贖い   作:赤穂あに

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過ちは還らず

 運命という言葉を、信じたわけではなかった。

 

 こうなるべきだとか、こうするべきだとか、そんな言葉はまやかしだ。人は未来を推し量れない。だから、最適解などというものは存在しない。

 結果論から、終わった後から、この時はこうするべきだったというのは非常に馬鹿げている。今後の役に立てば僥倖、そこから文句を並べるというのはあまりにもナンセンスだ。後悔先立たずとは何のためにある言葉なのか、今一度考えるべきだろう。

 人とはすべからく、経験から学ぶ生き物であり、後悔して成長する生き物なのだ。

 そんなことを、物心ついた時からすでに知っていた。俺の人生は二回目だった。

 それでも、やはり、最適解など知らぬはずだと、信じていた。後悔をしても活かせるようにと、俺は、生きてきたつもりだった。

 何故、唐突に理解してしまったのかはわからない。それでも俺はある日、理解した。弟の頭を撫でながら。母と言葉を交わしながら。父の顔を仰ぎ見ながら。

 俺は、俺が何をする人間なのかを知った。知ってしまった、と表現する方が正しいかもしれない。

 そうか、俺は、赤井秀一なのか。

 

 それでも俺は、運命など信じていなかった。信じていなかったからこそ、俺は、努力を積んできたのだ。

 

 彼のようにはなれないだろうと思ったからこそ、俺は武術を、射撃を、あらゆるスキルを進んで習得した。必要だと思ったからでもなければ、彼のようになりたくてそうしたわけではない。ただ、漠然とそうした方が良いと思ったのだ。

 少なくとも、両親は命の危険にさらされる仕事に就いているのは間違いなかったし、弟は俺と同じく荒事が苦手だった。そして、弟は俺と違って本当にただの子供だった。

 消去法だったのだ。俺がああいう行動に出たのは。そして、そうすれば、父が助かる道にずれ込むのではと淡い期待を抱いた。

 俺は、父を率先して救い出す方法を選ばなかった。自信がなかったのだ。当時の俺は、並より少し賢いだけの子供だった。

 そうして生きて、父はいなくなった。

 母はほんの少しだけ動揺して、それでもと俺たちを守る覚悟を決めた。そして愚かな俺は、どうしようもなく後悔した。

 知っていたはずだった。それでも、見殺しにした。その事実だけを、俺は唯一後悔している。

 

 全てはきっと運命ではないのだと、俺は信じたかった。だからこそ、俺は彼には成り得ないながらも彼を果たそうとした。

 

 俺は俺の意思で、彼と同じ人生を辿ることを決めた。

 どう考えても俺では彼には大きく不足している。情熱も執念も自信も実力も、何一つ及ばない。だからこそ、俺が俺の意思で彼の役目を全う出来たなら、それは俺の選んだ道になるはずだと、信じたかった。

 見えない意思で、俺の歩む道を定められているのではないと信じたかった。俺の足場を固めているのが赤井秀一という一つの概念だと、思いたくなかった。

 俺には、今は失われたもう一つの人生があったのだ。それが、全く意味を成さないのだとは、どうしたって認めたくなかった。その選択に後悔はない。だが、愚かだと思う。

 俺が選んだ道には、屍がいくつも並んでいた。人差し指に力を込めるだけで、数え切れない人が死んでいった。任務だからと、仕方のないことだと、理解できたことは一度もない。

 死ななければならない人間などこの世にいないなど、性善説を唱えるつもりは毛頭ない。しかし、俺に殺す権利があるのかと問われれば答えはいつだってノーだった。俺は神でもなければ司法の代理人でもない。一人の凡夫だ。

 その凡夫のスコープ越しは、一度だって外れる気配もなく、吐き気を飲み込む笑みばかりがもれた。

 気が狂いそうだった。

 

 運命などないと、誰かに言ってほしかった。

 

 そうして俺は、潜入捜査官として組織の幹部になっていた。相応しいなと、自嘲する暇もなかった。気を抜いたら一瞬で死ぬような場所だ。スリーマンセルとして組まされていた人間がシロと知っていた分、遥かにマシだったのかもしれないが、向こうは俺をシロとは知らない。結局、精神が擦り切れそうな日々は変わらなかった。

 人を殺して、殺して、殺して、殺す。人を殺せば出世するなど、まるで戦時下のようだと呆れながら、また殺した。スコープを覗いている時だけは、頭を真っ白にすればよかったから気が楽だった。人を殺すのに、思考はいらない。

 情けないことに、一番頭を回すハメになったのは彼女の相手をする時だった。

 組織の幹部の姉であり、ほとんど一般人である彼女はていのいい人質だった。優秀すぎる妹を繋ぎとめておく為の楔。俺が組織に取り入る際に利用した女性でもある。彼女の取り扱いに、俺は一番困った。

 そもそも、女性の扱いに慣れていないのだ。その上、彼女は彼にとってキーパーソンである。

 俺は彼女をどうするか、悩んでいた。このまま行けば、彼女は俺の所為で死ぬ。

 それを今更どうこうする意欲は、俺にはなかった。父を失ったあの日に、俺は自分の至らなさを理解していた。この期に及んで、血縁でもない彼女を救う意欲など湧いてこない。てきとうに付き合って、別れるか。続けるか。

 こんなことを考えているようでは向こうから振ってくるだろうなと自分に呆れている最中、彼を失った。

 

 運命などないのだと、誰も言ってはくれなかった。

 

 俺は、身分を明かした。拳銃を持っていかなかった。

 それなのに、彼は拳銃を所持していた。俺の誘いに乗る前に足音が響いた。彼は自殺した。足音の主は確認するまでもなかった。

 俺はもう、どうすべきかなど考えてはいなかった。ただ、それでも、こうしていたはずだという考えが脳裏に常にこびりついていた。拳銃を奪い、俺が殺したと告げた。幽霊のようだとなじる自身の舌を引き千切ってやりたかった。

 幽霊は俺ではないか。赤井秀一という亡霊に踊らされている幽霊。

 俺はもう、俺自身をどうしようもないほど見失っていた。

 

 これは、運命なのだと、跪いてしまえばきっと、楽になれたのだろう。

 

 彼を喪くし、任務はツーマンセルになった。それでも支障はなかったことが、一層、心臓を握った。きっと俺ですらこうなのだから、と、考えるのはそこまでにしていた。もう、思考する余力すらなかった。

 人を殺したのは初めてではなかった。見殺しにしたのも、父と同じだ。それでも、己の腕一つで届いたかも知れない命を吹き消した現実に打ちのめされていた。彼は、正しく清らかな人間だったから。

 それを、俺は。

「大くん? どうしたの?」

 彼女の声は、いつもより曇っていた。結局、振られることなく関係は続いていて、その日はデートの日だった。彼女が近況を述べて俺が相槌を打つだけの、なんの面白みもない一日。俺が言ってはなんだが、何故こんなのと付き合っているのかと小一時間問いただしてやりたい。もっと他に選択肢はあるだろうに。本当に、俺が言うなという話だが。

 何でもないと返して、空になったカップを取り上げる。いつもの帰る合図だった。言えないようなことがあったのねと、彼女は続けた。

 こういう時、仕事を少なからず知られているというのは話が早くて助かる。彼女は賢明な人間なので、特に掘り下げることはしない。普段は。

 しかし、この日は違ったのだ。彼女は話を切り上げずに、独り言よと前置きして、言葉を発した。

「きっと、大くんのせいじゃないわ」

 何のことだか、さっぱり分からんな。返した台詞は、震えていなかったのか自信がない。確認しようにも、彼女はすでに空の上の住人なので、聞けない。何のつもりで言ったのかも、俺にはもう知るすべがない。顔に出にくいのが取り柄だと自負していたのに、彼女はそんな少しだけ残されていた自尊心さえ叩き潰してしまった。

 思い出すと、笑ってしまう。俺は、一般人のひとりさえ騙せない凡夫なのだと。

 

 運命などないと、俺は知った。

 

 それからというものの俺は、さらに輪をかけて赤井秀一として振る舞った。彼女の口から、同じセリフを聞こうと躍起になったと言ってもいい。そうすれば、赤井秀一と全く同じ未来にたどり着けば、赤井秀一ではない俺は違う未来を掴めるのではと期待したのだ。

 愚かな俺は、あまりにも出遅れて、微かな希望に縋った。そしてそんなものに縋ろうとするから、天罰が下ったのだ。

「大くんのせいじゃないよ」

 彼を喪くした時と同じ言葉を、彼女は俺に送った。断罪のようだった。そんな言葉を聞きたかったわけではない。しかし、俺にはもう、そんな言葉しか聞く資格がないのだと思い知った。

 許された俺は、彼女もまた見殺しにした。最期に送られてきたメールすら、彼女は俺を責めてはくれない。

 

 運命ではない。これは、俺が選んだ過ちだ。

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