二番目の息子が連れて来たのは、一番目の息子だった。
久しぶりと、気まずそうに笑ったのは長男坊のバカ息子。何も告げず、何も語らず、何も残さず。煙のように立ち消えた、秀一だった。
「母さん! 兄さんだよ! 帰ってきたんだ!」
目元を赤くして、幸せそうに笑った秀吉は、しっかりと秀一の手を握ったまま反対の腕でしがみついている。帰ってきたと言いながら、全くもって信頼していないのが見て取れる。それとも、二度と離さないという決意の表れなのだろうか。
どちらにせよ、その喜ぶ姿に嘘偽りはない。そこまで見て、ようやく現実なのだと信頼できた。秀一が、帰ってきたのか。
名実ともに夫を失い、かつての柔さを取り戻したような息子も失った。あの子にはきっと辛い日々だったのだろうと理解しつつも、終わった安堵に身を任せたいと望むのならば邪魔をしてはならぬと己を律して、せめて、どこかで生きていてくれるのならばと。そうして手放したあの子が、今、目の前にいる。
「母さん、ただいま」
「……何故、戻った?」
「真っ当に生きようと思って」
「そうか」
素早く二人に歩み寄り、秀吉を引き剥がす。かすかに不満気な顔を見せたが、なんとなしに触れるべきではないと察したのだろう。少し後ろに下がり、顔は不安気に揺れた。
弟から解放された秀一は、微動だにすることもなくその場に立っていた。真っ直ぐにこちらを見て、緩やかに微笑んでいる。その笑みの中に多分な謝罪が含まれているのは、聞くまでもなく確認するべきことでもなかった。
「真っ当に生きよう、と言ったな」
「ああ」
「義務で戻ってきたのなら、それは間違いだ。今すぐやめろ」
「義務ではないさ。俺がそうしたいと思っている」
「嘘をつくな」
「本当だよ、母さん」
「もういい、もういいんだ秀一。もういいから」
恐ろしかった。かつてのように柔く笑む息子が、今は恐ろしい。ここに立っていることが怖い。消え去った時、命を自ら捨てるようなことだけはないとそう思ったからこそ、私はそれを許容した。
優しい子だ。多くを殺して、罪の意識から死ぬことだけは選ぶまいとそう確信していたから、私は消えたあの子が生きていると信じることができた。私の側にいなくても、どこかできっと生きているだろうと。
夫の死を、根拠がない間は保留できた時と同じような心持ちで、見ないふりができると。そう、思った。
でも今は違う。この子は今、私の目の前にいる。削れた心をさらに削り、己を殺して立っているとしか思えない。そんなことをすれば、いつか、取り返しのつかないことになるような気がした。
恐ろしかった。手の届くところで息子を失うのだけは、どう足掻いても耐えられそうにない。やめてほしい。もうこれ以上、誰かを亡くすのは嫌だった。
「母さん、聞いてくれ」
そっと慈しむように私の手を取る秀一。チェスが得意で、本を読むのが好きで、スクールの子たちから一目置かれていた自慢の息子。足が速くても自慢をせずに、喧嘩から逃げることばかりに活かしていた頃からは想像もできないくらいに、タコと傷で凹凸が出来ている。
こうなるまでに、どれほどの傷を負ったのだろうか。身体だけではなく心にも、耐え難い苦難があったはずだ。それを結局、私は母でありながら察してやることも防いでやることもできずに、自身を追い詰める様をただただ外から眺めていた。情けない。あるまじきことだった。
「俺は、見捨ててはいけない人を見捨てた。三人いて……俺にとって、とても重要な人だった」
その三人が誰なのか、終始口にすることはなかった。かすかに顔を上に向けて、秀一は間違えたと笑った。その三人は、空にはいないらしい。そのまま秀一は地面を見下ろし、愛おしそうに微笑んだ。
「みんな、地獄にいるらしい。それで、俺も地獄へ行く」
「兄さんはそんなとこ行かないよ!」
「行くんだよ、秀吉。俺はそれほどまでに許されないことを多くしてきた」
押し黙る秀吉を責めることもなく、かと言って自虐というには優しすぎる声で秀一は繰り返す。俺は地獄へ行くのだと。そこで、見捨ててきた人に会うのだと。
「その時に、恥じた人生を見せるわけにはいかないんだ。だから俺は、望んで真っ当に生きていこうと、そう決めた」
「それが、義務だと言っているんだ。わからないのか?」
「母さんなら分かると思うけど」
こともなげに伝えられた言葉には、嘘のかけらも虚栄もないことを、私は誰よりも知っている。
「俺は愛する人たちへ報いることを、喜びはすれど義務だと思うことなんてない」
ああ、本当に。私の愛する自慢の息子が帰ってきたのだと、溢れ出る喜びをこらえる術など私にはなかった。
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しとどに濡れる胸の中の母さんは、記憶の中より比べようもなく小さい。こうして最後に触れた時はまだ俺の方が小さくて、何より、母さんはまだ母さんだった。父さんの代わりを果たすと決めた時、一体どんな気持ちだったのだろう。それは俺が、周りを見捨てると発した日のことだった。
あの頃は上手くやれる自信もなく、かと言って、父さんを失った後になにも知らぬ身のまま家族を守る自信もなかった。俺はただ、最低限として残った家族が無事であるよう務めたに過ぎない。こうして動けば家族は無事であると、知っていた通りに進んでほしかった。家族以外は全て見捨ててしまえばいいのだと。そうやって割り切ったつもりでいたのに。
結局俺は、何一つ満足に果たせず、どっちつかずのまま足掻いた結果が今だった。家族を苦しめ、泣かせ、いったいどの口が守るなどと言えたのだろう。みっともないほどにただのお笑い種だ。
しかし、だからこそ。俺は努力したいと強く願える。
泣かせることしか出来なかった俺はもう終わりだ。裏切ることしか出来なかった俺はもう終わり。腕の中に収めることができる、命あるこの人たちを、俺は生涯愛していこう。
俺は赤井秀一という皮を脱ぎ捨て、赤井秀一という凡夫として生きていく。近しいかすかな人たちを愛し、慈しみ、守り、生きていく。
そこにお前はいないけれど、それでも俺は生きていこう。
ああでも、わからない。
今になってもまだわからない。
俺はお前を愛していたのだろうか。