「秀吉」
僕を呼んだのは兄だった。いなくなったはずの、兄さん。
久しぶりだなと微笑んで、立ちすくむ僕を見て悲しそうな顔をした。すまないなと、頭を撫でた手は一番古い記憶の通り変わらず優しくて、一番新しい記憶の通り、傷跡だらけだった。
「にいさん」
「すまない。俺のわがままで、お前を傷つけたな」
許してくれとは決して言わない兄さんは、僕の背中を優しく叩いた。促されるまま兄さんにもたれ掛かると、密着した部分からとくとくと、心臓の音が伝わってくる。肩越しに見たコンクリートが、これ以上ないほど歪んで、僕は、強く兄さんにしがみついた。
「にいさん」
「ああ、なんだ」
「にいさん」
肌触りのいいコートを、皺くちゃにして握りしめる。精一杯の力を込めて、兄さんの鼓動を肌から聞く。僕の心臓の音がうるさくて、兄さんの音が消えるようだった。
うるさい、静かにしろよ。歯を食いしばって息を止めると、再び優しく背中を叩かれた。大丈夫だと、穏やかな兄さんの声が鼓膜を撫でる。
「もう、どこにも行かないさ」
俺が言っても、信用ないかもしれないがと。付け加えるように笑った兄さんに、僕は、そんなことはないと叫びたいのに、声が出ない。うわ言のように兄さんと、呼ぶことしかできない。
こんなことを言いたいわけじゃないのに。もっと伝えたい言葉があるはずなのに。会えた喜びも、生きていてくれた安堵も、僕の声帯は形作ってくれない。
「にいさん、」
「ああ、お前の兄さんだよ」
額を肩に押し付けると、視界を遮るレンズがぱたぱたと濡れた。雫はそのまま伝って、地面を染めるが、僕はそれを正しく認識できない。目の前が霞んで、額をぐりぐりと押し付ける。ありがとうと、礼を言う兄さんの言葉にかぶりを振る。お礼なんて要らない。僕は、僕は。兄さんが大好きだから。
嗚咽を漏らすしか能がなくなってしまった喉の代わりに、僕は力一杯兄さんに抱きつく。どうか僕の想いが届きますようにと、頭を柔く撫でる手は、ゆるゆると僕の言葉を汲んでくれた。
「ただいま、秀吉」
おかえり、おかえりなさい、兄さん。また会えて嬉しいと、言葉すら出せない僕を許してほしい。
とくとくと、どちらのものかわからない心臓の音が、胸を打つ。あの時は生きていてさえくれればいいなんて、殊勝な願いを抱いたのに。もうそんな小さな望みだけでは満足できそうにもない。
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肩に顔を埋めて静かに泣く秀吉の背中を、とんとんとリズミカルに叩く。ああ、こんな風に弟に触れるのはいったい何年ぶりだろうか。昔はよく、寝付けないとシーツにくるまる秀吉に、早く寝ろと言いながら胸の辺りを同じようにたたいてやったような気がするのに。
それは遠い昔のようでもあるし、昨日のことのようにも思える。大切で穏やかな時間。俺の記憶。緩やかな、たゆたうような人生を、疑うことすらなかったあの日々を、俺は生涯忘れないだろう。
奪われた理不尽と、自ら捨てた傲慢と、意思を持って奪った不条理を、俺はこうして埋めていく。誰に許される為でもなく、俺自身がそう望んだままに。
ほどなくして秀吉は落ち着いたようで、体を離しながら眼鏡を外し、乱暴に目元を拭った。小洒落たハンカチでそれを代わってやれたならよかったのだが、生憎とここ最近はほぼ身一つで移動するほどの身軽さだ。俺に出来ることといえば、赤くなるからと言葉で制してやることぐらいだった。大したことないからと秀吉は気にした様子もなく、眼鏡を掛け直して口を開いた。
「兄さん、日本で暮らすの?」
まだ少しだけ不安そうに言葉を発する秀吉は、俺が犯した罪の形そのもので。許しを乞うまいと決めていた俺は努めて安心できるように、緩やかに笑ってそれに答えた。
「ああ、そうするつもりだ」
「家は? FBIは辞めちゃったの? 仕事は?」
「近くのアパートに引っ越す予定だ。FBIは辞めた。仕事は知人が紹介してくれるらしいから、それに甘えようと思う」
「……兄さん、日本に友達いたの?」
「少しだけな」
「そっか。よかった」
彼を友人と呼んでいいかは置いておくとして、秀吉はいくらか安心したようで目元を赤くしたまま微笑んだ。泣かせるようことはもうしないが、泣かせた事実は消えない。それを俺は、一生忘れてはならない。
加えて、罪滅ぼしだと思わせてもならない。全ては俺がしたいからそうするのだと、生きたいように生き、やりたいようにやる。そうして、立派でなくともまともに生きていく。
もう何も捨ててはならない。多くを拾って、手から溢れることがあろうとも、抱えて生きてかなければならない。
今まで捨ててきた全てが、すでに取り返しのつかないことは理解している。俺の行為に何の意味もない可能性だってある。それでも。
無駄かもしれないなと思いながらも、俺が望む通りに努めればいいという幸福を、俺は今更ながら噛み締めている。長らく忘れていたが、生きていくとはこういうことなのだ。
捨ててきた高慢を、今、俺は取り戻そう。