私が何か聞くたびに。
あなたはいつも言いました。
「大人になれば分かる」って。
◇◇◇
「大人になれば分かるよ。」
――ほら、またそれだ。
トレーナー室で会話をする……
いや、「会話をしている」とは少し言い難いか。
栗毛の少女の質問は、男によってはぐらかされたから。
「また、それです。それ、納得できません。」
少女は自らの不機嫌をちょっぴり表すべく、眉根を寄せた。
差し込む夕日が、少女の眉間に影を作っている。
「子どもはみんなそう言うのさ。グラスもそう思うってことは、まだまだ子どもってことだ。」
”私、不機嫌ですから”
その言葉を発さないのは、彼女なりの抵抗なのだろうか。
男は少女の分かりやすいアピールに目尻を下げ、不要になった書類をシュレッダーにかける。
うぃぃぃ゛ぃ゛ん
”この話はもうおしまい。”
紙を裁断する無機質な音は、男のそんな気持ちを代弁しているかのようだった。
「そうやってはぐらかすトレーナーさんの方が、よっぽど子どもっぽいです。」
だが、少女は食い下がらない。
言葉のキャッチボール。
少女が投げたボールは男が捕球しなかったためにどこかに転がっていってしまった
……ので、少女はそのボールを自分で追いかけて拾い、再び男に向かって投げた。
今度は少し強めに。
いや、死球を狙って。
「そんな子どもっぽい挑発には乗らないよ。」
だが、強めに投げたはずのボールは男によって撃ち抜かれた。
ホームラン。
立ち上がり、コーヒーのおかわりを求めて給湯器へ歩きだす男の様子はまるで、ダイヤモンドを一周する野球選手のようで。
……自分はいつの間にマウンドに立っていたのかしら。
キャッチボールしている途中にバットを持ち出すのは反則だと、少女は思う。
「ずるいです。」
「大人はずるいんだよ~」
「……」
先ほどよりも深く寄せた眉根も、負け惜しみにしかならない。
男は別に勝ち誇るわけでもなく、ずずずとコーヒーをすする。
「……」
少女はゆっくりと立ち上がり、足取り重くトレーナー室を後にした。
少女の後ろに伸びる影は、まるで未練がましい後ろ髪のように長かった。
◇◇◇
――もやもやする。
そんな気持ちを少女が抱くのは当然か。
淑やかな私服がネオンに照らされる様は何とも言えないミスマッチ感がある。
少女はゆっくりと、夜の街を散策していた。
品行方正を地で行く彼女がなぜこんなところにいるのか。
そんな疑問も、アルコールと一緒に揮発したのだろう。
少女の隣を幾人もの人が通りすぎるが、栗毛の影を気に留める者はいない。
誰も彼も口角をあげていて、開いた口から酒の匂いを漂わせている。
この場所こそが、家に帰れば煙たがられる酔っ払いの独擅場。
むしろ、素面の彼女の方がここでは場違いだった。
楽しそうな人波の合間を縫いながら、少女は人々とは反対方向を目指す。
少女に目的地はなかった。
気分が晴れないので、外に繰り出しただけ。
外出届は出している。
が、おそらくその届け出で認められている外出時間は既に過ぎているはずだ。
その証拠にほら、先ほどから携帯電話がしきりに震えている。
根はやさしいマスクの少女のことだ。
きっと心配してくれているのだろう。
今日ばかりは、そのやさしさに甘えさせてもらおうか。
少女はひっそりと、携帯の電源を切った。
”走りたい。”
そんな気持ちを持って外に出たはずだが、思うように足が動かなかった。
寮の門をくぐったあたりで先ほどのやり取りを思い出し、なんだか興が削がれてしまった。
宿題をやろうと思っていた時に「宿題をやれ」と言われたらこんな気分なのだろうか。
少し違うか?
残念ながら、真面目な彼女はそんなことを言われたことがなかったので分からない。
一際酒の臭いが強い人が横を通った。
そういえば。
「お酒って、おいしいんですか?」
少女はそう、聞いたことがある。
件の男に。
答えはやっぱり、”大人になれば分かる”だったが。
……
…………
また、もやもやする。
「えいっ…………あっ…………」
もやもやに任せて、つい道端の石を蹴ってしまう。
蹴った後に、自分の脚力のことを思い出した。
「……」
だが、幸いなことに周囲に人はいない。
考え事をしているうちに、いつの間にか繁華街を抜けていたようだ。
少し先に、昼は子どもで賑わう公園がある。
街灯が点々と続くもの寂しい道を歩いていた少女は、周囲を見渡して一安心した。
ころ、ころ。
弱弱しく蹴りだされた石は道を逸れ、公園のそばの側溝の中に落ちていった。
申し訳ないことをした。
きっとあの石は、ずっと、あの側溝の中で暮らすのだろう。
きっと誰も気に留めないだろうし、何も問題はないが。
蹴った少女も、蹴ったことを明日には忘れてしまうだろう。
だが、少女はなんだかナイーブだったので。
その石ころの姿を見届ける最後の人物になってやることにした。
◇◇◇
石ころを見届けるためにのそのそと公園に近づいた少女の鼻が、ぴくりと反応する。
先ほど、繁華街で嗅いだものと同じ匂いがする。
不思議なことに、不快感はさほど感じなかった。
石ころよりは興味が魅かれたので近づいてみると、地面にうずくまっている変人がいる。
真横にベンチがあるにもかかわらず地べたに座るとは、相当な変人なのだろう。
少女はやはり、興味がわいた。
「こんばんは~」
「……」
勇気を出して声をかけたのに、返事はない。
やはり変人……いや、夜中にうずくまった男に声をかける少女の方が、よっぽど変人か。
「こんばんは~」
懲りずに声をかけてみる。
だが、やはり反応はない。
さらに近づいてみると、この不思議な男は何やら細切れの紙を握りしめており、さらに泣いていることが分かった。
暗闇の中目を凝らすと、裁断された紙には「出走不可」の文字が書いてあることが読み取れた。
辛うじて、それだけが読み取れた。
「……どうして泣いているのですか?」
少女は気まぐれに、男と会話をすることにした。
……いや、これを会話と呼ぶのには無理があるか。
「…………どうして、泣いているのですか。」
少女は男の隣、ベンチではなく地べたに腰を下ろした。
返答を期待しているわけではなかったが、何となくこうしたほうが良い気がしたのだ。
「……」
「……」
しばしの沈黙の後、誰かが一言呟いた。
「…………大人になれば、分かるよ。」
「……そうですか。」
なぜだろう。
少し、ほんの少しだが、もやもやが晴れた気がした。
「悲しいのですか。」
「……大人になれば、分かるさ。」
「悔しいのですか。」
「……大人になれば、分かる、はずさ。」
「……なんで、ですかねぇ」
「大人になれば、分かるんだ。」
男はそう、自分に言い聞かせているようだった。
やはり、このやり取りを会話と呼ぶには忍びない。
「を、走ってみたかった。」
「……」
「……あなたも、見たかったのですか?」
「……大人になれば、分かるかもね。」
一生に一度のクラシックレース。
なんの定めか、この栗毛の少女はクラシックレースを走ることができない。
その理由をここで語るのは、少し憚られるが。
「……」
「……」
「……」
「……」
春の夜風に吹かれながら、二人はしばし沈黙を噛みしめた。
◇◇◇
「……えいっ。」
そんな沈黙を破ったのは、やはり栗毛の少女だった。
となりにいる男から漂う酒の匂いをものともせず、少女は距離を詰めた。
「……やめなよ。」
「やめません。」
「……そっか。」
「あ、私がなんでこんなことをしているか分かったら、やめてあげてもいいですよ~」
未だうつむいたままの男と、夜空を見上げる少女。
そのやりとりは、ようやく会話らしくなった。
「……大人な僕には、分からないかな。」
「大人になっても分からないことって、あるんですね。」
「……そう、かもね。」
挑発じみた少女の言を、男はすんなりと受け止めた。
それが、少女の心にさざ波を立てる。
「……”大人になれば分かる”……のではなかったのですか?」
「……」
男は答えない。
応えない。
「……」
「……」
「……えぃっ。」
「うわっ……」
すると少女は急に、男に抱きついた。
華奢な自身の体で、大きな男の体を覆うように、強く、抱きついた。
「やめなよ。」
「いやです。」
「やめなって。」
「いやなんです。」
「だから、やめ……うわっ!?」
突然、男が素っ頓狂な声を上げる。
それも仕方がない。
男に抱きついていた少女がいきなり、彼を持ち上げたのだから。
「な、なにするんだい?!」
「……」
「ちょっと!?」
混乱する男を見て、少女の溜飲は少し、下がった。
「当ててみてください~」
だが、少女は未だ許さない。
「は?な、なにをさ?」
自分をはぐらかし続けた男を、決して許さない。
「それも、当てるんですよ。」
「そんな、無茶苦茶な……!」
うっすらと涙の跡が残る頬を、少し無理やり持ち上げて、笑う。
「子どもになれば、分かりますよ。」
「な……!?」
まあ、少女は自分のことを子どもだとは全く思っていなかったが。
子どもらしく振舞った。
いや、振る舞うことにした。