男と少女が夏の府中を歩いている。
がやがやとしたの人混みの間隙を縫うように二人はゆく。
肩を並べたその様子は、傍から見ればまるで好い仲のようであると、ショーウインドーに写る自分たちの姿を認めた少女はいっそう満足した。
まあ車道側を歩く男はそんなこと全く思ってもいないし、少女は小柄なので傍から見れば年の離れた兄弟か親子にしか見えないのだが。
ただ、傍から見ても少女が満足気なのは明らかであった。
少女がご機嫌な理由は他にもあった。
実はこのお出かけ、男が少女を誘ったのである。
男と少女はよく週末を共に過ごすような仲であったが、そのおおよそは少女が男を誘ったが故のものだった。
だからこそ、少女は今日のお出かけ――男が自分を誘った事実――に喜ぶ。
別に、男は少女と一緒に過ごすのが嫌なわけではない。
むしろ、その逆といえる。
ただ男は、トレーナーという自らの立場を鑑み、年頃の教え子と週末のプライベートを共に過ごすことに慎重であった。
だが、教え子の方からお願いされれば話はまた別である。
少女はいつも楽しそうに男と過ごしていたし、自惚れでなければお出かけに行くと彼女の調子が上がるように見える。
担当の調子が上がる。トレーナーたる男が週末のプライベートを捨てて少女の誘いに応じるのは当然ともいえた。
行動理念は自らの担当第一。一に担当、二に担当、三四がとんで、五も担当。トレーナーとはそんな人種なのだ。
まあ、そんな打算的な思いだけではない。
先ほども述べたように男は少女と過ごす時間を好んでいたし、それで彼女の調子が上がるのならばまさに一石二鳥であった。
少し話が逸れた。
つまるところ、男が週末に自らの担当と共に過ごすのは何らおかしいことではない(※トレーナー基準)のだが、それはあくまでも担当から誘われた場合においての話だ。
だが、今回は男が少女を誘った。
それはなぜか。
少女がご機嫌な理由はそこにもあった。
ここ最近、少女はいまいち調子が上がらない。
絶不調というわけではないがどことなくパフォーマンスがぎこちないし、何となく気分ものってこない。
人間ウマ娘関わらず、生きていればそんな日々はあるものだが、そこに気付くのが中央のトレーナーだ。
「グラス。えっと…今週末さ、行きつけの店で新しいシューズが入荷されるんだけど、一緒に見に行かない?」
数日様子を見ていた男は、意を決して少女にそう問いかけた。
少女がひどく驚いたのは言うまでもない。
「え…?」
「ああいや、もちろん予定があったらいいし、そういう気分じゃなかったら断ってくれて構わない。って、そんなこと言う方が断りづらいか…」
少女は目をぱちくりとさせながら、苦笑する男を見つめる。
「今週末とは…三日後ということですよね?」
「え?うん。」
「トレーナーさんと一緒に。」
「そうなるね。」
「お出かけを。」
「僭越ながらお誘い申し上げた。」
「なるほど…」
口調こそ落ち着いているが、少女の脳内は割とテンパっていた。
――トレーナーさん
――なにを着ていく?
――不退転。
――それってつまり…そういうことでしょうか?
「…」
口元に手をあて、しっぽを揺らして長考し始めた担当を見て、男は付け加える。
「悩ませてごめんね。一人でも大丈夫だし、先約があるならそっちを…「い、行きます!!」…優先してね…」
すると少女は耳をぴんとさせ、慌てて男の言葉を遮る。
「行きます。」
「無理はしなくていいんだよ?」
「行きます。」
「先約があるなら…」
「絶対に行きます。」
「行きますからね。」
「…」
不退転行きますbotと化した自らの担当を見て、男はつい笑ってしまう。
少女は普段おしとやかで大人びているが、なかなかどうして年相応でかわいらしいところがある。
少女とそこそこに長い間過ごした男からすればあまり珍しくはない光景。
だが、男は少女のこの年相応の愛らしい姿が何べん見ても好きであった。
「……何がおかしいんですか、トレーナーさん。」
「…くふふ。何でもないよ。じゃあ土曜日、九時に寮の前でいいかな?」
「…分かりました。」
笑われていると分かり白い目を向けてきた少女を、男はのらりくらりとかわした。
まあ、少女は内心とても喜んでいるので問題ない。
――というのが、三日前の練習前。
その日から急に調子を上げた少女を見て、男はお出かけに誘った意義を問い直していたが、まあ担当が調子を取り戻したことに比べれば些細な問題であった。
そして数時間前、好調を維持しながら土曜の朝を迎えた担当の調子を取り戻すべく、男は少女とのお出かけを開始したのであった。
他愛もないことを話しながら、二人は歩いていた。
今朝からかなり機嫌がよさそうな少女ではあったが、その時よりもさらに機嫌がよさそうだ。
このままいけば、絶好調で週明けを迎えられるだろう。
男は自分の隣で楽しそうにする担当を見て目尻を下げた。
グラスワンダーにはやはり笑顔が似合う。
そしてその笑顔に、男はいつも元気を貰っていた。
故に。
隣の微笑む少女に目を奪われていた男が前から迫ってくる影に気が付かなかったのは、当たり前といえば当たり前であった。
「わわっ!」
「あいてっ。」
「だ、大丈夫ですか!?二人とも!?」
男とぶつかったウマ娘が歩いていてよかった。
そうでなければ、絶好調な栗毛の少女の調子が急転直下する事態になっていただろう。
「す、すみません!!お店の方を見ながら歩いててぶつかってしまいました!」
「いや、こちらこそ申し訳ない。前方不注意だった。」
さすがに「隣でニコニコしている担当を見ていました。」と言うわけはいかない。
男も自らの不注意を詫びる。
「ほ、本当にごめんなさい!けがとかありませんか!?」
「こちらは大丈夫だよ。そっちも大丈夫?」
「私も大丈夫です。うう、本当にごめんなさい…」
「いやいや、こちらにも非があるんだ。そんなに恐縮しないでくれ。君さえよければ互いに不注意ということで、ここはひとつ。」
「ありがとうございます。……え、というか、あなたはグラスワンダーさん?!わあ…!あ、こ、こんにちは!!」
「ええ、こんにちは。お怪我がなくてよかったです。トレーナーさん、気を付けてくださいね。」
「すまない。」
落ち着いてきて初めて気が付いたのか、ぶつかってきた少女はグラスワンダーを見て驚いている。
「わ、私グラスワンダーさんに憧れていて…!といっても、レースはダメダメなんですが…。」
「ん?君もトレセン生かい?」
「お、お恥ずかしながら一応…」
「んんん…ああ、そうだ!確かひと月ほど前に新バ戦を走っていたよね!確か二着だったけど、いい末脚だったよ!」
「見ていてくださったんですか?感激です!」
「その後、調子はどうだい?」
「あはは…あんまり。トレーナーさんもまだ見つけられていませんし…」
鹿毛の少女は耳をへたらせながら苦笑いする。
男はトレーナーとしての性なのか、目の前にウマ娘がいたらあれこれ聞かずにはいられないようだ。
栗毛の少女は頬に手をあててニコニコしている。
「そっか…あまり気を落とさないでね。ここであったのも何かの縁だ。もし必要だったら、微力ではあるが力になるよ。」
「ほ、ほんとうですか?!」
「ああ。トレーナーになるなんて無責任なことをこの場では言えないけど、アドバイスくらいであれば。」
「ありがとうございます!学園でお見掛けしたら、声をかけさせていただきます!…あ、もうこんな時間。今日は本当にすみませんでした!学園でお会いしたらよろしくお願いします!それではっ!」
「気を付けてね。……お、ふむ……?」
「…」
そういった感じで少し話をした後、鹿毛の少女はあわただしく駆けていった。
男はウマ娘専用レーンへ出て走り去っていく少女の後姿を見て、何やら思案顔である。
――そんな男の様子を見て、栗毛の少女、グラスワンダーはすっと目を細めていた。
グラスワンダーはご機嫌だった。
そう、ご機嫌だった。
ここ数日は、最近の不調が嘘のようであった。
タイムも改善されてきて、充実したトレーニングを積めている。
それがなぜであるかわからないほど、少女は鈍くはなかった。
現金だし、簡単であると自覚もしている。
たかがお出かけに誘われた程度でこんなに舞い上がってしまうなんて。
いや、されどお出かけ。お出かけを笑うものは、お出かけに泣くのである。
先約があると勘違いされて危うく中止になりかけた時は冷や汗をかいたが、少女は確かに男とお出かけする機会を手にした。
それが少女にとっては、たまらなく喜ばしい。
何より少女がうれしかったのは、男が自らをしっかりと見てくれていることが分かったことだ。
自分で少し違和感を感じる程度の不調ではあったが、男はそれに気が付いてくれた。
そして、彼の方からお出かけに誘ってくれた。
正直、お出かけをするかしないかは少女にとってそこまで重要ではない。…いや、とても行きたいし、彼が誘ってくれなければ少女の方から誘う予定ではあったが。
ともかく、少女は男が自分の変化に気づき、それを労わろうとしてくれたことがうれしかったのである。
お出かけもうれしいが、それはあくまで副産物だ。
男と出会ったときもそうだったが、やはり彼は「私」を見てくれている。
少女だって、成人男性が教え子を週末に誘うことが世間一般からどんな目をされるかぐらいは分かる。
にもかかわらず、彼はそれをやってくれたのだ。
やはり彼こそが、「私」の「トレーナー」なのだ。
少女は改めてそれを実感し、上機嫌であった。
上機嫌で、あった。
歩みを進める二人。
少女は相変わらずニコニコしている。
それは変わらない。
だが、男は気付いている。
先ほどまではふんわりと、まるで花が咲くように顔をほころばせていた彼女が、まる貼り付けたような笑顔になっているであろうことを。
能楽の翁面みたいになっているんだろうだなと、男は思った。
「…」
「…」
先ほどとは変わり、二人の肩は並んでいない。
男が少し先を歩き、少女は男の半歩後ろを歩いている。
男がペースを緩めれば少女も緩めるし、立ち止まれば少女も立ち止まる。
どうやっても、この半歩は縮まらなかった。
「…」
「…」
男としてはたまったものではない。
すぐ後ろから感じる圧。
これが普段、レースで驚異的な末脚を誇る彼女の威圧感なのだろうか。
男は、怪物が後ろから追い上げてくる恐怖を身をもって体験した。
蛇ににらまれた蛙の心境とは、おそらくこのようなものなのだろう。
「トレーナーさん。」
そんなことを考えていると、すぐ後ろから声が聞こえる。
聞きなじみのある声だ。
「……何だい。」
「先ほどの方、どうでしたか?」
”どう”とは。
男は言葉を探した。
「…好走が期待できるんじゃないかな…」
男は言葉を濁した。
先ほどまでは意識の外にあった蝉の声が、やけにうるさく感じられる。
この鳴き声は、アブラゼミでいいのだろうか。
「去り際、彼女のトモをご覧になっていたようですが。」
少女は二の矢を放った。
「…」
「ご覧になっていたようですが。」
「…決して、やましい気持ちは…」
「どう、でした。」
「え?」
「彼女のトモは、どうでしたか?」
男は、自分の歩みが少し早くなるのを感じた。
しかし、後ろの気配はぴったりと自分をマークしている。
「どう、でしたか?」
ふと、蝉の鳴き声が止む。
「……なかなか、いいんじゃないかな。」
男は辛うじて、その言葉を吐き出した。
――返事をしてくれたのは、再び鳴き始めた蝉だけであったが。
男と少女は半歩を保ちながら、何の示し合わせもなくトレーナー室へと向かっていた。
先導したはずの男は、なぜ自分が休日にトレーナー室に向かったかわからなかった。
ただ、グラスワンダーがこの半歩を差さず、自分に追従してトレーナー室に入ってきたことだけは分かった。
「…」
「…」
男はなかなか、少女の方を見ることができなかった。
そういえばあの鹿毛の少女を見送ってからずっと、この栗毛の少女は自らの後ろをマークしていた。
故に、男は彼女の顔をしばらく拝していなかった。
「…」
「…」
トレーナー室に入ってなお、少女に動きはなかった。
男は、自らが動かねばこの状況は変わらないことを悟った。
そしてついに、覚悟を決めた。
「…」
…だが、特に何も起こらなかった。
振り返っても、そこにはいまだニコニコとしている担当がいるだけで。
男はほっと一息つき、ソファへと腰かけた。
腰かけると同時に、ソファからは彼女が付けている香水と同じ香りが立ち上る。
「…ふぅ。」
落ち着いたら、喉が渇いてきた。
外もかなり、暑かったはずだ。
以前にもらった茶葉がまだ残っているはずだし、それで一服するとしよう。
そう、男が油断した隙を。
「トレーナーさん、どうですか。」
栗毛の少女は逃さずに差し切った。
”どう”とは。
男は数分前とまったく同じ感想を抱いた。
グラスワンダーは、ソファに座る男の前まで歩いてきてそう問いかけた。
男は困惑した。
「どう、ですか?」
少女は続ける。
男には、何のことかさっぱりわからない。
「…え、と……その。」
問いに答えられないでいると、少女はふうと一息つき、自らのスカートに手をかけた。
そして。
「どう、ですか?」
ぐいとスカートを上げ、再び男に問いかけた。
男は知っていた。
知っていたはずであった。
彼女がスカート丈にこだわりを持っていることを。
しかし今は。
普段であれば彼女の膝をすっぽりと隠しているそれが、彼女の太ももを露にするほどにまで引き上げられていた。
「どうですか。」
少女は蠱惑的に微笑み、同じ質問を続ける。
やはり男は答えられず、一つ息をのむ。
普段はセミの声でやかましい室内はいやに静かで、男がごくりと息をのむ音までも反響しているようであった。
「どうですか、私のトモは。」
「好走が期待できるのではないでしょうか。」
くるりと回りながら、少女は続ける。
「でもトレーナーさんは、そんな素晴らしいトモを見逃してしまっていたようですね~。」
「愛バのことは、しっかりと見ていないといけませんよ?目を、離してはいけないのですよ?」
幼子を叱るように、腰に手を当て、もう片手の指をたてて「めっ」と男を叱る少女。
「トレーナーさんは私のことをしっかりと見ていなかったようですので、これからはしっかりと見ていただかないといけませんね~。」
少女はゆっくりと、腰かける男に近づく。
――誰を見るべきか、今一度、しっかりと。その目に焼き付けてくださいね。――
露になった足をソファにかけた少女は、未だ言葉を発さない男を見つめてそう言った。
やはり夏は、蝉の声がやかましい。