明日、明後日も更新するかもしれません。
需要がなくても垂れ流させていただきます。
「私の髪、触ってみませんか?」
◇◇◇
日本の夏というものは、とかく蒸し暑い。
ねっとりと肌にまとわりつき、じんわりと汗をにじませる。
自分の周囲にだけ、不快な空気の波が渦巻いているようだ。
男は、そんなことを考えていた。
「あまりにも、暑いな……」
少しでも気を抜けば、このシャツを脱ぎ捨てたくなってしまう。
心なしか、背筋も悪くなっている気がする。
座っているだけでもこのザマ。
「よくやる……」
窓をのぞくと、トレーニングを行っているウマ娘の影がちらつく。
熱心なその姿には、尊敬を通り越してもはや一抹の呆れすら覚えるほどだ。
「こんな暑さの中トレーニングをしたら、冗談抜きに死んじゃうよね……」
少し先のテーブルに置かれたリモコンを取りに行くだけでも億劫だ。
リモコンを手に取り、設定温度を26℃へ変更。
節電のためエアコンの設定温度は27℃にするよう職員会議で通達されたが、今回ばかりは見逃してほしい。
ぴっ、ぴぴっ。
がちゃり。
「……あら、室温は27℃じゃなくてよろしいのですか?」
リモコンの電子音に呼応するかのように扉が開く。
入室してきた彼女は一直線にソファへと向かわず、わざわざ自分の手元にある26℃を覗き込んできた。
「はて、なんのことやら……」
ばつが悪くなり、とっさにリモコンを戻してしまう。
「うふふ、悪いトレーナーさんですね~」
「……室温が下がったら戻すよ~」
くすくすと笑いながらも、それ以上の追究はしてこないのは彼女の優しさだろうか。
……それとも、彼女もまた暑いと感じている?
ふと気になり、いつの間にかソファに腰かけて読書を再開した栗毛の少女に目を遣る。
すらりと脚を伸ばし、牡丹のように優雅な彼女が暑がる様子はみられない。
なんせ、”心頭滅却すれば火もまた涼し”を地で行くような子だ。
「……」
しばらくの間、そうして彼女を見つめていたからだろうか。
「どうかなさいましたか?」
そんな風に、グラスワンダーは尋ねてきた。
まあ、穴が開くほど見つめられたらそう尋ねたくもなろう。
「いや、グラスはいつも涼しげだなーと思ってさ。」
男は自分が立ちっぱなしであることを漸く思い出し、彼女の隣に腰を掛ける。
「あら、私だって暑さくらい感じますよ~」
「本当?」
「ええ、本当ですとも。」
しゃらりという、ページをめくる音が耳に心地よい。
彼女が動かした手が微かな風を生み、産毛がそれを感じ取る。
それにしても。
ふむ。
彼女も、暑さを感じるんだな。
そんなバカげたことを考えてしまうほどに、彼女は泰然としている。
まじまじと彼女を見つめても、そんな素振りは一切見せないというのにーー
「……っ!!」
……いけないものを見てしまった気がして、つい目を逸らしてしまった。
弁解をするわけではない。
というか、何も悪いことをしていないのだから、弁解をする必要さえない。
ただ。
ただ、自分は、何の気なしに彼女の肩口から首筋へ視線を向けただけだ。
ただ、それだけ。
だから。
だから、彼女の少し汗ばんだうなじに、美しく長いビロードのような亜麻色がはりついていた様を。
そんな様を。
扇情的と思ってしまったわけなんて、決してないのだ。
「……ふぅーーー」
落ち着け。
落ち着け、自分。
なんてことはない。
となりに座っているのは、教え子の愛バ。
……ずり。
今、少し彼女と距離をとったことも、他意はない。
ただ、近すぎると余計暑いかな、と。
そう思っただけだ。
「……」
距離をとり。
落ち着いて。
気取られぬように、彼女の方をちらりと向くと。
「うわっ!!」
目が、あった。
彼女の透き通る青い双眸が、此方をまっすぐに射貫いていた。
「ど、どうしたんだい、グラス。」
思わず、しどろもどろになってしまう。
落ち着け。
自分には幾分の非もない。
「……」
「……」
「どう、したのかな。」
「……」
彼女は尚も、此方を見つめている。
ここで目線を逸らしたら、自分は何かとんでもない悪事を働いたと認めてしまうようで、目を離せなかった。
「……」
「……」
改めてみると、恐ろしいくらいに整った顔立ちだ。
長くのびたまつ毛、通った鼻筋、ぱっちりとした目。
そんな、造り物と言われても信じてしまいそうなくらい整った顔が無表情でまっすぐにこちらを見てくるものだから。
これは汗なのか冷や汗なのか。
自分は今暑いのか寒いのか。
男はそんなことも、分からなくなってしまっていた。
ふと、気付く。
そんな無機質な表情をとる顔にも、うっすらと汗がにじんでいることに。
冷房のついていない廊下から戻ったばかりだからなのだろうか。
ともかく、男は目の前の彼女がちゃんと生きていることを改めて認識できた。
ずり……。
「!」
またバカなことを考えていると、少女は男がとったはずの距離を詰めてきた。
ふわりと運ばれてきた、彼女の匂い。
甘酸っぱい匂いだ。
彼女自身の匂いなのか、制汗剤の匂いなのか、あるいは、それらが混ざり合った匂いなのか。
だめだ。
鼻に直接訴えかけてくるこの甘い匂いが、先ほどの光景を否が応でも思い出させる。
「……グラスも暑さを感じるんだもんね。」
「……」
自分は何を言っているのだろうか。
「ははは……まあ、そんなの当たり前か……」
「……」
思考がまとまらず、とりあえずの時間を稼ぐために浮かんだ言葉を紡ぐ。
なぜ時間を稼がねばならぬかは、わからないが……
「……グラスは髪も長いし、余計に暑さを感じるかもね……」
そこまで言ってしまったとき、男は謎の寒気を感じた。
「……では、トレーナーさん。」
「私の髪を、結んでいただけませんか?」
「……いえ。」
私の髪、触ってみませんか?
少女はなぜか、笑っている。
◇◇◇
”どうしてこんなことに”
そう、思わずにはいられない。
やはりというか、髪が長いと首元が蒸れて暑いらしい。
ソファに腰かけた彼女の後ろに立ち尽くし、男は茫然としていた。
三つ編みで、お願いします♪
彼女は確かに、そう言った。
これまで異性の髪を結んだどころか触ったことすらない男にとって、三つ編みとはもはや未知の文化とも呼べるものだった。
「じゃあ、触るよ……?」
「お願いします~」
やけに気分よさそうな愛バの様子を訝しむことすらできないほど、男は切羽詰まっていた。
スマートフォンの画面に映る”三つ編みの結び方”を睨みつけ、勇気を出して亜麻色の髪に触れーー
「っ!!」
瞬間、むせかえるほどの少女の匂いが飛び込んできた。
先ほどソファで距離を詰められた時とは比べ物にならないほどの密度で、”グラスワンダー”が押し寄せる。
「……ぅ」
眩暈を起こしそうになるほど濃密な匂いに耐え、男は陶磁器でも触るように慎重に髪を持ち上げた。
「私、男性の方に髪を結ってもらうのは初めてです~♪」
「僕だって、女性の髪を触るのは初めてだよ……」
男の気持ちを知ってか知らずか、少女は楽し気に話しかけてくる。
「……」
髪の束を持ち上げてたどたどしく編み込むたびに、彼女の白いうなじがちらちらと見える。
「……」
”自分は今、髪を結ぶことに集中しているのだ”
そう己に言い聞かせ、男は無心で髪をいじる。
だが、そんな男の集中かき乱すように少女は話しかけ続ける。
「異性に髪を結んでもらうなんて、まるで映画や小説の出来事みたいです~」
「……」
「どきどき、しますね。」
「……」
「三つ編みって、なんだか日本らしくないですか?」
「……」
男は返事をしない。
それとも、返事をしている余裕などないのか。
「……」
「……」
「……そういえば。」
「……」
「ウマ娘の嗅覚って、人のそれよりも優れているんですよね~」
「……」
「トレーナーさんに髪を結んでもらったりなんかしたら、トレーナーさんの匂いがべったりとついてしまって、落ちなくなってしまうかもしれませんね~♪」
「!」
男は黙って、髪を結び続けた。
心の中では「ごめん」とか、「もう少し待って」とか、声にならない声がやかましく鳴り響いていたが、とにかく手を動かし続けた。
誰に謝罪しているかなんて、そんなのは誰にも分らない。
「あ、でも焦らなくて大丈夫ですよ。」
「……」
「三つ編みは慣れていないと、時間がかかるでしょうから……」
「……」
今日は暑いから。
男の額には、玉のような汗が浮かんでいた。
………………
…………
……
「!」
できた。
「あら?」
できた、できた!!
「……できた!」
どれくらいの時間髪を結んでいたかはわからないが、男はやり遂げた。
巧拙など考えている余裕はない。
男にとって重要なのは、”三つ編みを完成させた”という事実だけだった。
「もう終わってしまったのですね~」
発言とは裏腹に、少女は然程残念そうではない。
「……時間がかかっちゃったね。お疲れさま、グラス。」
自分がどれほどの間、この亜麻色の束をこねくり回していたかなど見当もつかないが、男はとりあえずそう言った。
「とんでもありません。むしろもっと、こうしていたかったくらいです。……ありがとうございました、トレーナーさん。」
「どういたしまして。」
男も、やっと落ち着きを取り戻していた。
なぜこんなことになったかは思い出せないが、とにかくやり遂げた。
まるで、何かの犯罪でも犯してしまったようだ。
鷲掴みにされた心臓は早鐘を打ち、頭には冷静さなんてものはこれっぽっちも残っていやしない。
下手人の指紋は被害者の髪の毛にべったりと残っているため言い逃れはできないが、そんなことはもはや関係ない。
今は、動揺を隠しきって任務を完遂した自分を手放しで褒めたい。
「ええ、本当に、ありがとうございました。トレーナーさん。……あ、そうだーー」
落ち着きを取り戻してきたからか、体が暑さを再び認識してきたようだ。
先ほどよりも汗をかいている。
なにせ、今日も今日とて途方もなく暑いーー
「ーー髪を結ぶと、うなじ、よく見えますよね?」
「ーーぁ」
ーー暑い。
ーー途方もなく、暑い、から。
ああ。
彼女が先ほどよりも汗ばみ、頬を紅潮させているのもきっと、暑さのせいだから。
「せっかくなので、スペちゃんたちにも自慢してきます♪」
がちゃり
ばたん。
「……」
扉が閉められる。
……最初から、分かっていたのだろうか。
「”悪いトレーナーさん”……か。」
リモコンをいじっていた時、彼女に掛けられた言葉を思い出す。
気づかぬうちに、体は”どさり”と力なくソファに倒れこんでいた。
「……」
少女の痕跡がべったり残ったままの手を、リモコンへと伸ばす。
ぴ、ぴっ、ぴぴぴっ。
「まったく、悪いのはどっちだよ……」
そんな呟きは、強められた冷房の風によってかき消されてしまった。