23.0と、23.5。
この数字を聞いてピンときた人はきっと、私のよき友に違いない。
「もう一周、走ってきますね。」
「うん。分かった。」
彼女の足は、決して大きくないだろう。
だがどうだ。
緑の芝へ突き刺さる脚。シューズは沈み込んでいるようにすら見える。
なんと、力強い走りなのだろう。
ターフを駆ける彼女との距離は、かなり離れている。
にもかかわらず、 どっ どっ どっ という音が体を震わせる。
そういえば以前、彼女と和太鼓の演奏を聞きに行ったっけ。
あの演奏は素晴らしかった。
自分の体の芯を直接揺らされているような、とてつもない衝撃を受けたものだ。
「……」
それと同じ衝撃を、今まさに感じている。
彼女が芝を踏みしめる音が、体を殴りつけている。
自分は決して、被虐趣味などではないと前置きしておこう。
今自分は、あの芝をうらやましく感じた。
彼女が自分の全体重を乗せて踏み抜き、鈍い音をたててちぎれたあの芝。
彼女の足音を最も近くで感じながら息を引き取るのも、存外悪くないかもしれない。
繰り返すが、自分に被虐趣味はない。
「はぁっ…………どう、……でしたか。」
乱れた息を整え、袖で汗を拭いながら尋ねられた。
いつの間にかあの音は止み、彼女のつま先はこちらを向いている。
「ん……あぁ……」
周囲では何人ものウマ娘がトレーニングをしているらしい。
彼女の足音が聞こえなくなった今、他のウマ娘の足音がやけに大きく感じる。
正直、先ほどまでは全くといっていいほど聞こえていなかった。
「……君の足音しか、聞こえなかったよ。」
自然と、そんな言葉を発していたようだ。
「……えっ?」
「あっ。」
”口をついて出る”
そんな表現が、まさにふさわしかった。
自分は今、何と言ったのか。
「え……?あ、あの、トレーナさん?いま、なんと……?」
ほら。
予想外の返答に、彼女も困ってしまっているではないか。
同意を求めるように周囲を見回すと、先ほどまではトレーニングに励んでいたウマ娘たちが目を丸くしてこちらを見ている。
ウマ娘は、耳がよいから。
「……」
「……」
大勢に見守られているこの状況は、なんだかばつが悪く感じる。
何も悪いことなど、していないのに。
「……あ~……君の足音しか聞こえなかったと、そう、言ったね。」
「そ、その心は……?」
「……君に見とれていた?」
すると、彼女の顔はゆっくりと赤くなっていった。
まるで紅葉みたい。
今度、彼女と一緒にもみじ狩りにでも行こうかしら。
「も、もう一周走ってきます!!」
「あ……いってらっしゃい。」
周囲の”きゃーっ!”という歓声に応えるべく、彼女は走り出した。
「……うん。」
やはり、彼女の足音しか聞こえない。
黄色い歓声を向けられるのはどうもむず痒いから、ちょうどよい。
◇◇◇
23.0と、23.5。
この数字を聞いてピンときた人はきっと、私と酒を飲もう。
「きれいですね~」
「うん。やっぱり、来てよかったね。」
彼女の足音は決して大きくない。
どかどかと下品な足音を立てることは無く、いつも淑やかに歩いている。
足下に広がる紅葉をしゃりしゃりと踏む足は、なんだかちょっと申し訳なさそうだった。
なんと、優しい一歩なのだろう。
隣を歩く彼女との距離はいつもより少し近く、手と手が触れてもおかしくはない。
けれど、自分の鼓動はいつもと同じ、どっどっどっというリズムを刻んでいる。
そういえば以前、廊下で彼女が転びそうになったことがあったっけ。
あれはひやりとした。
剛健とは言えない自分でも、彼女の華奢な体を支えることができてよかった。
「わぁ……」
そのときと同じ胸の高鳴りを、たった今感じた。
感嘆の声を漏らした彼女の声が、体をくすぐる。
自分は決して、少女愛の趣味はないと前置きしておこう。
今自分は、彼女の姿にときめいた。
真っ赤に燃える紅葉を背景に、手を伸ばす彼女。
歩を進める彼女が落ち葉を踏む音がきっと、この胸の高鳴りをかき消してくれるだろう。
繰り返すが、自分に少女愛の趣味はない。
「トレーナーさん?」
青い目がこちらを見上げ、不思議そうに尋ねてきた。
いつの間にか彼女は紅葉ではなく自分を見つめ、背伸びした彼女の踵は少し浮いていた。
「ん……あぁ……」
周囲に人はなく、こちらを見るのは顔を真っ赤にした木々ばかり。
彼女が歩みを止めた今、自分の鼓動がやけに大きく感じる。
耳がよいウマ娘には、この心音も筒抜けなのかもしれない。
「……君の姿が、あまりに美しかったから。」
あえて、そんな言葉を発してみた。
「……えっ?」
”顔から火が出る”
そんな表現が、まさにふさわしかった。
自分の言葉が、新たな紅葉を生んだのだ。
「あ、あのっ。と、トレーナーさん?いま、なんと……?」
よし。
予想外の一言に、彼女は動揺している。
仲間が増えたぞ、と周囲の木々に目配せすると、先ほどまで静かだった木々はしゃらしゃらと内緒話をしている。
秋風は、気持ちがいいから。
「……」
「……」
周囲に人がいなくてよかった。
きっと今の自分は、とんでもなく悪いことをしていたから。
「聞き間違いではないよ。君の姿があまりに美しいと、そう言ったんだ。」
すると、既に真っ赤な彼女の顔はさらに紅くなっていった。
まるで信号機みたい。
こんな赤信号があれば、待ち時間を鬱陶しく感じることなどないだろうに。
「わ、わたし、ちょっと走ってきます!」
「おっ……ここはターフじゃないし、危ないよ。」
彼女が走り出すより前に、赤くなった手を握りしめた。
風に吹かれた木々たちが、ざわざわ騒いでいる。
「……うん。」
やはり、彼女の手はぽかぽかだ。
自分も彼女も暑がりだから、涼しい秋風はちょうどよい。
◇◇◇
23.0と、23.5。
この数字を聞いてピンときた人はきっと、私と語らおう。
「すごい人出ですね。」
「さすが日曜日といったところだね。」
彼女の快足が、人混みで発揮されることはない。
レース中の力強い末脚を封印し、周囲の足を踏んでしまわぬよう、慎重に歩いている。
だが、彼女のパンプスから聞こえるのは慎重さだけではない。
足下に広がるレンガ調のタイルを踏む足はなんだか楽しげで、こつこつと鳴いている。
なんと、小気味よい歩調なのだろう
人の圧は想像以上で、隣を歩く彼女の肩はぴったりとくっついている。
彼女と出かけるときはいつもこうなので、さほど気にならない。
そういえば、以前お出かけしたときは一緒にカラオケへ行ったっけ。
あの一日を、鮮明に覚えている。
普段ははたくさんの観客に向けられている歌声を独り占めしたことに、一人のファンとしてちょっぴり罪悪感を覚えたものだった。
「今日は、どこへ行きましょうか?」
そんな罪悪感を、今日も感じることになりそうだ。
自分だけに向けられた、楽しげで、うれしそうな声が体を駆け巡る。
自分には決して、悪気がない。
そう、前置きしておこう。
今日自分は、彼女を独占するのだ。
強く、淑やかで、凛とした大和撫子。
多くのファンを抱える彼女を独占することへ罪悪感はあれど、それを軽く凌駕する喜びもまた、同時に感じる。
繰り返すが、自分に悪気はない。
「もう、聞いているのですか?」
少し咎めるような口調で、彼女は尋ねてきた。
いつの間にか信号が立ちふさがり、一回り小さな足は自分の足と並んでいた。
「ん……あぁ……」
周囲の人は信号を待つ時間すら惜しんで、手元の画面を見つめている。
足止めを食らった彼女が待っているのはどうやら、自分の返答らしい。
騒がしい街の中で、彼女の耳は自分の言葉を聞こうと集中している。
「……靴でも、見に行くかい?」
どうしても、その言葉をかけたかった。
「靴、ですか?」
”鳩が豆鉄砲を食ったよう”
そんな表現が、まさにふさわしかった。
きょとんとした彼女の表情が、いやに愛らしい。
「シューズは、先日購入しましたよ……?」
うん。
予想外の提案に、彼女は不思議そうだ。
周囲を見やると、人々は再び歩み始めた。
手元ばかり見ていると、青くなった信号にすら気づかないから。
「君に贈りたいんだ。シューズではなく、普段使いの靴でもいい。日ごろ頑張っている愛バを、少しは甘やかしたいんだ。」
「……学生と教育者が、そういうことをするものではありませんよ。」
少し照れくさそうに頬を赤くしながら、彼女は言った。
雑踏の中で自分の耳が感じるのは彼女の声。
それと、彼女の軽やかな足音だけだった。
「……うれしいです。」
「どういたしまして。」
「でもそれは、また次の機会に。」
「それは残念。」
「いつも頂いてばかりでは、私も納得できませんから。」
周囲よりも少し速度を上げた彼女に置いていかれないよう、少し大きく足を踏み出す。
「……うん。」
人混みにあわせていると、きっと日が暮れてしまう。
少し速足ぐらいが、彼女と過ごす時間にはちょうどよい。
◇◇◇
23.0と、23.5。
この数字を聞いてピンとくる人はもしかすると、少ないのかもしれない。
しかし、23.0と、23.5。
そんな数字の靴を持ち、帰路に就く。
今も昔も、私の耳に届く足音は23.0と23.5。
決して大きくはないその足も、足音も。
「ただいま。」
開けた我が家のドアの向こう。
ぺたぺたという小さな足音が、近づいてくる。
「おかえりなさい。」
きっとそれは、23.0と、23.5。
いつか贈りそびれた靴が似合う、かわいらしい足。