幸せだったと。幸せにしてあげられなくてごめんと。
別れ際に聞いていい台詞ではなかった。何故なら、そんな台詞は偽りだからだ。俺がたどり着くべき言葉ではなかった。
言わなきゃわからないと詰られる未来を得るために、動いてきたはずだったのに、彼女は俺に謝罪を述べた。何も返してあげられなかったと。何もわかってあげられなかったと。
ああ、俺は。そんな言葉を聞きたかったわけじゃないんだ。
「俺は、お前を騙していたんだぞ? そしてそのせいで、お前が死ぬかもしれない」
「大くんのせいじゃないよ。でも、そうね。悪いと思ってくれるなら、次会った時にあなたの名前を教えて? 約束よ?」
なあ、明美。俺は、お前に名乗る名前すら持たない、薄情な男なんだよ。だから、どうか、俺を。
「終わったな」
そう言った赤井さんの顔を、俺はよく覚えている。
目の前には奴らの本拠地が構えていて、火の手は上がっていないがところどころ吹き飛んでいた。銃声も爆発音も静まり返り、誰かの慟哭が響いていた。呪いの声だった。怨嗟の息だった。
ああ、あんな奴のせいで。
ぎりぎりと拳を握り締める俺の手を、そっとほどいたのは赤井さんだった。ひどく骨張った、古傷の多い手だった。彼の人生を物語るようなその手は、どうしようもないほど優しく、無意識に力を込める俺の手を撫でた。
しゃがみ込み、顔を覗き込まれたのは初めてだった気がする。赤井さんは、俺を子供扱いすることがほとんどなかったから。
よく頑張ったな、ボウヤ。広げられた手を両手で包まれながら、赤井さんは俺を褒めた。よくやったと労われたことは幾度となくあったが、褒められたのは、この時が初めてだったと思う。
赤井さんとは、何度も何度も危ない橋を渡ったし綱渡りのような博打も繰り返してきたけれど、いつだって彼は俺が失敗するなどとは思っておらず。小気味いいプレッシャーで俺の背中を押してくれていた。その信頼が心地よくて、俺は懲りずに無茶をしたし、その度に色んな人から怒られた。特に宮野。
思い返すと、宮野が赤井さんのことを毛嫌いしているのに俺も一役買ってしまっている気がする。ごめん。
「赤井さん?」
「ボウヤに、聞きたいことがある」
「えっ、なに?」
「君から見て、俺はどういう人間だった?」
赤井さんは、頼りになる人だった。頭が切れて、判断力に優れ、ここぞという時に必ず決めてくれるという信頼があった。俺を子供扱いせずに、一人前として見てくれた。頼ってくれた、頼らせてくれた。相棒のようだと、勝手ながら思っていた。
そういうことを、俺は比喩交じりに伝えた。ストレートで言うにはあまりにこっぱずかしい内容だったので。
コナンの姿だったのだから、別にそのまま言えばいいものを。それくらい、俺は赤井さんに対等に見られたかった。見てもらえていると思っていた。だから、見てもらえるように背伸びをした。その思考がそもそも非常にガキ臭いのだが。
思いの丈を伝える間、赤井さんはじっとこちらを見ていた。いつもの鋭い目つきには程遠く、全てが片付いた安堵感からなのか、目元からは力が抜けていた。
その時初めて、赤井さんと世良、羽田名人が兄妹であると感じた。この人は、こんな顔が出来たのか。ライフルを手足のように扱うとは思えない手付きと相成って、本当に一瞬、目の前にいる人が赤井さんなのかと疑った。疑うまでもなく、ずっと目の前にいたのは赤井さんだったのだけど。
「赤井さん、本当に、ありがとう」
締めの言葉として、俺が選んだのは感謝の言葉だった。一言だけでは到底足りないが、それでもどうしても伝えなければならないのは感謝だと、俺は思ったから。
俺の謝辞に、赤井さんは一度瞬きをし、開いた目はいつもと同じ強さを携えていた。
「そうか」
言葉を区切らせ、彼は言った。
「君は、俺に礼を言ってくれるんだな」
当然だと、反射で返す。数え切れないほど助けられ、赤井さんが居なくてはなし得ないことが山のようにあった。彼自身、自分がどれほど貢献しているか理解出来ない人ではないし、謙遜するようなガラでもない。必要なことを理解している人で、実行に移せる人だ。そうやって、むちゃくちゃながら、ここまで来て。
「こちらこそ、ありがとう」
力強く握られた手は、皮膚が硬かった。マメが何度も潰れた手だ。甲も薄い傷がいくつも付いていて、彼の人生の壮絶さを教えてくれる。当然だろう、赤井さんは、射撃だけではないのだ。降谷さんと殴り合えるぐらいには近接戦闘だってできる。彼は本当になんでもできる。だから組織壊滅のこの日を迎えられた。その立役者。
特別な人間なのだと、信じていた。
「ボウヤにそう言われるために、俺はここまで来たのかもしれないな」
どういう意味だと問う間もなく、赤井さんは立ち上がり、激しい戦闘の末ボロボロになってしまった建物を見る。誰かの慟哭はもう聞こえない。静かな静かな闇夜の中、赤井さんは一言、呟いた。
「終わったな」
あの顔を、俺はよく覚えている。どこを見ているのかも定かでなく、誰に言ったのかも定かでない。何度か呼んでも返事はなく、一度だけこちらを振り返り、行こうか、ボウヤと歩き出した。
いつも通りの捻くれた笑みを浮かべていたのに、不安を覚えたのが忘れられない。終わったなと言った赤井さんから、喜びを感じなかったのが恐ろしかった。彼は、この日を待ち望んでいたのだと信じていたから。
それ以降、俺は身体的な問題で赤井さんに会える機会もなく、宮野と研究所に籠る日々が続いた。二ヶ月ほどかけてようやく身体は元に戻る目処が立ち、別れや再会の準備を始めた頃、ようやくアメリカに戻るという赤井さんと会う時間を得た。久しぶりに会う赤井さんは、いつも通りの赤井さんだった。
「やあ、ボウヤ。久しぶりだな」
「久しぶり。アメリカに帰るんだよね?」
「ああ。これ以上ここに居ては、降谷くんに殴られそうだ」
さすがにそれはないんじゃないかな、とは言えなかった。作戦が完了してから降谷さんは、赤井さんに対して不快感を隠すことを綺麗さっぱり辞めてしまったから。顔を合わせれば顔を顰め、言葉を交わせば棘が混じる。
赤井さんは一向に気にしていないのがなおよろしくないのだけど、赤井さんはどこ吹く風だ。あの日見たのは幻覚だったのかと思えるくらい、何も変わっていなかった。
世間話もそこそこに、赤井さんは俺の名前を呼んだ。工藤新一くん。いつも通りの顔で、赤井さんは初めて俺の名前を呼んだ。
「君に会えて、よかったよ」
それじゃあ。柔く細められた目元は、あの日を彷彿とさせたのに、俺はその言葉にどうしようもなく喜んでしまって。認められた喜びに固まっている間に赤井さんはアメリカに帰ってしまって。それでも。やはり胸の奥に引っかかりを覚えたまま過ごして二週間。赤井さんは居なくなってしまった。
降谷さんは何処ででも生きていけると言う。世良は何かあれば知らせると言う。宮野はそんなこと知ったことではないと言う。心配要らないと、誰も彼もが赤井さんを心配していない。
そんなこと、俺だってわかっている。わかっているから、不安なのだ。赤井さんを知っているなんて、そんなのは俺の思い上がりなのだと、あの日の俺が警告している。
彼の望みはあの日にない
俺は、役目を全うした。してしまった。