線香の煙が立ちのぼる。そのすぐ隣をまた別の煙が追いかけるようにのぼっていく。肺を汚すこれを、明美の前で吐き出したことはなかった。気を遣っているていを醸し出せるのならと、居ないところでは率先して吸っていたのだが、そもそもこれを美味いと思ったことはない。彼のような演出ができればと、俺にとっては服を着るような行為とほぼ同義だった。
全て、全て。俺は欺いて生きてきた。
彼のようになりたかったわけではない。彼のように生きたかったわけでもない。俺はひたすら、彼から逸脱した自分が起こすイレギュラーが怖かった。俺自身を、何よりも恐れていた。
一つのミスで全てを瓦解させるのではと、守れるはずのものすら取りこぼしてしまうのではないかと。だから、自分を殺してしまいたかった。
赤井秀一ではない俺のことなど、見つけてほしくなどなかったのに。
「お前は、いつも、俺を見ていたんだな」
墓石は何も言わない。変わらずぷかぷかと白檀の香りを吐き出し続けている。風が吹けばたゆたって、俺が吐き出す紫煙と混ざりそのまま空に溶けていった。
明美はもう、どこにもいない。
「俺は……、俺は、世良秀一。それが俺の名前だ」
声はもう、どこにも届かない。
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カラコロとドアベルが鳴る。いらっしゃいませと男の声が柔らかく、少しだけ低く、あたりに響く。
空いた席へと、言われるよりも早くやってきた二人は前へ進む。見慣れない組み合わせに、少しだけ顔をほころばせた男に一瞥して、カウンター席の一番奥、もっともキッチンがよく見える席に引き寄せられるようにして足を進める。
こんにちはと、すれ違いざまに挨拶を交わす。答える声も、微笑んで返す。こんにちは。
少し日が傾いた今の時間には、三人の他には誰もいない。
手慣れた様子で、男はコーヒーを注ぎ始める。まだまだ陽気が勝る今日この頃、差し出されたアイスコーヒーに、二人はもちろん文句をこぼすこともなく口をつける。傾いたグラスになみなみ注がれたコーヒーは、二人の喉を潤した。蒸らしたほどではない、ほのかなコーヒーの香りが鼻を通り抜ける。
とても静かな、明朝のような静けさの中、キッチンが手際よく料理を生み出す音だけがわずかに騒がしい、パチパチと油が跳ねる音がして、香ばしいベーコンの匂いが周りに広がる。
何を作っているのかと、やってきた片方が男に尋ねる。その返事は卵がフライパンに落とされた音でかき消されたが、じゅうじゅうと焼きあがる目玉焼きは言葉以上に雄弁に己の存在を主張している。なんだか朝食みたいねと、もう片方は笑った。
「この間の答えだが」
コトリと二人の前に、二人前のベーコンエッグとこんがり焼かれたトーストが差し出される。半熟に焼き上げられた卵はつやつやと輝いていて、フォークで割ればとろりと中身をさらけ出すのが見て取れる。不要な油を除かれたベーコンに濃厚な黄身がかかれば、えも言われぬ美味しさをもたらしてくれることだろう。
返事をするべきは、志保ではないよな。自分用にと焼いたトーストをざくりと齧りながら、男は言った。カウンター席では、並んだ二人が各々、トーストにバターやジャムを塗っている。男の言葉に耳を傾けながら、思い思いにそれを食事と共に咀嚼して、飲み込む。
胃に落ちたものが溶かされ、体に吸われるように、男の言葉は二人の胸にするっと解けた。
「俺が死んだら、地獄で彼女に伝えよう」
そう。一人は静かにそれだけこぼして、バターが塗られたトーストで皿にとろけた黄身を掬った。
そっか。もう一人もカリカリのベーコンを奥歯で嚙み潰しながら、からりと笑った。
「ありがとう、二人とも」
おかげで俺は、生きてゆけるよ。男はいつだか流した涙などなかったかのように、とびきり綺麗に笑った。悲しいことなど何もないのだと、明るく笑った。ある意味全て嘘だったが、それが男にとっての手向けだった。愛した女への、想いだ。
そしてそれは、誰にも伝えられることはない。
地獄で君に愛をうたおう。