頬骨に関節がぶつかる感触がした。それなりに痛かったが、まあそれなりだ。やせ我慢というには弱々しくて、無痛というには悪意がこもっている。しかし、ここは一応、痛がっておいた方がいいだろう。向こうもそうなるように手を出してきたのだろうし、それらしく呻いたことで、焦るなり罪悪感を覚えるなりで退散してくれるのならそれでいい。
そういうわけなので、出来れば真純が大人しく握りこぶしを震わせている間に退散してはくれまいか。可愛い妹が激昂するさまなど見ないに越したことはないのだ。
しかし、そんな俺の願いは余りにも儚く。男たちは痛がる俺を見て尊大になってしまったし、頭に血がのぼるのは真純だけで済みそうにない。
しくじったなぁ。事態の沈静化を願ってしおらしく頬を抑えるに留めたのに、どうやら見掛け倒しで叩きのめせるという自信を抱かせてしまったらしい。喧嘩が苦手などと、口にするのではなかった。勘弁してほしい。荒事は本当に苦手だというのに。
「おまえら、よくも!」
今にも殴りかかりそうな真純を、怯えて震えていると勘違いでもしているのか。男たちは陳腐な台詞とともに真純のその腕を取った。そしてその腕を、俺は強く握った。
折れない程度に調整するのは、なかなか骨が折れるな、なんて。矛盾しているようでしていない。つまらない言葉遊びで心の中を落ち着かせる。痛みを訴えながら安い挑発を吐く男の声に、そのまま乗っかってはいけない。問題を起こすと日本はとても面倒なのだ。
「喧嘩は苦手だと、何度言わせるんだ。お前らの程度に合わせなきゃならない、こっちの身にもなれ」
背筋を伸ばして、指に力を込め、出来るだけ低い声で威圧する。俺より頭一つ分は低いだろう身長はなかなか日本人らしい高さだが、そのサイズ通り、どうか慎ましく生きてほしい。血気盛んは結構だが、身の程知らずは身を滅ぼす。
手の中で骨が軋む。おっと、力を入れすぎた。慌てて力を緩めると、腕はするりと逃げていく。因みに、真純の腕はとっくに解放されていて、俺の後ろで大人しくしている。女の子らしくあれとは言わないが、もう少しくらいは殊勝に生きてくれると、兄としては心が穏やかで済むのだが。真純にそれは酷か。
「失礼、少し力を込めすぎた」
「ひっ」
「まあ、スマートじゃないエスコートをした報いだと思ってくれ。俺を殴ったことは、不問にしよう」
笑ってそう言えば、男たちは蜘蛛の子を散らすが如く、逃げ去った。去り際が潔いのがせめてもの救いだなぁと、背中にいる妹を振り返ると、それはもうぶすくれた顔をしていたので、今日は厄日だなとため息を飲んだ。
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吉兄は言う。兄さんはそういう人だからと。
ママは言う。秀一だから仕方がないと。
二人は言う。真純にはわからないかもしれないけどと。
それが、ボクはたまらなく嫌だった。
「なんでやられっぱなしだったんだよ! あんな奴ら、秀兄なら簡単に返り討ちにできるだろ!」
蘭くんと園子くんを家まで送って、秀兄と並んで家に帰る。ホテル暮らしはようやく終わって、ボクの家はふつうの一軒家になった。ママと二人、こじんまりした家。
充分すぎる広さだけど、それでもやはり広く感じる一軒家に、秀兄は住んでくれないという。親元で甘えるにはさすがに歳を取りすぎたと笑って、ママは愚息の世話は慣れているがと煽った。秀兄は柔らかく微笑んで、何も答えることはなく、結局ママが先に折れた。決めたことを覆す奴ではないなと、ママも微笑んだ。
ボクには、それがわからない。
家族なのに一緒に住めない理由だってわからないし、それを良しとする理由もわからない。そしてなにより、そんな風に笑う秀兄がわからない。
ボクが見てきた秀兄は、そんな笑い方をしない。強くて格好良くて、黙って殴られたりなんかしない。突っかかったボクを叱りもしないで許したりしない。全然違う。そう思ってしまうことが、どうしようもなく嫌だった。
「俺はあんまり喧嘩が得意じゃないんだよ、真純」
「でも、強いじゃないか」
「強さと好き嫌いは別だろう?」
「それは、そうかもしれないけど」
「真純は、強い俺の方がいいか?」
「……わからない」
わからない。秀兄がわからない。ほとんど会ったことがなかった兄が、わからなかった。
ボクが初めて秀兄に会ったあの日。ママと殴り合いの喧嘩をして目に痣を作って、ボクのことをほとんど見ていなかった。魔法使いに笑った。仏頂面で喧嘩が強くて、頭が切れてシャーロキアンで。ボクは兄を心の底からカッコいいと思った。憧れた。そんな兄は、すぐにまたどこかへ行ってしまったけど。
次に会ったとき、兄は会ってはいけない人だった。スコッチと呼ばれていた彼は、秀兄をどう思っていたのだろうか。
コードを教えてくれた彼が、きっともうこの世にいないのだろうことだけは、ボクにもわかっていた。どうしてそうなってしまったのかはわからない。秀兄がそれに無関係でないことだけは、なんとなくわかる。
カッコいい兄は、彼が死んだとき何を思ったのだろう。優しい人を失って、心を痛めたりしたのだろうか。
そもそも秀兄は、人を亡くして、心を痛めたりするのだろうか。無感情ではないだろう。どちらかと言えばボクの兄であるのだし、激情型のはずだ。それは血筋なので仕方がない。
吉兄はよく、僕はおとなしいよなんて言ってくるけど、おとなしいだけの人は七冠なんて達成できるはずもない。吉兄だって、血が沸騰すれば周りなんて目に入らない、穏便な激情型なのだ。
話が逸れたが、ともかく。悲しんだか惜しんだか、怒りに震えたかなにか。感じたはずなのだ。でもやっぱり、ボクにはその感情を当てられない。
「わからないよ。だってボク、妹なのに、秀兄のこと何も知らないんだ」
わからない。ボクが今まで見てきた兄は、一体なんだったのだろう。夢か幻だったのだろうかと、何度も考えては、紛れもなく現実だったとかぶりを振る。そしてボクの考えを肯定するように、ボクより秀兄とながく生きてきたママと吉兄が言うのだ。あれはあれで、間違いなく秀兄だったと。少し悲しい目をして、そんなことを言うから。
ボクは、苦しくなる。何も知らないボクを肯定されると、どうしようもなく息苦しい。
「知らなくていいんだって、そんな風に言われてるみたいで、ボクは、寂しい」
「……真純」
「家族なのに、一緒に暮らせないし」
「そうだな。俺が断ったから」
「ママはそれでもいいみたいな反応するし」
「三十超えた息子が親と同居も、ちょっと、アレだろう」
「世間体なんて気にしないと思ってた!」
「お前はもう少しだけ気にしろ」
これでは子供の癇癪だとわかっているが、もう勢いがしぼむことはない。言ってしまったと少しだけ後悔が戻ってくるが、それ以上に溜まった鬱憤の方が大きくて。理性は濁流に飲まれるようにかき消えて、そのまま涙の栓もどこかにさらった。
ボロボロと子供のように泣き喚きながら、ボクは言う。同じことを何度も言う。一緒に暮らせないのは寂しくて、知らないなんて仲間ハズレは悲しくて、それを許容されることはもっとも苦しかった。だってそんなの、家族じゃないみたいで。
一緒に暮らしていなくてもボクを心配してくれていたあの秀兄が嘘になってしまう気がして、ボクは何が本当かわからない。きっと優しいんだろう。きっと穏やかなんだろう。ママと吉兄がいう秀兄が本当なんだろうと、思えば思うほど全てが嘘の思い出になっていく。ボクにとっては、あのかすかな記憶だけが秀兄なのに。
「真純」
「なんだよぉ」
「真純も泣くんだなぁ」
「誰のせいだと思ってるんだ」
「すまない。快活なイメージしかなかったから」
鼻をすんすん鳴らしながらべそをかいていると、秀兄の大きな手がそろりとボクの目元に伸びてきた。硬い皮膚を持つ親指で弱々しく涙を拭われて、ああ、秀兄は二人が言うようにこういう人なのだといやでも理解する。頬に当たる指の付け根が潰れたタコでさらに硬い。
そうして、こうなるまでにどれほど自分を歪めたのだろうと悲しくなる。ボクはそれを強要した一人なので、なおさらだった。
二、三度秀兄の親指がまぶたの上を往復して、真純ともう一度名前を呼ばれた。頬を両手で包まれたまま目を開けて顔を上げると、秀兄はそれはもう嬉しそうに微笑んでいる。こっちは泣いてるんだけど。
「ごめんな、真純。俺は真純のことを、何も知らないから」
「それは」
「真純も、俺のことを知らないよな」
「……うん」
「大きくなったなぁ」
「いつと比べてるんだよ」
「真純が生まれる前とだよ」
母さんのお腹の中にいた時と、海に出かけた時と、電車で追いかけてきた時。
「俺は、それしか真純を知らない」
「一回は生まれてもいないじゃないか」
「そうだな。だから、真純が俺を知らなくても仕方がない」
「それはやだ」
「俺だって知らないままは御免だ。可愛い妹だからな」
「えっ」
「知らないことは知っていけばいいだけだ。案外簡単だよ。さぁ、真純。何が食べたい? 少しだけ料理が出来るようになったんだ。母さんや秀吉も呼んでご飯にしよう。二人とも俺が料理なんてしたら目をむくぞ」
「えっえっ?」
「包丁で割ったら半熟卵が流れてくるオムライスもようやく作れるようになってな、見ててくれ」
さあ二人を呼んでくれと言われるままに、電話でママと吉兄を呼ぶ。なんと言って呼んだかはボク自身忘れてしまった。あんまりにも秀兄のノリが想像より斜め上で、たぶんついていけてなかったんだなと後になって思う。なんなら呼び出されたママと吉兄もよくわかってなかった。
ボクにわかったのは、ママと吉兄にも秀兄について知らないことはあるということと、秀兄がボクをオムライスで宥められる可能性があるくらい子供っぽいと思っている可能性があるということだけだった。オムライスは美味しかった。