから、これはきっと、トレーナーとウマ娘の健全な在り方なのだ。
たぶん。
きっと。
だから。
”トレーナーさんの匂い、落ち着くなぁ”
とか。
”トレーナーさんの心臓、ばくばくしている。”
なんて。
な~んて思ってしまって、その後から日常的にハグをねだっていてもそれは、健全なトレーナーとウマ娘の信頼関係なのである。
Q.E.D.
「!!!!」
だが。
だが、待てよ。
もし、もし、仮に。
彼が、自分のにおいを好ましく思っていなかったら?
くん、くんくん。
だめだ、自分自身のにおいなぞ、まったくわからない。
どうしよう。
いつも優しく抱きしめてくれる彼がその実、自分のことを、その……くさいと感じていたら。
だめだ。
仮にそうだったら白無垢で短刀を腹に突き立て、彼に介錯を頼むほかあるまい。
自分の遺灰はぜひとも、たんぽぽ畑に撒いてほしい。
脳内で存外愉快なことを考えている大和撫子な栗毛少女は。
しきりに自分のにおいを確かめながら、トレーナー室に向かっていた。
◇◇◇
”今日は少し、彼との距離を考えよう。”
目的地にたどり着いた少女は、重厚そうな扉を開けるのをためらいながら考える。
そして、何気ない会話から彼の本心を探る。
ハグをねだるのは、それからでも遅くない。
とんとんとん
どうぞ~
がちゃり
ふう。
一つ深呼吸をして、ご挨拶。
「こんにちは、とれ……」
「いらっしゃい、グラス……?」
すん。
すん、すんすん。
「……」
「グラス?」
すんすん。
「おーい?」
すんすんすんすん。
「どうしたの?」
「……しません。」
匂いが。
「え?」
「誰ですか。」
匂いが、しない。
「誰って、そりゃ、まごうことなく君のトレーナーなのだけれど……」
「誰と、ですか。」
「ほ?誰と??」
「あくまでしらを切るんですね……」
男には、彼には、前科があった。
あくる日、いつものように登校していると。
彼と、あの緑色の学園秘書が朝帰り(意味浅)をしていたのである。
あの日は大変だった。
体からあの人のニオイを漂わせ、”何も知りませんよ~”なんて顔をしている彼の隣で自分を保つのは。
あれでやる気などが上がる自分自身は本当に解せない。
執拗にニオイのことを尋ねたからか、”徹夜明け……まさか加齢臭……!?”と勘違いしてファブリーズを浴びる男の姿はなかなか愉快であったが。
ともかく、男は前科持ちであった。
「誰と、ですか。」
「いや、グラス、何のことかさっぱり……」
少女は耳を振り絞り、じりじりと男に詰め寄る。
自分がほんの数秒前、”距離に気を付けよう”と考えていたことなど、頭の片隅にも残っていなかった。
「……」
ぎゅっ。
「ちょ、グラス!?」
すんすん。
いきなり抱き着いてきた担当に驚く男を無視し、少女は容疑者の取り調べを始める。
すんすん。
部屋だけでなく、男からも匂いがしない……
不自然なほどに。
「あの、グラス……これはいったい?」
「……」
すん、すん。
……匂いが、しない。
ぴこ、ぴこ。
ぴこ……
少女の感情は、なかなかに複雑であった。
ここまで念入りに部屋も己も消臭するなど、一体誰と何をしたのか。
彼の匂いも、あの落ち着く良い匂いも、しない。
「……」
「???」
一方の男は困惑していた。
わけのわからぬことを言いながら耳を絞って抱き着いてきたかと思えば、今度は悲しそうに耳をぴこぴことさせている。
いくら良い信頼関係を築いてきたパートナーとはいえ、今の彼女を推し量ることは難しい。
徹夜明けの男の脳は、疑問と少女の感触でもはやショート寸前であった。
だから。
ぴこ、ぴこと。
「……」
眼下で揺蕩う栗色のかわいらしい耳のその付け根を。
混乱した男が、衝動的に嗅いでしまってもそれは、仕方のないことなのである。
◇◇◇
すんすん。
「?……!?!?!?!?!?!?」
「お!」
少女は驚いた。
それはもう、驚いた。
おそらく、この世に生を受けてから最大の驚愕ではないか。
「ななななななな、何をしているんですか、トレーナーさん!?」
それもそうである。
いきなり男が自らの耳の付け根に鼻をうずめてたらそれはもう、驚く。
「いやだって、グラスもなんか僕のにおい嗅いでるし……お互い様かなって。」
「そ、そんなわけないじゃないですか!?その、だって……あの、その、に、におう、かもしれませんし……」
消え入りそうな声でか細くつぶやく少女。
少女は漸く、冷静さを取り戻し始めていた。
すんすん。
「!?!?!?!?」
すると徹夜明けの男は再び、容赦なく。
少女の耳の付け根を嗅ぎ始めた。
「いや、全然くさくなんてないよ。むしろ落ち着くというか……ともかく、すごくいい匂いだから安心しなよ。」
「!」
なんとデリカシーのない男であろうか。
だが、当の男は安心していた。
今改めて少女の匂いを嗅いだが、とても良いにおいであった。
つまり少なくとも、自分→少女の相性は良い。◎ともいうべきだろう。
それに冷静に考えてみたら、今も含めてこの少女はよく自分のにおいをかいでいた。
少なくとも、臭かったらそんな芸当はできないだろう。
人間よりも鼻の効くウマ娘のことだ、決して彼女にとっても、悪いにおいではないはず。
「ふう。安心したよ。僕とグラスの相性は決して悪くないみたいだ。」
「!?!?!?」
「最近噂になってるよね。今日ふと、猛烈に気になってさ。とってもいい匂いだったよ、グラス。」
「……」
「自惚れだったら申し訳ないけど、グラスも僕のことを”臭い”とは思ってないよね?いつもハグするとき嗅いでたし。」
「!?!?!?!?」
「よし、解決したらなんだか気分も晴れやかだ。それじゃ、今日のトレーニングを……グラス?」
「……きゅう。」
「ぐ、グラスーーーーー!?!?」
突然倒れ、男の腕に抱かれる少女。
まるで、世界の中心で愛を叫ばんばかりの構図である。
そして少女は。
目を覚まし、彼の腕に抱かれている現状と。
彼が汗をかいたことで復活した男の匂いに包まれている現状のダブルパンチで。
「……きゅう。」
「グラスーーーー!!!!」
再び、気を失った。