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天気予報は、八割程度の確率で当たるといわれている。
もちろん場合にもよるし、一週間後の予報などでは当たる確率は当然落ちてしまうが、一日二日程度の予報はかなりの精度で当たるということができるだろう。
そして、トレセンにおけるトレーニングは屋外で行われるものも多い。
それゆえトレーナーたちは天気予報の結果を加味してトレーニングを計画する。
「…」
天気予報とトレーニングルームの予約画面を移したパソコンとにらめっこする男も、トレーニングを練り直す真っただ中にある。
男としてはターフでスピードトレーニングをしたいところなのだが、今週は天気があまりよくないという予報。
男の担当は好き嫌いせずにどんなトレーニングでも熱心に取り組んでくれる子であるからパワートレーニングに変更してもよいのだが、現状に即したトレーニングができればよいのは言うまでもない。
「50%、か…。」
明日の午後の降水確率を口にした男は、手にした計画表を見て悩ましげである。
そんな男を急かすように、トレーニングルームの予約はどんどんと埋まっていく。
天気予報を確認して計画をたてるのは何もこの男だけではない。
おそらく他のトレーナーも予報を確認し、急遽変更を加えているのだろう。朝にはガラガラだった明日分のトレーニングルームの予約は既に八割方埋まってしまった。
「どうしたのですか、トレーナーさん?」
男がうんうんうなっていると、隣からひょっこりと栗色の頭がパソコンを覗き込んできた。
トレーニング後にシャワーを浴びた少女の艶やかな髪からは柔らかで甘い香りがふわりと漂い、まだ少しの湿り気を残す耳は興味深げにぴこぴこと揺れている。
その愛らしい頭を撫でたくなる衝動をぐっと堪え、男は応える。
「ああ、グラス。明日以降のトレーニングはターフで行う予定だったけど、天気が優れないみたいで変更しようか悩んでいたところなんだ。」
グラスと呼ばれた少女は「なるほど」と一言つぶやくと、頬に手を当てて耳を揺らす。
いつものようににこにことした表情を絶やさない担当を見て癒された男は彼女の意向を尋ねようとするも、それより先に彼女が再び口を開いた。
「でしたら、私から言うことは何もありません。私を一番そばで見てくださっているのはトレーナーさんですから。」
「グラス…」
「トレーナーさんを信じておりますので~。よろしくお願いしますね、トレーナーさん♪」
「あぁ!よし!明日は予定通り、ターフでのトレーニングだ!今日はてるてる坊主を作って明日に備える!」
「あらあら~。でしたらお手伝いしますよ、トレーナーさん。」
ひとしきりの問答を終えた二人はソファへと場所を移し、ティッシュペーパーを使っててるてる坊主を作り始める。
四方山話に花を咲かせながら手を動かすこと数分。机の上には小さめで几帳面につくられたものと、やや大きめでにっこりと笑っているものが並ぶ。
二人はそれを窓際に吊るし、明日の晴を祈って仲よく部屋を後にした。
二人が去った後の薄暗くなった部屋に残されたのは、仲よさげに佇むてるてる坊主が二つ。
長くなってきた影が差すその姿は、物憂げに空を見上げているようであった。
◇◇◇
二人の願いが通じたのかはわからないが、翌日のトレーニング開始の時間に雨は降っていなかった。
だが晴れというわけではなく、空は鈍色で厚い雲に覆われている。
いつ雨が降り出してもおかしくはない空模様だが、ターフにはそこそこの人影が見受けられ、そのどれもが雨が降り出す前に少しでも練習を積もうと慌ただしく動く。
ターフに集まった人々を代表して昨日にてるてる坊主を作った二人もその例外ではなかった。
少女はてきぱきと、それでいて入念に準備体操や柔軟を行い、男も既に用具の準備を済ませている。
しかし。
少女が体をほぐし終わると時を同じくして、ぽつりぽつりと雨粒が落ち始めた。
はじめは小雨だったためトレーニングは続行されたが、段々と雨足は強くなり、少女がターフを一周としないうちにしないうちにざあざあという音が奏でられる。
なかなかに強い雨が緑のターフに打ち付けられ、ところどころで水が溜まりだすのを見た男は決断を迫られる。
重バ場想定のトレーニングであればよいかもしれないが、あいにくと今日のトレーニングにそれは組み込まれてない。
それに、足元が悪い中では濡れた芝に足をとられ転倒、ということもあり得る。
練習中のけがは何としても避けたいところであり、そこまでのリスクを背負ってトレーニングをするメリットはないともいえた。
男は少しペースを落とした担当に向かって声を張る。
「グラスーー!!今日のトレーニングは中止だ!!聞こえていたら引き上げてくれ!!」
すると栗色の影は右手をすっと挙げ、こちらに向かって走り始めた。
周囲のトレーナーとウマ娘たちも、蜘蛛の子を散らすように校舎へ避難している。
昨日下した己の判断に内心舌打ちをする男のもとへ、グラスワンダーがとてとてと歩み寄ってくる。
「トレーナーさん…」
「ああグラス、話はあとだ。早く校舎へ戻ろう。戻ったらすぐにシャワーを浴びておいで。」
半袖の担当からなるべく目を逸らしつつ男が言うと、二人はそそくさと校舎へ駆けていった。
◇◇◇
シャワーを浴びてほかほかしている栗毛の少女を、男はホットミルクをもって出迎えた。
ちょこんとソファに座る担当にマグカップを持たせた男は、彼女の小さな肩にブランケットを優しくかけてやる。
少女に風邪をひかせるものか、という男の強い意志が感じられる。
その一方で男の髪は半乾きであり、おそらく急いで着替えただけであろうジャージ姿は少し寒そうであった。
ソファでブランケットにくるまれた少女の前に座り、男が切り出す。
「まずは謝らせてくれ。判断ミスで、君の練習を一日無駄にしてしまった。トレーニングルームもプールも予約はすべて埋まってしまっていたので、今日はビデオでレースの研究とミーティングをすることになる。本当にすまない。それに、君をあの雨の中走らせてしまった。グラスはしっかりしているから寮に戻った後も大丈夫だとは思うが、十分体を温めてくれ。」
「いえいえ~。私は昨日、トレーナーさんにお任せすると言ったので。それに、最近はなかなかゆっくりする暇もありませんでしたから、体を休ませられてちょうどよかったですよ。それよりも…」
その発言通り、少女は練習が中止になったことに関しては特に不満に感じていなかった。
50%の降水確率であれば仕方がないと思えるし、自分が任せると言った以上その発言をした自分にも責任の一端はあると考えていたためである。
少女の不満は別にあった。
「…トレーナーさんはシャワーを浴びられたのですか~?」
「え?……うん。」
いつものようにおっとりとした口調で、少女は男に尋ねる。
そう。少女にとっては、男が自分のことをなあなあにすることの方が不満であった。
自分が風邪をひかないように気を遣ってくれることは少女をいたく喜ばせたが、それと同時に自分自身のことを顧みない男の態度は少女の目を鋭くさせた。
「…本当ですか~?」
「うん。俺、シャワー浴びるの速いし。それに風邪なんて小学校以来引いていないから大丈夫!」
「…」
”風邪をひかないから大丈夫”などという、おおよそシャワーを浴びた人間が言うとは思えない台詞を聞きながら、少女は逡巡する。
少女は、男がなかなかに強情なことをこれまでの付き合いから知っていた。
いくら問い詰めようが、シャワーを浴びたの一点張りで「それよりもグラスの方が…」と言ってくるのは目に見えている。
それに、男は責任感が強い。
おそらく、今日の練習を台無しにしてしまったと反省し、自分のことで時間をとる暇があったら少しでもレース研究などをしたいと考えているのだろう。
少女には、男が考えることが手に取るように分かった。
「……!」
以上のことを総合的に判断し、少女は――。
「…くちゅん。」
――ひとつ、くしゃみをした。
「!!!」
もちろん、これに驚いたのは男である。
担当に風邪をひかせるわけにはいかない。
それは、トレーニングができなくなるからという理由だけではない。こんなにもいたいけな担当が風邪で苦しむ―――その姿を想像するだけで、男は顔が青ざめた。
「グラス大丈夫かい?寒い?ブランケットまだあるよ?」
突然あわあわとしだした男を見て、くすりと笑った少女はその小さな体をいっそう縮こまらせた。
「大丈夫ですよ~。でも、少し肌寒いかもしれませんね~。」
「分かった!すぐにブランケットを――」
「いえ。ブランケットというよりはむしろ、人肌が恋しいというべきでしょうか~。」
少女はブランケットを開き、言外にあることを主張する。
「…えと、グラス。」
ためらうのは男の方である。
長く担当をしてきた少女が何を言わんとするかは男にも察せられる。
男はそこまでたわけてはいないし、初めて彼女に会う人でも彼女が何を男に求めているかは容易に想像がつくだろう。
まあ、初対面の人間に少女はこんなことを絶対にしないが。
男は追加のブランケットを手に悩み、立ち尽くしている。
そんな男の様子を見て、少女は畳みかける。
「くちゅんっ。う~ん。このままだと、風邪をひいてしまうかもしれません。それだけは避けたいですね~。ね、トレーナーさん?くちゅん。」
「……はぁ。」
なおもブランケットをひらひらとさせてくしゃみをする少女に、男は大きくため息を吐いて歩み寄る。
そして、少女が右によることで生まれたソファの隙間に腰を下ろした。
「…トレーナーさんの体、冷たいです。」
「…冷え性なんだよ…。」
男が座った瞬間にぎゅっと距離を詰め、二人でブランケットを共有した少女は問い詰める。
それに対し、新しく持ってきたブランケットを少女の膝に掛けた男もぶっきらぼうに答える。
「あらあら~。でしたらトレーナーさんも暖まることができてちょうどよいですね~♪」
「…ふふっ。そうだね。暖かいよ。」
シャワーでしっかりと温まった少女の体温が、男の冷えた体をゆっくりととかしてゆく。
小さな小さな少女の体は、ストーブのようにぽかぽかとしていた。
「暖かいですか、トレーナーさん?」
「ああ、ありがとう。グラスこそ寒くない?」
「ええ。あ、でも手元が少し…えいっ。」
寒くないかと尋ねられた少女の左手は、これ見よがしに男の右手をつかむ。
「俺の手の方が冷たいよ。離しな。」
「これでいいんですよ。それに、とっても、とっても暖かいです。」
「…そうかい。」
恥ずかしそうにする男は、負け惜しみのようにつぶやく。
「こりゃ、明日のトレーニングの予定も組みなおさなきゃな…。」
その言葉を聞いて、少女はとあることを閃く。
…閃いて、しまった。
「…問題ありませんよ~。先ほど確認したら、明日はしっかりと晴れるようですから。」
「あ、そうなんだ。なら、明日こそターフで練習だね。」
「…ええ。」
「それじゃ、ミーティングに移るか。」
明日の天気予報がどうであったかは定かではない。
ただひとつ定かなのは。
未だ窓辺に吊るされるてるてる坊主が昨日と同じく物憂げに空を見上げていたことだけである。
「…洗濯物が、溜まってしまいそうですね。」
ブランケットにくるまり、男の足に自らのしっぽを巻き付けてレース動画を見ている少女がこっそりと、そうつぶやいた。
……もうひとつ定かなこととして、”天気予報は絶対ではない”ことも挙げておくことにしよう。