グラスワンダー短編集   作:よたか(ほし)

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季節外れの爆弾低気圧を伴ってトレーナーに迫るグラスワンダー(湿度◎)

ちくり、ちくり。

 

栗毛の少女が、自室で編み物をしている。

休日の夜更けにちくちく、ちくちくと編んでいる。

 

慣れた手つきでかぎ針を縦に横に。

編み物に詳しくない者が見てもうまくいっているのかいないのかよくわからないが、彼女が穏やかな笑みを浮かべているということはきっと、良い具合なのだろう。

 

ちくちくと、少女は編み進める。

いや、編み物に「ちくちく」なんていう音をあてるのは不自然かもしれない。

だが、少女の編む様子を見るに、どうもその音がぴったりなのである。

柔らかな、見るからに柔らかそうな、もこもことしている栗色の毛糸を操っているのだが、ちくちくという、鋭利な音がぴったりとあてはまるのである。

 

少女は編んでいる。

かぎ針を動かすたびに、自らのおもいを念じながら編んでいる。

 

このところ急に、朝夕が冷え込むようになってきた。

それで、この少女は「マフラーでも編もうか」と思い立ったわけである。

だが、何も自分のために編もうというのではない。

少女は既に昨年のクリスマスにとある男からマフラーをもらっていたから、これ以上首元の暖は必要なかった。

では、なぜか。

 

数日前のある朝のこと。

男、少女と毎日一緒に学園に登校しているある男が、くしゅんと一つ、くしゃみをしたのである。

男はくしゃみをした後、昨年の聖夜に少女がプレゼントした栗色の手袋を口元にもっていって「寒い、寒い」という。

そんな男をじっと見つめたところ、彼は申し訳なさそうに首をすくめたのである。

「グラスも、体調には気を付けるんだよ。」と首を縮こませながら言う男に、「ならばまず、自分の体を労わらねばなりませんね。」と返しながら少女は思案する。

ばつが悪そうに隣を歩くこの男にはどんな色のマフラーが似合うだろうか、と。

 

彼は専ら、黒いスーツで登校する。

その上には、濃紺のトレンチコート。

手袋には、栗色でアクセント。

 

ふむ。

ちょっと早足になった男の手を控えめに握り、自分の隣に落ち着かせながら少女は考える。

何色がいいだろう。

彼らしい色。

ふむ。

おお、そうだ。

恥ずかしそうに手を握り返してきた男の手を、先ほどより幾分か強く握って、少女は思いつく。

 

白。

白色のマフラーなんて、どうだろう。

紺色と、栗色と、白色。

これに赤のネクタイでも締めてもらえれば、彼がどういうトレーナーであるかは一目瞭然ではないだろうか。

少し遠回しかもしれないが、自分だってG1ウマ娘の端くれ。

勝負服のカラーリングだって、それなりに認知されているはずである。

 

うん。

うんうん。

我ながらなかなか、よいアイディアではなかろうか。

紺のコート、白いマフラー、栗色の手袋。

うん、実に彼らしい。

彼がどういう人間であるかを、端的に表している。

そうしよう。

きっと、そうしよう。

名案が浮かんで早足になった少女によって、今度は男が引っ張られる。

 

ともかく、そんな具合で少女はマフラーを編むことになったのだ。

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

となると、彼女が編んでいる栗色のマフラーは一体何なのか。

実はこの少女、白いマフラーを男に渡すことを断念していた。

 

「……」

 

”みしり”という、おおよそかぎ針からは聞こえてこないであろう音を奏で、少女は笑顔で想起する。

 

あの朝から、少し経ったある日。

グラスワンダーはというと、彼女はせっせと白いマフラーを編んでいた。

少しばかり、長めに。

 

このマフラーを送ったら彼はどんな顔をするだろうか、とか。

このマフラーを付けた彼とどこへ行こうか、とか。

ひょっとしたら、ひょっとして、このマフラーが自分たち二人を温めてくれるかも、とか。

 

そんなふうに年相応にかわいらしく浮かれながら、少しばかり長めにマフラーを編んでいた。

 

「♪」

 

実に楽しそうに、にへらと笑いながら少女は編んでいたのだ。

それはまるで、誰かを想っているかのように穏やかで。

ともかくそんなふうに、少女はマフラーを編んでいたのである。

 

 

しかし、半分くらいが編み終わった頃であったか。

とある大事件が起こった。

大事件とはいっても、”少女にとって”という文字が入るのだが。

 

まあ、もったいぶって話すほどのことでもない。

男、数日後に白いマフラーを手に入れるはずだったとある男が、緑の秘書と朝帰りをしたのである。

ただ、それだけである。

 

なんだそんなことかと思うかもしれないが、少女にとっては大事件で。

少なくとも、こんな大罪(不貞行為)を働いた男をやすやすと赦すわけにはいかないのが、乙女の心情であった。

不貞行為の意味は今一度辞書で調べなおすとして。

 

「……」

 

再び、”みしっ”という音が聞こえる。

少女はなおも、穏やかに微笑んでいた。

ただ、白いマフラーを編んでいたときのそれとは違って、まるで感情にふたをするような、そんな笑みを浮かべている。

 

あの朝。

起きてみたら、”今日は先に行っていてくれ”と簡素なメッセージだけを残していたあなた。

一人寂しく、いつもよりくすんだ空のもとを歩いた朝。

道中のパン屋の前を横切っても、いつもするはずの甘さが溶け込んだバターの香りが全く感じられなかったあの朝。

 

見せつけてくれる、と、少女は思った。

雪の山道を一歩一歩踏みしめるような重い足取りで向かった果てにいた、男と緑色の彼女。

”あら”と、少女は笑った。

己が激情を鬱積へと変え、そっと心の片隅に仕舞い込んだ。

 

その晩、少女はつくりかけのマフラーを丁寧に丁寧に解きほぐした。

ゆるみ切った笑顔で編んでいたあの日の純情を、ゆっくり、じんわりと解きほぐした。

ちなみに一本の糸に戻った白毛玉は、少女の裁縫セットの中に、何事もなかったかのように鎮座している。

 

ちくり、ちくりと少女は編む。

己の気持ちを一針一針に込め、栗色を編む。

二度と、勘違いできぬように。

誰のものか、はっきりわかるように。

途中でほつれて、男の首から離れ落ちることが決してないように。

編み進める。

 

さて、と。

おおよそ編み終わっただろうか。

 

ぶちり。

 

一瞬の鋭い痛み。

少女の小さな手には、編んでいた毛糸よりもずいぶんと細い、それでいて存在感のある栗色の、長いイトが巻き付いている。

それを少女は、マフラーにうまく編み込んでいく。

少女が時間をかけて選んだ毛糸と、その一本のイトは同じ色といって差し支えない。

おもいオモイで織られたそれに、ひときわ輝く一本の情念が溶け込んでゆく。

それによって、どこか朦朧としていたただのマフラーは”男のマフラー”としてはっきりと形作られたのであった。

 

真ゴコロを込め、手ずから仕上げたそれを。

少女は大事そうに、大事そうに抱きしめて床に就いた。

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

明くる朝。

小さな紙袋を持った少女はいつもの交差点で、男を迎えた。

相も変わらず、寒そうにする男を。

 

「おはようございます、トレーナーさん。」

 

「ああ、おはようグラス。今日も冷えるね。」

 

「そうですね~すっかり秋、という感じです。」

 

信号が青になる。

はやる気持ちを抑え、男と足並みをそろえて進みゆく。

 

「そういえば、グラス、その袋は何だい?」

 

かかった。

 

「ふふ、実はですね~寒そうにしているトレーナーさんのために……じゃーん。マフラー、編んでみました~」

 

「え?ほんと?!」

 

「本当ですよ~」

 

横断歩道を渡り切ると同時に、青色が点滅を始める。

 

「これ、もらっていいの?」

 

「もちろんです~そのために、編んだのですから。」

 

「ありがとう、グラス~!とってもうれしいよ!」

 

「では~」

 

「?」

 

ちょいちょい、と手を上下にする彼女。

背後ではまだ、青色の点滅が続いている。

 

「少し、屈んでいただけますか?私の背では少し、トレーナーさんの首に届きませんから。」

 

「え、いいよ、自分でつけれるよ。」

 

「まあまあ~そういわずに。せっかくですから~」

 

少し強引に男を屈ませる小柄な少女。

ゆっくりと、優しく。

されどどこか豪然と、少女は男の首を栗色で縛り付ける。

 

「はい、できました~♪」

 

「はは、ありがとう、グラス。……でも、少しきついかも?」

 

「トレーナーさんにはそれぐらいが、ちょうどいいですよ~」

 

「む。僕はそんなに寒がりではないよ。」

 

あらあら。

そう呟いた少女は、これ以上ないくらい満足げで。

すっかり赤くなった信号機が、二人を見つめていた。

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

トレセン学園の校門は、毎日活気にあふれている。

朝からバクシンな委員長、そして。

件の緑の秘書が、あいさつ運動をしているからだ。

 

だが、今日の少女にはゆとりがあった。

なんせ、隣を歩く男の首で、栗色が確かな存在感を放っているから。

 

「おはようございます。」

 

「おはようございます、トレーナーさん、グラスワンダーさん。」

 

「たづなさん、おはようございます。」

 

少女はいつも通り、大和撫子らしく男の隣で佇む。

芍薬のように優雅に美しく、立っている。

 

「あ、たづなさん。先日はありがとうございました。とても勉強になりましたよ!」

 

「いえいえ、こちらこそお話できて楽しかったですよ。……あら、そのマフラーは?」

 

「あ、これですか?実は今朝、グラスがくれたんですよ~本当に優しくて気が利く子で。」

 

「あらあら。とても仲が良いんですね♪」

 

「ええ、それはもちろん!トレーナーとウマ娘として、良い関係が築けていると思い……いてっ」

 

「あら?どうしました?」

 

「あ、いえ……」

 

「トレーナーさん、そろそろ時間ですよ~」

 

「あ、うん。ではたづなさん、また。」

 

「ええ、トレーナーさん。グラスさんも、授業頑張ってくださいね。」

 

「ありがとうございます、精進します。」

 

少女と男が、門をくぐってゆく。

その後ろ姿を見送った学園秘書は、困ったような笑顔を浮かべていた。

 

 

 

「トレーナーさん。」

 

「ん?」

 

「先ほど、どうなさったのですか?」

 

少女は、半ば答えを確信しながらも尋ねる。

 

「あ、いや。ちょっとちくっとして、ね。きつく締めてるからかも。」

 

マフラーをもらった出前、あまり大きな声では言えないのだろう。

男は申し訳なさそうに、首元の違和感を訴えた。

しかし、それを見た作成者の少女はなぜかうれしそうである。

 

「すみません~素人が作ったものですので、何卒ご容赦ください。」

 

「あ、いや!すごくいい感じだよ。去年もらったこの手袋はまったくそんなことないし。やっぱり少し、きついからだと思う。」

 

「あら~でも、たづなさんばっかり見て時間を見ていないトレーナーさんにはちょうどいいのではないですか?」

 

「な。そんなことはないよ。」

 

二人は他愛ない会話をしながら、校舎の中へ消えていった。

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

その日の午後。

授業を終え、一足先にトレーナー室についた少女はぽーっとしていた。

そしてほんのり赤らめた顔で今朝のことを思い出し、時折ぞくりと震えた。

 

現を抜かした男を、マフラーに忍ばせた情念が一刺しした。

少女はあの時の男の驚いたような表情を思い出し、満足気であった。

良い。

とても、良い。

 

あの白いだけの、まっさらなマフラーではできなかったことだ。

良い。

私のにおいを首からまき散らしていることにまったく気づかない、彼。

良い。

あれをあんなにきつく首に巻きつけていたらきっと、外してもしばらくはにおいが落ちないだろう。

すれ違ったウマ娘が驚いた顔で男を見るのが、その証左。

良い。

きっと、ちくりと刺された跡をぽりぽりと搔いているのだろう。

 

少女は、今日一日の男の様子を想像する。

彼は自らの与り知らぬところで、自分が誰のものかを証明し続けているのだ。今も。

彼女は、なかなかに倒錯的な感情を抱いていた。

 

少女はふと、机の上を見やる。

するとそこには、例の栗色が大切そうに置かれていた。

彼の机の上で存在を放つ己の分身に、彼女は思わず顔をほころばせる。

 

”これからも、彼から目を離してはいけませんよ。”

そう念じながら、少女は机上のマフラーを手に取る。

 

くんくん。

 

なるほど、朝しかつけていないとはいえ、なかなかに彼の匂いが残っている。

すると彼女はおもむろに、今朝までは自分のものだったマフラーに頬ずりする。

彼の匂いを自らにこすりつけるように。

自らのにおいが、薄れてしまわないように。

 

ちくり。

 

頬ずりをしていると、時折何かが頬をかすめる。

これが、今朝彼を突き刺したイト。

マフラーとしては欠陥品もいいところだが、彼女が想定した機能を十分に果たしている。

 

きっと男は、首元に鋭い痛みが走るたび、栗毛の少女を思い起こすだろう。

そして律儀な男のことだ。

多少使い勝手が悪かろうと、”担当がくれたものだから”と言って喜んで使うのだろう。

肌寒い季節になれば、マフラーをつける季節になれば。

彼は必ず、このことを思い出す。

それが少女にとってはたまらなく、喜ばしい。

 

大きく息を吸って、吐く。

少女はマフラーに顔を埋めたまま一つ、深呼吸する。

これはおまじない。

男と少女をつなぐ、少女が男を縛り上げるための、おまじない。

 

それを終えると、少女は何事もなかったかのようにマフラーを戻す。

部屋には先ほどと同じく栗毛の少女が一人と、その分身が一つ。

 

そこへ丁度よく、マフラーの持ち主が戻ってきた。

 

……ライトハローのニオイを引っ提げて。

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

「やあグラス!今日は一段と早いね。」

 

男はのうのうと、少女に話しかける。

動くたびに、少女の前を通るたびに、ニオイを振りまきながら。

首元のにおいはすっかり、薄れてしまっている。

男はさぞ忙しい一日を送ったのだろう。

汗もかいたのだろう。朝よりも一段と彼の匂いが濃い。

その匂いがどこぞのウマの骨のニオイと交じり合っていることが、少女にはたまらなく不快であった。

 

ずっ。ずっ。

 

重厚そうなカーペットを、栗毛の少女はしきりに搔いている。

しかしクッション性が高いカーペットの上では音が響かず、男もそれに気づく様子がない。

 

少女は、猶予を与えたつもりだった。

栗色のマフラーが、それを象徴する。

愚かな男への、温情、愛情。

 

残念だ、と少女は思う。

おとなしく、マフラーに巻かれていれば。

自分が誰の担当であるかを今一度、きちんと弁えておけば。

栗色の枷は自然と、外れていたのに。

 

実に、残念だ。

 

「トレーナーさん。」

 

いつの間にかカーペットへの蹴りをやめていた少女は、いつも通りに男に声かける。

 

「なに、どうした?」

 

「頭に、何かついていますよ。」

 

「え?うそ……とれた?」

 

「いえ。」

 

「よ……っと。とれた?」

 

「まったく。」

 

「どこかな?」

 

「ふふ。少し、屈んでください。今にとって差し上げますから。」

 

「ごめんね。お願いするよ。」

 

ええ。

間違いなくとって差し上げますよ。

その、不快な不快な、私以外のニオイを、ね。

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

「はい。」

 

「なっ!!急に何するんだ、グラス!!」

 

いきなり己の頭をがっちりと抱きしめられた男は抗議し、じたばたともがく。

 

「まだまだ取れませんから、おとなしくしてください~」

 

「何かのいたずらか?だとしたら、驚いた。だからもう、離しなさい!」

 

「あらあら~」

 

「グラス!!」

 

少女は取り合わない。

それどころか、もがく男をずるずると引っ張って、ソファへ連れ込もうとしている。

男は必死にもがくが、ウマ娘の膂力に敵うはずもなく、彼女のすきなようにされている。

 

「トレーナーさ~ん」

 

「離すんだ!グラス!何が目的なんだ!?」

 

「目的……強いて言うなら、この行為自体、ですかね?」

 

「な、なに言って……モガッ」

 

「すこしおしゃべりが過ぎますよ、トレーナーさん。」

 

「……!!!」

 

少女はもがき、わめく男をいっそう強く己の胸に抱きよせる。

少女の体に、匂いに包まれて、男はもはや窒息しそうであった。

口までも封じられた男は、せめてもの抵抗として少女をきっと睨む。

 

「そんな怖い顔をしないでください~落ち着いて。深呼吸しましょう。はい、吸って~」

 

「……!」

 

だが、少女は意に介さない。

まるで稚児をあやすように男を抱きしめ、優しく、優しく語り掛ける。

 

「吐いて~」

 

「……」

 

「まあ、いいです。そのまま聞いてください、トレーナーさん。」

 

少女はぐっと、一層強く強張った男の体を引き寄せる。

男の視界は、ゆっくり上下する彼女の鎖骨で埋め尽くされていた。

 

「あなたは一体、誰の担当ですか?」

 

「…!……!!」

 

「あ、答えなくて大丈夫ですよ。しっかり私の声に、耳を傾けてくださいね~」

 

「あなたはこの前、たづなさんと朝帰りしましたね。」

 

「反省したのだと、思っていました。」

 

「でも、まさに。舌の根の乾かぬ内、ですね~」

 

「あんなにも。今も、こんなにも。私以外のニオイをばらまいて。」

 

「マフラーでは、物足りませんでしたか?」

 

「あの程度の刺激では。匂いでは。私を感じることはできませんでしたか?」

 

「ならば、仕方ないですね~。」

 

「はい、大きく吸って~」

 

「吐いて~」

 

「もう一度~」

 

「どうですか?」

 

「覚えましたか?」

 

「私の匂い。」

 

「!……!!……!!!」

 

「まだみたいですね。」

 

「吸って~。」

 

「ほら、吸ってください。」

 

「肺の中を、すべて私で満たしてください。」

 

「もう一度。」

 

「新鮮な私を、体に巡らせてください~」

 

「二度と、落ちないように。」

 

「取れないように。」

 

「この匂いが。」

 

「あなたが何者か、直ぐにわかるように。」

 

「あなた自身も、周囲も、直ぐにわかるように。思い出せるように。」

 

「……はい、いい子です。もう一度、吸って~」

 

…………

……

 

 

 

 

 

どれくらいの時間が経ったのだろう。

男はもはや、ぐったりとしていた。

抵抗する気力を失ったであろう男を、少女は漸く開放する。

だが、相変わらず男は彼女の胸でぐったりしているだけである。

 

「トレーナーさん。」

 

少女は男の耳元で、ささやく。

男の体が小さく、ぴくりと跳ねた。

 

「トレーナーさんは、誰のものですか?」

 

少女はささやく。

己の声が、男の脳の髄まで響くように。

己の声しか、耳に届かぬように。

 

「……僕は」

 

「はい」

 

「……僕は。」

 

「はい。」

 

――――――

 

 

「……よくできました♪」

 

 

「そんなえらいトレーナーさんならば、もう他の女性に目移りしませんね?」

 

「うん。」

 

「私だけを、見ていてくれますね?」

 

「うん。」

 

「よくできました~♪では、もう、戻って大丈夫ですよ。」

 

「……あっ。」

 

「どうしました?」

 

「あの、グラスさえよければ、もう少し、抱きしめてくれないか……?」

 

「……!」

 

「だめ、かい?」

 

「もちろん。もちろん、かまいませんとも。ええ、トレーナーさん。この機会にしっかりと、私を覚えてくださいね。あなたの愛バ、グラスワンダーを、しっかりと覚えてくださいね。」

 

「うん」

 

「誰のものか。あなたは、誰か。決して忘れぬよう、しっかりと。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

逃げ切ることができなかった男は。

ついに、栗色の牢獄にとらわれた。

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