「夕日がきれいですね~」
ある日のトレーニング後。
夕日が照らすオレンジ色のターフの上で私はトレーナーさんにそう告げました。
もちろん、平静を保って。
私の気持ちは太陽よりも燃え上がって、心臓はどこぞの委員長よりもバクバクと言っていますが、他意はありません。
だって、トレーニング後なのですから。
だから顔が赤くても、きっとそれはトレーニングのせいなのです。
「…そうだねぇ。いつまでも、沈まなければいいのにねぇ。」
彼は私に言われて夕日を見やると、のんびりとした口調でそう言いました。
”安心してください、沈むことなどあり得ませんよ。”
もちろんそんなことは言いません。
今はただ、のほほんと夕日を見つめる彼とこの気持ちの間で揺蕩っているだけでよいのです。
「いつまでも見ていたいくらいにきれいだね。」
ふいにこちらを見てそんなことをのたまう彼にどきりとします。
茜色をバックに、いつにもまして魅力的な彼。
夕日を受けてきらりと光るその瞳は、私の気持ちなぞすべて見透かされているのではないかと錯覚してしまいそうです。
先ほどまでは落ち着いていた――お茶を点てるときは微動だにしない――この耳がいきなり、ぴんと立ってしまったのを自覚しました。
…落ち着きましょう。
息を吸って、吐いて。
大丈夫、この気持ちはまだ大切に秘められているのですから…
とはいっても、心臓に悪いのに変わりはありませんので。
私はぶんぶんと揺れるしっぽを無視してとりあえず、”ええ、そうですね。”とだけ返しました。
◇◇◇
このいけない、背徳的な行為に手を染めたのはいつからでしたか。
きっかけは間違いなくあの日です。
彼とゲームセンターへ遊びに行ったあの日。
二人とも思ったよりも熱中してしまい、帰り道はもう月光に照らされていました。
薄明るいぼんやりとした夜道、先ほどのゲームの感想を話ながらゆっくりと家路についていた時急に、彼が言い放ったのです。
「あ!みてみてグラス!月がとってもきれいだよ!!」
ええ、それはもちろん驚きましたとも。
私だって少女の端くれ、その言葉がどんな意味を持つかぐらい知っています。
しかしトレーナーさんを見ると他意はなく、気づいたからつい言ってしまったような感じです。
彼もまた”もののあはれ”を理解する方ですから、風情のある光景を見て居ても立っても居られなくなったのでしょう。
その気持ちを共有してくださるのはとっても嬉しいです。
ですが、一瞬期待してしまった私の、月のうさぎよりも高く跳ねたこの気持ちを返してほしいとも思います。
邪な気持ちを振り払うように大きくしっぽを振り、こほんと咳ばらいを一つ。
「…トレーナーさん、確かにとっても美しい月ですが、その、表現には気を付けたほうがよろしいかと…」
「え?あ、ああ!?!?!えーと、ぐらす、これはその、なんというか…」
「ええ、大丈夫ですよ。他の方には言わないようにしてくださいね。」
「!…はい、気を付けます…」
今思い返すと私もなかなか際どいことを言っていますが、それ以上に彼があたふたしていたので問題ありません。
まあ、あんなにも取り乱す彼を見たのは初めてだったので、一方的にときめかされた意趣返しはできたのですが。
それ以上に私の胸をついたことがありました。
それは一種の優越感というか満足感というか、武者震いというかスリルというか。
自分の秘めた想いを悟らせないように伝えることに形容しがたい痺れを感じてしまったのです。
これまでは正直、危険を冒してまでスリルを味わおうとする方々の気持ちがよくわからなかったのですが、あの日私もその虜になってしまったのです。
その日の夜は結局興奮冷めやらず心が跳ね回り、薄明に白む月を眺めることになってしまいました。
その日以降。
私は事あるごとにその”遊び”に彼を付き合わせました。
まあその実、私が勝手に藪をつついているだけなのですが。
学園のトレーナーは鈍い方――某ウマドルのトレーナーさんのように――が多いですが、彼はそこまで鈍いというわけではありませんので、いつ蛇が出てくるかはわかりません。
告白の婉曲なんて「月がきれいですね」くらいしか知らないであろう彼ですが、調べればすぐに出てきてしまうことなのでちょっとしたことでばれてしまうかもしれません。
そしてばれてしまえば、この関係にもひびが入ってしまうでしょう。
ですが、そのスリルとこの気持ちを彼にぶつけられるという魅力には勝つことができず。
雨でトレーニングができなくなった日には
”雨がやみませんね。”と。
虹が見えた日には
”虹がきれいですね。”と。
ぽかぽかと陽気な午後には
”暖かいですね。”と。
太陽照り付ける砂浜の夏合宿では
”海がきれいですね。”と。
星降る夜には
”星がきれいですね。”と。
木枯らしが吹く街角では
”今日は少し肌寒いですね。”と。
トレーニングが明日もある日は
”明日は晴れますか。”と。
とまあこんな感じでとにかく、彼に秘めた思いをぶつけ続けていたのです。
そのたびに私は”ばれやしないか”というハラハラ、”言ってしまった”というドキドキを味わっていました。
もちろん、意識せずに聞けばただの状況説明や疑問ですから。
それにトレーナーさんは私がそういったことを言ってものほほんと、「そうだねぇ。」とか、「どうだろうねぇ。」と返すだけでしたから。
私はきっと、エスカレートしていったのでしょう。
ええ、スリルというものはだんだんと強度を上げないと感じなくなってゆくものですから。
それはトレーニングというよりはむしろ、依存性の高い薬物のようでした。
ですから私は、私が気持ちを真に伝える日が先か、それとも彼が私の気持ちに気づいてしまうのが先かというチキンレースを走っていたのです。
◇◇◇
そんな日々が続いたある日でした。
その日、私の機嫌はちょっぴり、ほんのちょっぴり悪かったのです。
それはトレーナーさんが誰ととは言いませんが温泉の下見に行ったり朝帰りしたり、他のウマ娘に現を抜かしていたからかもしれませんし、そうでないかもしれません。
とにかく、私はとっても機嫌が悪かったのです。
ですから、そのストレスを発散するために。
私がいつもより過激なチャレンジに挑んでも。
それは、仕方のないことだったのです。
あれはトレーニングが終わって、トレーナー室で彼と過ごしている時でした。
その梅雨明けの日は微妙に曇っていて、夕日がきれいとも暖かいとも寒いともいえない微妙な状況でした。
ですから、私はいつものルーチンをすることができずに余計むくれていました。
いつもであればトレーニング後は仕事する彼と他愛のないことを話しながら待ち、一緒に帰るのが私たちの日常だったのですが。
その日の私はどうやって彼にこのモヤモヤをぶつけてやろうかと考えていたところでしたから、話すわけでもなく何かをするでもなくじっと、彼がパソコンをたたく音に耳を傾けていました。
彼はそんな私を不思議がっていましたが、悩みが深刻でないことを悟ったのでしょう。
私に理由を聞かずいつも通りにパソコンをたたき、外が暗くなってきたころに「そろそろ帰ろうか。」と声をかけたのです。
もちろん、彼が気付いたように私の悩みは深刻ではありませんから、彼の対応は間違いでないでしょう。
しかし乙女心とは複雑怪奇で、そうわかっていても声をかけてくれないのは不満なのです。
ですから私は、どうにかして帰り道に彼をぎゃふんと言わせようと躍起でした。
◇◇◇
帰り道。
既に梅雨は明けていて空気はさっぱりと。
それでいて涼しい風が吹き抜ける、とても過ごしやすい夜でした。
夕方立ち込めていた雲はすっかり消え去って。
頭上には、はち切れんばかりにまんまるなお月様。
そう、とってもきれいな、お月様。
「…」
にやりとした私は、やめておけばいいのに、彼に直球勝負を挑むことを選択したのです。
◇◇◇
「トレーナーさん~。」
「ん?なんだい、グラス?」
「今日は、とっても、と~っても月がきれいですね~。」
やった。
私はその時、勝利を確信していました。
だってあの日、あんなにも慌てふためいていた彼ですから。
きっと今日も盛大にわたわたしてくれるのでしょう。
そしたら私は、”何を想像していらっしゃるのですか~。私はただ、月がきれいと言っただけですのに~”とからかってやるのだ。
そうすればこの溜まりに溜まった鬱憤も、今日の夜空のようにすっきり晴れるだろう。
そう、思っていたのです。
「グラス、それって…」
「あら~トレーナーさん、一体何を…」
「だったら僕、死んでもいいかな。」
「…え?」
「ん?だって、先に仕掛けたのはグラスのほうだろう?それに、あの日の雨はやまないでほしかったし、あの虹を君と見られたのは奇跡だったね。」
「え?…あ、あの…」
「あと、あの日は君と一緒だから確かに暖かったし、ずっと前からきれいだったあの海を君と一緒に泳ぎたかった。」
「と、トレーナーさん!その…!」
「それにあの日見た夜空に浮かぶ星の名を僕は知っていたし、寒いあの日は君の手のぬくもりが恋しかったよ。ちなみに、この先もずっと晴れで、夜は月がきれいらしいよ。」
「あ…あぅ……も、もうやめて…」
「それに今、僕はとっても幸せかな。」
「うぅ…あぅ……」
まさかの反撃を食らった私は、顔を真っ赤にしてごにょごにょつぶやくことしかできませんでした。
それに…
いままで私がばれていないと思ったあの遊び。
それは全部、彼に筒抜けだったようです…。
私は羞恥のあまり顔を手で覆い、しゃがみこみしっぽで自らの体をくるりと巻き込みました。
きっと今、私の顔は隠し切れないほど赤く、栗色の耳も真っ赤に染められているのでしょう。
そして今きっと、彼は満面の笑みで私を眺めているのでしょう。
「も、もうやめてください…いっそターフで散らせてください…」
そう懇願しますが。
「だめだよグラス。ほら、隠してないでその顔を見せて。」
「やっ…ゃだ…み、見ないでくださいぃ…!」
彼は私の手を引き、多少強引に私を立たせました。
もちろんそんな状況で彼を直視できるはずもなく。
私は遮るものがなくなった顔を下に向けるほかありませんでした。
「うん。やっぱりグラスと見る月が一番だね!」
彼は屈託なく言うと、いまだしり込みする私の手を繋いで歩き始めました。
もちろん、力は私の方が上です。
でも、なぜか引かれるこの手に逆らうことはできませんでした。
◇◇◇
短い短い帰り道はあっという間で。
だから、学生寮とトレーナー寮の分かれ道に来ても、私の顔の赤みは引けていませんでした。
「じゃあグラス、楽しい夜をありがとう。おやすみ。」
そういうと、彼はいつも通り右へ歩みを進めようとします。
でも。
「グラス…?」
そのですね。
その時私はとっても寒くて。
だから、彼の手のぬくもりを離すことができなくて。
だから、その。
「トレーナーさん…今わたし、とっても寒いんです。温めて、くれませんか?」
…私は真っ赤な顔で、彼よりも熱を持った手で彼を引きとめました。
「…」
私はぎゅっと目をつぶっていました。
だからか、いつもよりずっとよく周囲の音が聞こえます。
ただ、聞こえてくるのは自分の鼓動と、彼の息遣いだけでした。
彼は何も言いませんでしたが、私の手を離すことはしませんでした。
ですから、二つの影は右に消えていくわけで。
その後のことは何も言いませんが、ただ一つ言えるのは。
彼と一緒なら。
燃え尽きたように真っ白な夜明けの月もまた、きれいだと思えるということです。