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最近、リップクリームを買ったんです。
普段の使っているものよりちょっぴり高くて、大人びていて。
みんなとお買い物に行ったときに入ったおしゃれな化粧品店で、買ったんです。
11月になって急に空気が乾燥してきたので、買ったんです。
でも、使い始めるタイミングを逸してしまって……
気づけばもう、12月も半ばですね。
……共感してくれると、とてもうれしいです。
ちょっぴり高級ですし……何より、みんなで買ったおそろいのものですから。
なんだか飾っておきたくなってしまって……
ふふ。
でも、エルはもう1/3くらい使っていましたっけ。
はやすぎ、ですよね。
「……な~んて。」
「独り言を言ったところで、誰が聞いているわけでもないですが~。」
「……ねぇ、トレーナーさん?」
昼下がりのトレーナー室では、彼がゆっくりと船をこいでいました。
激務のトレーナー業。
どれほど疲れているのでしょうか。
そんなものは、指導を受けている私が一番、分かっています。
「たづなさん、呼んじゃいますよ~?」
それを分かっていてもなお、ちょっぴり意地悪をしたくなってしまうのはなぜでしょう?
ぽしょぽしょ囁くと、彼はこくりこくりと、首を縦に振って返してくれました。
「ふふふっ。呼んでしまってもいいんですか~?」
もちろん、彼に意識がないことくらい分かっています。
そんな彼に話しかけ続ける私は、悪い子なのでしょうか?
……いえ、そんなことはないはずです。
だってほら。
彼はこんなにも幸せそうな寝顔を見せてくれているのですから。
「……」
どんな夢を、見ているのでしょう。
今、貴方の隣にいる人を。
その人の夢を見てくれていたら、うれしい。
けれど。
「最近、仲が良すぎではありませんか~?」
脳裏にちらつくのは、緑色の影。
呼ぶと言ったのは自分だけれども。
彼女が来るのは、ちょっぴり、嫌かもしれない。
「……拗ねちゃいますよ~?」
でも、彼女が来て困るのは私だけではないから。
その点では、彼とおそろい。
職務中に寝落ちしてしまった悪いトレーナーさんが叱られているのを見たとて、この胸のモヤモヤは晴れないでしょう。
「もしも~し?」
……。
起き、ませんね。
起きないで、ください、ね?
あと、ほんの少しだけで、構いませんから。
「このリップの封を切るべきは、今が相応しいと思いませんか?」
ぴりっ。
きゅぽっ。
……こんなくだらない音で、彼が起きませんように。
「……唇のケアって、大切ですよ。女性って、意外と見てるんですから。」
彼の少しがさつく唇を、人差し指でなぞる。
「……」
なけなしの潤いを、私の指がかっさらってしまったらしい。
親指と人差し指の腹をこすり合わせ、彼のうるおいを馴染ませてみる。
「……いい子ですから。こっち、向いてくださいね。」
………………
…………
……
がたん、という衝撃で目を覚ます。
「ぁ……ん……?」
どうやら、寝落ちしてしまっていたらしい。
「……”ジャーキング”というらしいですよ~」
やけに聞き馴染みのある声が、寝起きの体に溶け込んでゆく。
「……あ……ぐらす。」
「はい。貴方の担当、グラスワンダーですよ。おはようございます、ねぼすけなトレーナーさん♪」
「……おはよう…………!!ごめん、グラス!?今何時!?!?」
徐々に覚醒してきた意識が、一気に呼び覚まされる。
まるで、冷や水をぶっかけられたみたいだ。
「そんなに慌てないでください。大丈夫、私も今来たところですから。」
時計を見ると、トレーニングの開始までもう少しの猶予があった。
「……焦ったぁ~。」
大げさに首を振る自分を見て、からから笑う担当。
「随分、お疲れのようですね。」
「大したことはないよ…………たづなさんには、内緒で、ね?」
「そんなことを心配なさっていたのですか~わかりました。私とトレーナーさんの秘密、ですね~♪」
いっそう笑いを深める担当を見て、安堵のため息が出る。
よかった。
どうやら、怒ってはいないらしい。
彼女を怒らせると、けっこう怖かったりするから。
「ところで。」
「?」
「トレーナーさんは眠るとき、何を着ているんですか?」
「???」
ところで。
話題を変えるときに使う言葉。
だとしても、脈絡がなさすぎる気がする。
「えっと、ごめんよグラス。何かのクイズかな?」
そう返しても、栗毛の彼女はにこにことするばかり。
「もしかして、怒ってる?」
「いいえ、ちっとも。」
そう聞きはしたものの、彼女から怒気を感じることはできない
すると、ますますわからない。
「何かの言葉遊びかな?」
「さて~?」
「ふむ……?」
寝起きの頭でいっちょ前に考えてみても、彼女の質問に対する答えは浮かんでこなかった。
「ふふっ。すみません。何のことやら、ですよね。」
「申し訳ないが……で、答えは?」
そう尋ねると、彼女は一瞬、逡巡した。
「……シャネルの5番。」
「え?」
ひょっとすると、かのマリリン・モンローの名言だろうか?
……だとしても、よくわからない。
「ふふっ。すみません。私も、何だか寝ぼけてしまっていました~」
「え?うん?」
「では、トレーニングに向かいましょう~♪」
「……分かった。」
釈然としない。
が、彼女がご機嫌なら、それもまたよしとしよう。
……シャネルの5番だなんて、そんなたいそうなものではないけれど。
「……ふふっ。」
今夜身に纏うものは、このリップだけで十分かもしれない。
……いや。
彼との秘密も一緒に着こんだら、師走の夜も温かいに違いない。