「旅行に、行きませんか?」
グラスワンダーからそんなお誘いを受けたのは、新年度が始まる少し前のことだった。
"旅行とは言っても、日帰りの、ちょっとしたものですが~"
そう付け加えた彼女の表情はどこか不安げで、此方の反応を伺っているようだった。
「旅行、か……それは構わないけどまた、どうして?」
3年間以上苦楽を共にした彼女の、滅多にないお願いだ。
断る理由などない。
ないのだが。
「最近お疲れのようですし、リフレッシュにと思いまして~…………いかがですか?」
また、その表情をする。
どうやら自分の見間違いではないらしい。
「……うん、そうだね。確かに最近ゆっくりできていなかったし、行こうか。」
「!……ありがとうございます~では、来週末などはいかがですか?」
「うん、予定は空いてるし、その日にしよう。」
「はい~楽しみにしていますね、トレーナーさん♪」
……少し引っかかるところはあるが、こんなにも嬉しそうな彼女を見るのは久しぶりかもしれない。
彼女は喜んでいるのだ。
それに比べたら、大抵は些細なことに違いないだろう。
◇◇◇
「おはようございます、トレーナーさん。」
「おはよう。いい朝だね、グラス。」
「ええ、とっても素敵なお天気ですね~そうだ、忘れ物はありませんか~?」
「ああ、バッチリさ。それにほら、写真を撮るために携帯もしっかり充電してきたんだよ。」
「……それは、何よりです。私も、しっかりと準備を済ませて来ました。では、そろそろ行きましょう~」
「ああ、行こうか。」
グラスの誘いからおよそ一週間、休日を迎えた彼女と僕は関東近郊のとある観光地へ向かった。
昼食を食べ、景勝地を幾つか巡って夜には府中へ。
リフレッシュには少しばかり忙しない日程かもしれないが、久しぶりの休日をできるだけ謳歌してほしい。
……してほしいのだが。
「グラス、こっち向いて~」
「……ええ。」
やはり、彼女の様子は少し変だ。
なんだかぎこちないというか、不自然だ。
今撮った写真の中で微笑む彼女の顔はいつも見せてくれる花が咲いたような爛漫なものではなく、どこか曇っている。
「あ、トレーナーさん、綺麗な景色ですよ~♪」
「本当だ……凄く綺麗だ……あ、グラス!せっかくだからそこに立って!写真を撮るよ!」
「……ええ、わかりました。」
「おいしいねぇ、グラス。」
「そうですね、トレーナーさん♪」
「あ、グラス!写真、撮ってもいい?」
「……ええ、いいですよ。もちろん。」
「綺麗な夕日だね、グラス。」
「……そうですね、トレーナーさん。」
「ずっと見ていたいくらいだ。」
「……そう、ですね。」
「……でも、今、この時は。いつか過ぎ去ってしまうんだよね。」
「そうですね。」
「……」
「……」
「……あ。グラス、日が沈んじゃう。せっかくだし、そこに立って。写真撮るよ。」
「……」
「グラス?」
「…………」
「グラス、写真……」
「……トレーナーさん、写真フォルダ、見てみて下さい。」
「え?」
「フォルダ、見て下さい。」
「え、でも……もう日没だし、写真を撮ってからでも……」
「いいから、見て下さい。」
「……わかった。」
彼女の揺るがない瞳を見て、沈む夕日を尻目に携帯の写真フォルダを開く。
そこには、彼女がいた。
車窓から移ろう景色に目を輝かせる彼女。
雄大な自然をバックに淑やかに佇む彼女。
美味しそうに昼食を食べる彼女。
……他にも、様々な彼女がそこにはいた。
「……グラス」
無意識に、その言葉が口をついた。
かけがえのない思い出だ。
美しい、思い出だ。
「ええ、私です。」
そんな宝のような写真たちを、当の彼女が覗きこんでくる。
「私の、写真です。」
「そうだね。」
「でも、それだけです。」
「……え?」
よく見ると、彼女はそんなに嬉しそうではない。
「トレーナーさん、あなたはどこにいるのですか?」
「え?」
目の前にいるのに、突拍子も無いことを言う彼女。
「……ここに、いるよ?」
「……失礼します。」
「わっ」
一言断りを入れると、彼女は僕の携帯を優しくひったくった。
そして、写真フォルダをスクロールし始める。
「……どこにも、いませんよ?」
「え?」
彼女は写真をこちらに見せながら、悲しそうに呟く。
「今日、トレーナーさんはたくさん私を撮ってくれました。」
「でも、そこには私しかいません。」
「今日、トレーナーさんはきちんと私を見てくれましたか?」
「カメラ越しでない私を、見てくれましたか?」
「……私と一緒に、過ごしていましたか?」
彼女の問いに、僕は答えることができなかった。
「私は、あなたと一緒の時間を過ごしたかった。」
「景色もご飯も、あなたと一緒に楽しみたかった。」
「グラス……」
また、その言葉が自然に口から漏れた。
寂しそうな彼女の顔を見たくなかった。
悲しい思いを、させるつもりはなかった。
でも。
でも。
「でも、この景色を。君がいる景色を、いつまでも残しておきたい。」
「トレーナーさん……」
「忘れたくない。この夕日を。君と見た風景を。色褪せさせたくないんだ。」
「……トレーナーさん。」
「きっと、いつかは色褪せる。君と来たこの特別な旅行も、何気ない日常に埋もれてしまうから。」
「……ふふっ。」
そこまで言ったところで、彼女はようやく笑った。
……笑った?
「どうして笑うんだい?僕は結構真面目だよ?」
「いえ、そんなことを気にしていたのか、と思いまして~」
「そんなことって、結構深刻な悩みなんだよ?」
彼女はくすくすと笑っている。
「そんな心配、しないでください。」
「え?」
「絶対に、忘れさせませんから。今日見た夕日もきっと、思い出せますよ。」
「……どうして、そう言い切れるの?」
「だって、私が隣にいますから。」
「え?」
彼女は茶目っ気たっぷりに笑いながら、自信ありげに言った。
「私が一緒にいますから。あなたの隣にいる私が、思い出させてあげますから。」
「いつもの夕日を見る度に、私と見たこの夕日を思い出させてあげます。」
「本当かい?」
「本当です。あなたの記憶に紐付けられた私が、きっと思い出させてみせます。」
「ふふふ、ははは。それは頼もしい。」
「お任せください~。」
「ふふ、任せたよ。」
そうして、彼女はやっと大輪の笑顔を咲かせた。
「あ、グラス、みてよ!」
「え?」
「夕日は沈んじゃったけど、綺麗だよ!」
「ふふ、そうですね~」
夕日は沈んでも、すぐには暗くならない。
赤みがかった空が、段々と蒼黒い空に覆われていく。
「グラス、そこに立ってよ!今、……」
自分の右手は、ほぼ無意識に携帯をしまっているポケットに伸びていた。
「今、隣に行くからさ。一緒に景色、楽しもう!」
「ふふっ。ええ、そうですね。一緒に見ましょう。」
僕は写真を撮ろうとした携帯をポケットの奥にしまいこみ、彼女の隣に駆け寄った。