男は少し…いや、だいぶ驚いていた。
「こんなに一本筋の通ったウマ娘、君にまた会うまでは出会えないだろうね。」
冗談半分、本心半分。
以前であればおっとりした追及の一つでも飛んできていたところ。
しかし、今の彼女は「あらまあ」とふんわり笑って、その手をゆっくりと口元に持っていくことしかしなかったのだ。
その姿は上品で優雅で、まさに大和撫子というべきだろう。
ずいぶん艶やかになった革張り椅子の座り心地を臀部でしっかりと確かめながら、彼女は穏やかだった。
座部がぺたんこになった、使い古された椅子に腰かけて画面のレース映像にかじりついていた頃が懐かしい。あれはもう、三年も前のことだ。
「…」
「どうしましたか~トレーナーさん。」
「…いや、何でもないよ。」
急に歯切れの悪くなった男を、栗毛以外の四人が不思議そうな目で見つめている。
一方、未だに口元を隠した栗毛の少女は微笑みをたたえた目で男を見つめていた。
◇◇◇
決して平坦な道のりではなかった。
少女は回顧する。
彼女のレースは、ちょっとした失望から始まっていたから。
誤解を招かぬよう言うと、彼女が誰かに失望したのではない。彼女が失望したのは自分自身だった。
だが、彼女は頂へたどり着いた。
あの日、口元を手で隠した自分を、その目を見て口説き落とした男とともに。少女は三年間を走り抜けたのだ。
遍く光る星々のさらに上。
ひときわ強く、眩い光を放つ星となった少女。
そして、自らの道を暖かく照らし続けたと、少女に言わしめた男。
その男は、少女にとってどんな存在なのだろう。
ちなみに、少女はその発言を二人きりの、かけがえのない絆を感じた温泉旅行で発している。
二人はどんな、関係なのだろうか。
――互いが互いの星。
――運命。
「…なんて、少し大胆過ぎましたかね~。」
おっとりとした口ぶりとは対照的に、照れくさそうに笑う少女。
幾度と開いた、見慣れたトレーナー室の扉のはずが、件の旅行後初めて目にするといつもより重く、手をかけづらいのは気のせいか。
少女は無意識に口元を隠した後、小さくこほんと咳ばらいをしていつもよりも重厚そうに見える扉を慎重に開いた。
とはいっても、少女の眼前に広がるのはいつもの光景。
少女の右手側には少し大きめな、重厚感のあるソファ。いつも通りのはずの男が、いつも通り書類に目を通している。
時折ホチキスで止められた部分をとんとんと弾く、鹿爪らしい顔をした男(書類の前ではこうなる。これを知っているのは自分だけだと、少女は常々思っている。)は少女の顔を見ると、いつも通り顔をほころばせた。
「やあグラス、よく休めた?」
――少し、寝不足です。
内心そうつぶやいた彼女はいつも通りの男をなぜか直視できず、男の先、部屋の隅に目をやる。
再び口元に手を当てていた少女の視線の先には、スプリングがおしゃかになった椅子(かなり古ぼけている。座り心地は決して良くない。)が二脚、睦まじげに鎮座していた。
――なぜか、捨てられないんですよね。
身を寄せ合う二つの椅子を慈しみながら見た少女は、これまた重厚なテーブルをはさんで男と向かい合わせになるように座った。
もちろん、彼女が腰かけたソファも折り紙付きのものだ。
「もちろんです。この前はお付き合いいただきありがとうございました、トレーナーさん。」
ようやっと男の顔を見ることができた少女は、座り心地抜群なはずのソファの上で二、三臀部を動かす。
部屋の片隅で役目を果たしていない椅子よりもはるかに高品質のソファに、少女はまだ慣れていなかった。
「それは何よりだ。」
座り心地を確かめ終えたのか、ようやく腰を落ち着けた少女。
それ認めた男が、手に持っていた書類を少女に手渡しながらやさしく微笑む。
すると、微笑に多少不意を突かれた少女はせっかく落ち着けた腰を浮かしてその書類を受け取る。
流石大和撫子、礼節をわきまえている。
「君と歩んだ三年間は、そう簡単に形容できるものではない。こんな新米に、こんな経験をさせてくれたことに、改めて礼を言わせてほしい。」
不意打ちの後、突然こんな言葉をかけられた少女は内心ひどく驚いて、思わず手を口にやる。
「いえいえ~。こちらこそ、とーっても感謝していますよ、トレーナーさん。」
秘めたるは感謝の念だけだろうか。
いつもは凛とした少女も、この時ばかりは照れくさそうにしている。
二人は、どんな関係なのだろう。
男の方も、少女のことを愛おしげに見つめる。
なんだか、トレンディな雰囲気になってきたかもしれない。
二人の様子を、古ぼけた椅子が固唾をのんで見守る中、男が続ける。
「光栄だ。…そして、僕らの三年間がいたく評価されて、来月からその書類の通りになる。」
少女は、手渡された書類にようやく目を通す。
男が急にいつも通りでなくなるものだから、すっかりと忘れていた。
「あら~。私たちが評価していただけたことは、とても誇らしいですね~。…いったい、どんなこ、と………へっ??」
おおよそトレンディな雰囲気には似合わない、そして大和撫子らしからぬ素っ頓狂な声を上げた少女は、さっと口元から手を引いた。
先ほどまではお淑やかに彼女の口元を隠していた手は突如として落ち着きを失い、ぷるぷると震えている。
思わず素の様子をさらけ出してしまった大和撫子を尻目に、男はなおも続ける。
「書類の通りだけど、一応口頭でもね。端的に言うと、来月からチームを持つことになった。メンバーは五人。もちろん、グラスも含めてね。グラスには、チームのリーダーとして、手本となるような姿を見せてほしい。」
「……」
いつの間にか落ち着きを取り戻した少女に、「頼りにしているぞ」と言わんばかりの視線を向ける男。
そんな男に対し彼女は。
「……もちろんです~♪」
と、にこやかに返した。
その姿を見た男は一仕事終えたと言わんばかりに席を立ち、茶を淹れようとしている。
口元を手で隠した、底冷えのするようなする笑顔を見せた少女の前で。
…いったい二人は、どんな関係なのだろう。
◇◇◇
というのが、今年の春の話。
男がチーム設立の声明を出した一月後、彼女らの部屋には新たな四人のメンバーが加わった。
男、少女共に四人と良好な関係を築き、今では机を囲んで談笑する中である。
五人で使うにはやや手狭になった部屋だが、少女は部屋の変更を是としなかった。
なお、部屋の隅では相変わらず古ぼけた二脚の椅子が肩身狭そうにしている。
椅子たちにとっても、部屋に入るたび四人から不思議そうな目を向けられてはたまったものではないだろう。
だが、これまた少女の強い要望によって、彼らは手狭なスペースに確かな居住権を得ている。
話を戻そう。
今のトレーナー室には六人。
何故か驚いている男。
その男を不思議そうに見つめる四人。
そして、栗毛の少女。
この六人。
では、この六人の中で最も発言力が強いのは誰か。
そう。
「……あ~…「あら~。もうこんな時間ですね~明日もトレーニングがありますし、そろそろお開きにしましょうか~。」
そう、口元を隠したこの少女こそ、である。
何か言おうとした男を遮ったような、チームのリーダーである少女の一言を受けて四人は素直に返事をして帰り支度を始める。
実際、この時期は日が暮れるのが急に早くなる。
若干の居心地の悪さを携え、男は教え子たちを見守る。
少女は、四人の様子をにこやかに見つめていた。
「「「「さようならー!」」」」
四人が仲よく退室する様子を、二人は重厚そうなソファに腰掛けながら見送った。
二人の前には、どことなく重要そうな書類がいくつか積まれている。
「先輩はまだ帰らないんですか?」という後輩の一言を、栗毛の少女はこともなげにかわした。
彼女曰く、”重要そうな書類”とやらを整理しなくてはいけないそうだ。
「ですよね、トレーナーさん?」と少女に聞かれたトレーナーが「あぁ…」と元気のよい返事を返していたことから、少女の言葉に嘘偽りのないことが分かる。
「…」
「~~♪」
いつの間にか、自分の正面ではなく隣に座ってきた少女の鼻歌を聞きながら、男はぼんやりとしている。
いつもは男と少女を隔てている机には書類が広げられ、そのうち何枚かを少女が眺めていた。
男は回顧する。
どうしてこんな状況になったのだろうか。
この状況は、ちょっとした失言から始まったのかしら。
チームミーティングが予想外に早く終わり、メンバーで雑談をしていた夕暮れ。
いつのまにか、男と少女の関係がやり玉にあげられていた。
出会い、スカウト、二人三脚の日々…
「~~♬」
男は軽く首を横に動かし、上機嫌そうに鼻歌を奏でる少女を見る。
三年を共に過ごした愛バとはいえ、男は彼女のすべてを理解できているわけではない。
だから、上機嫌
「……」
生徒が書類を眺めているのに自分は座っているだけでは不自然かと、男も手近な書類を手に取る。
男は変なところで真面目だった。
”トレーニングルーム使用申請書”ーーー来月の分。これはまだ余裕がある。
”担当ウマ娘補習のお知らせ”ーーー……賢さトレーニングをもう少し取り入れるべきかもしれない。
あとは…
……
「…」
一通り目を通した男は、机のどれもが急ぎの書類でないことを知る。
少女は、いったい何が目的なのだろう。
「…… 」
「……!」
そして、逡巡する男はあることに気が付く。
少女の手にある一枚の書類。それには、まだ目を通してないことに。
「…」
ちらりと、少女の手元をのぞく。
男の目に映ったのは、今春ぶりに見た”チーム設立許可書”の八文字であった。
「……」
やはり、男は分からない。
この少女が何を思ってこの場を設けたのか、自分に何を求めているのか。
この上機嫌そうなかわいい愛バに、どう接すればいいのだろうか。
「………!」
するとにわかに、男の目が大きく開かれる。
おそらく、この状況を打開する妙手を思いついたのだろう。
おもむろに立ち上がった男は、自信ありげに冷蔵庫の方へと歩みを進めた。
……いつの間にか口元に手をあてて目を細める、かわいいかわいい愛バの前を横切って。
少女は少し…いや、だいぶ驚いていた。
にわかには理解できないことが起きた時、怒りや悲しみの前に胸に去来するのが驚きであることを、少女はうららかな春の日に学んだ。
”チーム”
この三文字を認識してからというもの、少女の喫緊の課題は”如何にして男の心を繋ぎ止めておくか”の一点に尽きた。
もちろん、成績優秀な彼女のこと。
はじめてチームの存在を知ったわけではない。
だが、ヒトもウマ娘も自分の関心外のことは意識しないもの。
法律が変わるのも、何か事件が起きてからの方が多いのではないか。
だが、少女にそこまでの焦りはなかった。
冷静に考えてみれば、彼と必死になって過ごした三年間で築いたかけがえのない絆がちょっとやそっとで瓦解するはずなどないのだ。
自惚れでなければ、彼も私のことを憎からず思っているだろう。
…ただ、三年を共に過ごした、かけがえのないパートナーに相談せずに事を進めたのはいただけない。
これは、本当にいただけない。
事態を飲み込んで、ふつふつと怒りがわき始めた時。
思わず素っ頓狂な声を上げたその少女はしかし、とある妙手を思いついて矛を収めた。
「……もちろんです~♪」
ーーでも絶対、私から目を離させませんよ?
少女の計画は完璧だった。
至極単純。
見せつけてやればよいのだ。
どれほど自分たちが強い絆で結ばれているかを。
そこに、つけ入る隙があるだろうか?
答えは、否だ。
新しく加入する四人とやらに、彼の隣に立つのは誰かをはっきりと、示せばよいだけなのだ。
そんな考えを持ってはいたが、いざ四人が加入すると少女は理想的な先輩であり、チームリーダーであった。
四人と積極的にコミュニケーションをとり、トレーニングで指導や補助を行い、休みの日には五人で出かけることもあった。
…手を組んだ暢気な男は、五人が打ち解ける様を見て一つ、うなずいた。
◇◇◇
…そんな日々が続いたある日、突然訪れたこの状況。
冷蔵庫に向かった男が手に持つのは、二つのドリンク。
とある有名カフェチェーンが手掛ける、”本格和風抹茶ラテ”である。
男はそのうち一つを、少女に手渡した。
「……これは?」
不思議そうに首をかしげる少女の横に腰掛ける男。
男のとった妙手とはつまり、ご機嫌取りに他ならなかった。
上機嫌なときに差し入れを出せば、当然そのまま上機嫌。
仮に不機嫌でも、この差し入れで上機嫌。
中央トレーナーとなるだけの叡智を秘めた男が導き出した結論は、完全無欠のものであった。
さらに、少女が和としてアリかナシか悩む抹茶ラテを選択したことにも彼が勝ちを確信する理由があった。
「あれ、知ってるだろう、このドリンク。」
「ええ、それはそうなのですが、なぜこれをトレーナーさんが…?」
少女はこの緑色の液体の詳細ではなく、なぜ男が自分にこれを渡したかが気になるようであった。
男はその発言を聞き、待っていましたといわんばかりに口を開く。
「ああ前に四人出掛けたとき、あの子たちから聞いたんだ。グラスがおごってくれてとてもおいしかったって言ったよ。いや~。グラスも……」
鼻高々に語りだした男が、最後まで言葉を紡ぐことはなかった。
なぜなら少女は。
男の隣に座る少女が。
――いつの間にかドリンクを机の上において、とんでもない圧を放っていたから。
ぽたりと、カップについた結露が机を濡らす。
秋とはいえ、空調を付けないでは少し蒸すトレーナー室。
そこに、このコールドドリンクはおあつらえ向きだったはずだ。
しかし、男は今汗をかいている。
蒸し暑いのではない。
いわゆる、冷や汗というやつ。
飲むとしたら、冷たい抹茶ラテよりも暖かい緑茶で心を落ち着けたいところだ。
「トレーナーさん。」
手で口元を隠した少女が、優しく男に問いかける。
いつも通り、落ち着くはずの、彼女の声色。
ぎゅっ。
良質な革のソファがこすれて音をたてる。
男と少女の距離は、確かに縮まっていた。
「トレーナーさん。」
なおも、少女は問いかける。
何か言わなくてはいけない。
男は、視界の隅でつーっと、机上のカップから結露が滴るのを捉えた。
「トレーナーさん。」
三度目。
少女が問いかける。
男はついに、既にからからになってしまった口を開いた。
「…どうしたんだい、グラス…」
「…」
少女は笑っている。
しかし、男がそう判断した要因は、彼女の目が弧を描いていたその一点。
口元は、彼女の小さな手で隠されていて、見えない。
「…嫌い、だったの……かな?」
口を閉ざし、こちらをうかがうような彼女の圧に耐えかねて、男はたどたどしくも再度口を開く。
「いいえ。」
そう簡潔に答えた彼女は。
ぎゅっ!!
先ほどよりも勢いよく距離を詰め、男の握るカップに手を添えた。
「と~っても、好きなんですよ、これ。以前から、ず~っと。」
少女は男に顔を向けたまま流し目でカップを見やり、刺さっているストローをゆっくりと引き抜いた。
それによって、男は自分がカップを握りしめていたことに気が付く。
哀れな紙製のコップは無残な姿に成り果て、結露を滴らせながらかろうじて内容物を保っているだけであった。
「以前から、目をつけていたものなんですよ~。」
いつも通りのおっとりした口調でささやき、少女は手に持ったストローを机に置いた。
途中、ぽたぽたと緑の液体が床にこぼれる。
少しの粘性を持ったそれはしばらく抵抗したのち、カーペットのシミとなってしまった。
「でも~」
カーペットが抹茶ラテを味わう様をしばし眺めていた彼女は、ゆっくりと視線を男に戻す。
「まさか先を越されてしまうとは思いませんでした~」
そういえば、最近グラスがお茶を点てる頻度が上がったなと、男はまだ立っている少女の栗色の耳を見ながら思った。
男は、グラスワンダーに抹茶ラテを紹介されたことはなかった。
「あの子たちが、グラスも好きだってーーー」
何気なくつぶやく男。
その瞬間、栗色の三角形は勢いよく絞られ、男の視界から消えた。
ああ。
どうして。
「ーーあなたの目に映っているのは、あの子たちの目に映った私の姿なのですか?」
美しい美しい、透き通った青色の目をまじまじと見た男の手はついに、カップを離してしまった。
「実際、トレーナーさんとグラス先輩って、どうなんだろうね?」
「そりゃあれでしょ。尻に敷かれてるってやつ。」
「…アンタ、それ絶対二人の前でいっちゃダメよ……」
秋の夜長。
カーペットがうまそうに喉を鳴らす様を見ていたのは。
月の光を浴び、幾分昔の重厚感を取り戻した古ぼけた椅子だけであった。