八月 七日。
何で生きてるんだろうなぁ。私。心底不思議だ。
おはよう! ニーナ!
あぁ、おはよう。羽ペン。時間的にはこんばんは、だと思うがね。
……それで? 君が状況を説明してくれるのかい?
んー? それはレナ=サンに聞くべきでは? 私はいぶかしんだ。
…………それは、そうなんだが。
いや、だが、その、私はレナに殺されたんだぞ? いや、殺されてはないが、首を絞められたのはちゃんと覚えている。覚えてしまっているんだ。今も首を絞めているチョーカー。その上から強く、首の骨がきしむほど絞められて……忘れる訳がない。ないんだよ。羽ペン。
あぁ、言うな。分かっている。分かっているさ。あれがレナの本意ではなかった事ぐらい。それぐらい分かっている。戦場におけるフレンドリーファイアによる死亡率が高い事ぐらい、知っているとも!
ましてあのときは霧が出ていたし、ニセモノ野郎……ゲームでは特定キャラの個別ルートにしか出てこないレア敵だって出張って来ていた。フレンドリーファイアぐらい起きるだろう。
そう。フレンドリーファイア。誤射だ。一発だけなら誤射かも知れないと、よく言うだろう? それが、それがたまたま私とレナの間に起こっただけ。不幸にも二割の確率に引っ掛かっただけなんだ。分かっている。分かっているよ。羽ペン。分かっているんだ。私は、ちゃんと。
……怖いの? ニーナ。
怖い? ……いや、違う。違うよ。レナが怖いなんて、あり得ないさ。ただ、ちょっと、上手く笑える自信が無くてね。
暫く、時間が欲しいだけだとも。
それに、幸いにも、レナも私に会いたくないらしいしね。
部屋のソファーで寝息を立てているのは、あれは、エマ先生だろう?
それだけで察せる。察してみせるさ。私は気遣いと甘えの国から来たんだ。レナが何を考えているかぐらい、分かってみせるとも。
八月 八日。
エマ先生曰く、魔王軍侵攻部隊迎撃作戦は大成功に終わったらしい。
迂闊にも強行進撃してきた敵軍は完膚なきまでに叩きのめされ、軍団は完全に瓦解。僅かな生き残りも散り散りに逃げ出している状況だそうだ。
まぁ、大軍同士で削り合いをしている所を、吸血鬼を含む死霊軍に横っ面を殴られ。挙げ句中枢部にまで入り込まれて指揮系統をズタズタにされて。しまいには少数精鋭の部隊に回り込まれて退路を断たれていたとあれば……さもありなんと言ったところか?
奴らの殲滅は、恐らく時間の問題だろう。逃げている生き残りには、貴族連合が既に追っ手を放っているらしいしな。
あぁ、それと。そうやって魔王軍が完全に撃破されつつある一方。貴族連合の幹部に死傷者は出ておらず、嬉しい事に学園の人間にも死者は出ていないそうだ。
正に完勝。両軍の損害比を比べる必要すらない、完璧なまでの勝利。この結果だけを見れば、軍神ハンニバルのカンネーの戦いや、アドミラル・ネルソンのトラファルガー海戦と同じ……世に言うパーフェクトゲームを達成したと言っていいだろう。
圧倒的ではないか、我が軍は。
後ろから撃たれたいのかい?
まぁ、羽ペンが茶化したくなるのも分かる。私だってこの結果だけを見ていられれば、浮かれて小躍りしていただろうからね。……あぁ、この結果だけならば。
そう。そうだ。戦争が起きて、殺し殺されて、それでこの結果だけが残るなんてあり得ない。まして総指揮官は軍神ハンニバルやアドミラル・ネルソンではなく、口だけは達者なトーシローばかりだったんだぞ? あり得ない。あり得ないとも。
……結論を述べよう。貴族共は無傷だった。学園側にも死者は出ていない。
だが、それは、逆を言えばそれ以外に被害が出ているという事でもあるのだ。現に貴族共の前で戦っていた平民兵達は壊滅的被害を受けており、文字通り全滅したと言って差し支えない程の死者が出ている。また学園側も重軽傷者が極めて多く、戦闘行動はほぼ不可能だ。
これを被害が少ないと取るか、被害が出てしまったと取るかは、受け手次第ではあるが……いや、前者の考えが先に出てしまう時点で、既に語るに落ちているな。私がいかに救いがたい生き物なのか。今更言うまでもあるまい。レナに殺されかけたのも、むしろ道理というものだ。因果応報。天罰というものだろう。
ニーナ……
言うな。羽ペン。分かっているんだ。分かっているから、言わないでくれ。頼む。
今だって、吐きそうなんだ。頭の中はガンガン鐘が鳴ってるし、ミミには数分置きに死者の幻聴が響くんだから……いや、吐き気で済んでるのは奇跡なのか?
死にたくない。
痛い。苦しい。熱い。寒い。憎い。妬ましい。
死ね。死ね。死にたくない。
もう、うんざりだ。少しでも意識が浮つけば、ミミに幻聴が押し寄せてくる。休む事は出来ない。息も抜けない。眠る事すら、魔法による補助がいる。最悪だ。
最悪だが、しかし、今心労で倒れる訳にはいかないのも事実。まだ戦える生徒達──ユウやアリシアを筆頭とした人員──彼ら彼女らを戦力として選別し、戦闘可能な状態に再編成して、警戒態勢を取らせねば……あぁ、救いがたい。実に救いがたいな。私は。
自分は戦えないクセに。年下の生徒達には死ぬ準備をさせている。こんな奴が、こんな卑怯者が、レナに好かれるものか。
けど、それでも。
やらなきゃ、いけない。どんなに嫌われてもいい。まだ戦いは、終わってないんだ。
八月 十一日。
レナに会わないまま、三日。
ここまで会わない事は……それなりに仲良くなって以来、一度として無かったせいだろうか? 頭では分かっているのに、それでも困惑が強くなってきている。
なんでレナが居ない? なんで私はレナの側に居ない?
今すぐレナに会いたい。会って話がしたい。一緒に居たい……軟弱で、女々しく、恥ずかしい話だ。男らしさの欠片もない。
……あるいは、幻聴のせいで心が弱っているからなのかも知れないが。いや、だとしても、だからこそ、レナに頼るなんて真似は、出来ない。顔を合わせて、甘えたいなんて。論外だ。
しかし、幸か不幸か。そうやって意地を張れるのも今日までの話かも知れない。
何せ明日からは主だったメンバーがエマ先生の引率の元、アリシアの親父さん主催の──豪勢な事に数日間掛けて行われる──戦勝パーティーに出かける為、介護担当者がエマ先生からレナに変わるのだ。
やっとレナに会える。そんな思いが無いではない。甘えたいという気持ちが無いと言えば、嘘になる。だが、しかし、今の私の胸中を占めるのは……どんな顔をしてレナに会えば良いのか? そして戦勝パーティーに出掛けた生徒達は無事に帰ってくるのか? そんな二つの悩み事だけだ。
前者は、この際捨て置こう。どうせどうにもならない。それに私がレナに嫌われていようとも、やる事に変わりはないのだから。
だから、だから大事なのは戦勝パーティーの方。勝ってもいないのに戦勝パーティーとは、随分余裕がある事だ……と皮肉を飛ばして嗤ってやりたいところだが、これが敵の催眠野郎やらニセモノ野郎共の張った罠だと知っていれば、話は別。策が、必要だった。
とはいえ、主催者の娘であるアリシアが出ない訳にも行かない以上、打てる手はそう多くなく……私はやむなく、抽出編成した戦力を全て投入する事になった。お陰様でこの保養地には怪我人とレナしか残っていない。
いや、それはいい。それはいいのだ。別に。問題は危機に直面する生徒達に、ロクに援護もしてやれない事……毒殺や謀殺等の暗殺に注意しろとは言って置いたが、それでどうにかなるなら最初からサーシャが何とかしているだろう。だが原作ではそうなっておらず、となれば……あぁ、悩ましい。悩ましいね。これは。
八月 十二日。
気まずい……
非常に、気まずい。何が気まずいって、レナだ。彼女が私の部屋に来てくれたのは嬉しい。少なくとも部屋に来て顔を合わせるぐらいには、嫌っていないと分かったから。
だが、そうして顔を合わせて、流れで軽く挨拶して以降。何の会話も無いのは……つまり、そういう事なのだろう。
敵ではないが、味方でもない。
そんな立ち位置にまで、私は成り下がってしまったらしい。……恋人だった、とは言わないさ。けれど、世に言う、友達って奴にぐらい。なれた気でいたんだけどな。
やっぱり、私じゃ駄目らしい。
何でそうなるの?? ぜっっったい違うと思うんすけど。ですけど!!
……そこまで言うか。羽ペン。
言う。言う!! この件はニーナがおかしいと思います!!!
そうか。……そうか。それなら、どれだけ良いだろうな。
だが、現実なんてこんな物だ。レナは私に視線の一つすら寄越さず、私も彼女の圧力に負けてうめき声一つもらせない。羽ペンが、君が代筆してくれなければ、この日記を書いてお茶を濁す事も出来なかっただろう。
重苦しい空気。羽ペンには、身体を持たない君には、この空気は分かるまい?
む。確かに、私に身体はないけど……
……いや、すまない。今のは、私が悪かった。だが、こんなものなのだ。こんなものなんだよ。羽ペン。
しかし、いや、そうだね。何もしないというのは、確かに良くない。……グリフォンと死霊騎士を呼び出してレナの代わりに怪我人の護衛に付けて、ゴースト隊を編成して夜間だけでも監視態勢を構築しておこうか。傷がうずくせいで、身体はロクに動かないが……死霊術の行使は、出来るのだしね。
八月 十三日。
ニーナ? ……ニーナ?
寝てる……?
むぅ。お寝坊さんめ。
ふて寝みたい。そうやって我慢して泣くぐらいなら、レナに会いに行けば良いのに……
でも、ニーナ、ものすっっっごい意地っ張り屋さんだからなぁ。そういうとこは嫌いじゃないけど、こういう時はなぁ。
うーん? どうしよう? どうすれば良いのかな……
八月 十四日。
ニーナの代わりに日記を書いている魔法の羽ペンは誰でしょう?
そう! 私です!!
ニーナとレナのすれ違い(どう見てもすれ違い)がめんど……見てられなくなったので、私、介入する事にしました。
魔法の羽ペン。これより武力介入を開始する……!
ニーナは私の事をちょっとしたAIぐらいにしか思ってないみたいだけど、実際には■■■■■だし……あれ? 書けない。■■■■■。うん? ■■■■■。■■■■■■■■■■!
うーん? なら■■■■。■■■? ■■。■■■■■■、■■■。……あ、そうか。ニーナの国の言葉じゃ、このまま書けないのか。納得。なら■■■■■、おぉ、書けない。不思議。ニーナが普段から言ってる■■■■■とか、■■■。■■も? 書けないねぇ! うーん。抽象的なのが悪いのか、私単独で動いている弊害か、あるいは私の言語変換能力にも限界があったという事かな……? まぁ、確実に■■■■■とか■■■■■■■とかは絶対に書けないと思ったら書けなかった。実質的な神の名だし、それはそうか。
そんな超すごい私の事をニーナは…………うーん。例えばALICE。正式名Advanced Logistic&In-consequence Cognizing Equipment(発展型論理・非論理認識装置)ぐらいにしか考えてないみたいだけど、実際はEXAMシステムとUC三号機の中間みたいなサムシングだし……語弊を恐れず言えば、魔法学校二巻の日記君なんだぞ。充電が完了した私は凄いのだ!
サイコフレーム製の羽ペンとは、私の事……
そして必要である魂も、ニーナの魂の二割をモグモグした後。今や私は自由に思考、行動する事が出来る……!
という訳で、レナ=サンにニーナの名前で手紙を書いて来ました。
それはもう、レナの思考が真っ白になって、そのままニーナに噛み付いちゃう様な……ニーナのこの世界での過去とか、ニーナが今何を考えているのかを、ちょっと、ほんのちょーーーとだけ脚色して。
これもニーナの知識のちょっとした応用だ……
これならきっと、仲直り出来るはず。
そもそも、ニーナもレナもお互いがとっても大好きなんだ。気遣いの方向が明後日に向いてるせいで仲違いしかけちゃってるけど……でも、ニーナとレナは一緒に居るべき。ニーナの知識もそう言っている。
お、この魔力は……レナが来たね? どうなるかな? ニーナの知識だと、悪くはならないとおも……おおっと!? おぉ、おお! 良いぞ、良いぞ!
行け、押し倒せ! 行け、いっちゃえー!!
八月 十五日。
羽ペン。お前、お前この、お前ェ!!
…………まぁ、良い。今日の私は機嫌が良いからな。仮にお前がT字型の新素材だろうが、引き裂いた魂の入れ物だろうが、別に構わん。
まして、レナと仲直り出来た理由がお前にあるのなら……私の魂をかじるぐらい、好きにするといい。なんならもう一割持っていけ。お辞儀様に出来たのだ。私に出来ん道理はあるまい。
……良いの?
良いさ。そもそも、こうなる事も想定して使っていたからな。……まさか、この私がお前の、人の思考をトレースする闇の魔法具の危険性に気づいてないと、本気で思っていたのかい? だとすれば、随分とナメられたものだね?
……えっと。その。
ごめんなさい。
…………ん、気にするな。その謝罪がどんな感情から来たものなのか? 生憎私には分からない。私には人の心が無いのでね。だから、私は私の成すべきを成す。
羽ペン。
…………うん。
少なくとも、私の魂は致命傷を負っていない。
それがお前なりの気遣いであり、本能に逆らった成果だと仮定して。お前に一つ、確約しておく。
もしそうならば、私の死後、この身体は好きに使うと良い。私が死ぬ様な目にあって、それでもこの身体が残るならば、だがね。
…………ニーナ?
羽ペン。お前の覚醒は、私に取って都合が良かったよ。
ねぇ? ニーナ? ニーナ!
なに、今更、思い出した事があってね? 帝国再建の為には、今日やっておかなければならない事があるんだ。簡単な仕事だから、万が一は起こらないと思うが……
いや、違うな。今日に限った話じゃない。
羽ペン。私の身体をやるから……どうか、万が一の時は。レナを、頼む。
ニーナ? ねぇ、ニーナ。なんで、そんなに……
ニーナ?
ニーナ!!
うぅ、バカ! バカニーナ!
ニーナが、ニーナがその気なら。私も、考えがあるんだからね……!
……………………
…………
……
夜。月明かりだけが静かに地を照らすはずの時間に、明々と魔法の光に照らされた場所があった。
ドーントレス家、本拠地。だだっ広い屋敷の中でも特に広い大ホールの中で、きらびやかな貴族の夜会が開かれているのだ。
戦火が広がり、多くの人々が血を流す……その中で。
「本当に、なんて……」
醜悪なのか。そう吐き捨てそうになった口を咄嗟に噤むのは、ドーントレス家の次期当主にして、現当主の一人娘であるアリシア・ドーントレス。その人だった。
「お嬢様」
「分かってます。……大丈夫ですよ。サーシャ」
自分の独り言が誰にも……後ろに控えるメイド一人を除いて聞かれていない事を確認した彼女は、幼なじみとも相棒とも言えるメイドに頷きを返した後、小さくため息を吐く。何と愚かな事だろうかと。
それは悪化し続ける時勢が全く読めていない同胞達へのため息であり、こんな物がきらびやかに見えていた……過去の自分の能天気さへの、嫌気の証明でもあった。
「灯台としての光は必要ではあるものの、同時に無駄も多い……そう感じるのは、あの先生の。ニーナ先生の影響でしょうか。ねぇ? サーシャ」
「……お答え、しかねます」
「ふふ。大丈夫ですわよ。毒されているのは、自分が一番良く分かっています」
そうやわらかな笑みを従者に返しながら、アリシアはふと考えずにはいられない。ドーントレス家の淑女として必要な教育だけでは、まだ不足だったのだと。そして、それを幾らか埋めてくれた二人の先生の……片割れの事を。
──ちゃんと休んでくれていると良いのですが……
まぁ、無理でしょうね。そうアリシアが即座に苦笑したのは、ある種の信頼故だった。あの先生が黙って療養するはずがないと。
何せ彼女は両足を失った時ですら、一週間と経たない内に現場へ復帰した女傑なのだ。並の男よりも漢らしい矜持を掲げ、歯を食いしばってでも若人の手本とならんとする彼女が、今更腹の刺し傷程度で療養してくれるとは……とても思えないのが、アリシアの本音であり、同級生全ての共通認識だった。あの頼れる先生が、この程度で倒れるはずがないと。
──実際。ニーナ先生は学園に居る誰よりも、頼りになりますからね……同年代にしか、見えませんのに。
そう、同年代にしか見えない……そのはずなのに。ニーナ・サイサリスは学園一の漢だ……とは、誰が言った冗談か。しかし、足が潰されてもなお戦い、手が塞がれても口で抗い、断固として退かず、媚びず、振り返りもせずに戦い続け。そうして守ると決めた物を意地でも守り通すその姿は……お世辞にも、少女らしいと言える物ではなく。
女教師というより騎士団長。そう思わずため息を漏らし掛けたアリシアの脳裏に、自然と浮かぶのは……件の恩師の姿。
いつも斜に構えている皮肉屋の……けれど他の誰よりも必死で、頑張っていて、時折年上の様にも感じられる同年代の──少なくともそうにしか見えない──黒狼族の少女。
ふわりと豊かな尻尾をゆらし、どこか得意げに授業をする先生の事を思い出して……ズキリ、と。心が痛む。そんな彼女の両足は、今は無いのだと。そして、そんな彼女がまた傷ついたのだと。思考が、追い付いてしまう。
「っ……」
ニーナ先生なら大丈夫。ニーナ先生なら問題無い。そうどこか茶化す様な考えが無いではない……いや、そうでもしないと心が痛くて仕方ないのだ。
確かにちょっと口煩いし、嫌味なところもあるけれど、だからって……あんまりではないか、と。
いったいニーナ先生が何をしたというのか? 彼女にはもう足が無いのだ。あれだけ頑張っているんだ。成果だって上げている。なら、もう休ませて上げても良いのでは? そう何度となく思考に上った考えが、思考を支配する。如何に頼れる先生であろうと、どれだけ相性が悪く、苦手に思っていようと……だからといって、それで死ぬまで戦えとは、口が裂けても言えない。言いたくない。
……それ、なのに。
──ニーナ先生。貴女は、決して止まらないのでしょうね。
もう少し貴女が女性らしくあれば、どれ程簡単な事だったでしょう。そう皮肉めいた思考がアリシアの頭に上り、それをかき消す為に嫌々ながら現実へと視線を戻して……数秒。あまりの醜悪さに耐えきれなかったアリシアは、再び意識を学園生活へとむけてしまう。
あぁ、ホンの数ヶ月しか過ごしていない学園生活のなんと輝いている事か! 少なくとも無駄に贅を凝らした餌を貪りながら、過去の自慢話や些細な愚痴に終始している豚の群れよりも、あの学堂に集った者達の方が遥かに価値がある!! ……そう責務を放棄した者達にアリシアが侮蔑の視線を向けると同時、彼女の脳内で記憶のニーナ先生が囁く。そう言ってしまうのは豚に失礼だよ、と。
──先生。先生なら……
アリシアには、彼らが家畜にしか見えなかった。今は戦時だというのに。老いて、腐敗し、停滞した彼らが、領民から奪い取った財を浪費する彼らが。そうにしか見えなかったのだ。
故に、先生ならば、と。そう思ってしまうのは仕方のない話だったのだろう。先生には、どう見えますか? と。あの人には、この世界がどれだけ薄汚れて見えるのか? その中で輝く一等星など、あり得るのか? 仮にあり得るなら、それは……それは…………
「──シア。アリシア」
「ん……ユウ? どうかしましたか?」
深く、思考の海に潜り過ぎていたのだろう。アリシアは不覚にも従者の声に直ぐ様反応出来なかった。
ユウ……ニーナ・サイサリスの手によって導かれた、もう一人の従者。友人。あるいは……と、そこまで──恩師の影響を受けた──思考が回り、ふと、疑問が浮かぶ。ユウはこの場には居ないはずだと。だって彼は外の警備についたはずなのだ。それが、なぜ?
そんな疑問を浮かべる彼女に、ユウは小さな声でひっそりと告げる。魔物が近くに居る、と。
「──それは、確かですか?」
「うん。魔王軍かは分からないし、襲う気があるのかも分からないけど……ただ、敵の小隊が近くに居るのは間違いない。見つけたのは偶然で、たぶん監視の兵だとは思うけど……」
どうする? と。言外に視線だけで問うて来るユウ。そんな彼に言葉を返せなかったのは……やはり、というべきか。恩師の言葉を思い出したからだ。
『あぁ、アリシア。サーシャも。忙しいところよく来てくれたね。……ん? いや、実は今回のドーントレス家の動き。そして魔王軍の編成や引き際。そういった諸々に、どうにも奇妙な物を感じずにはいられなくてね? 神に教典だとは思うのだが、一応。警告しておこうと思ったんだ。……罠に、注意したまえ。何度考えても違和感が拭えないんだ。このまま終わるとは、思わない方が良いと思うよ。私はね』
ニーナとアリシア。皮肉を解する二人の会話としては、珍しくも皮肉の一つもなく終わったその一幕。その余裕の無い真剣な様子に、アリシアも本気で受け止めてはいたものの……それでも、思わずにはいられなかった。まさか、本当に? と。
だって、この場に居る誰も想像すらしていなかったのだ。それを前もって警告したニーナ先生の戦略眼は、正しく未来が見えているとしか言いようのない物で……そして、そこまで思考が追い付いた──次の瞬間。ガシャァン! と。ガラスが割れる音がホールに響く。
「お嬢様! こちらへ!」
敵襲だ!
そう反応出来たのは、学園の生徒達と教師が一名のみ。飛び散るガラスから身を退き、ユウとサーシャと合流したアリシアの視界には……大別して三つのものが見えていた。
一つ目は、臨戦態勢を整える教師と同級生の姿。
二つ目は、何が起きたか分からず、悲鳴や罵声を上げるのがやっとのその他大勢。
そして、三つ目は……
「魔王軍の、下級戦士……!」
闇夜に浮かぶ、魔王軍の下級戦士達。多数のインプと少数のレッサーデーモンは、学園生徒が幾度となく目撃、対峙、撃破してきた魔王軍の下級戦士であり。故に、学園戦力の動きは機敏かつ的確だった。
儀礼用と偽って持ち込んだ武器を引き抜き、あるいは隠し持っていた暗器を取り出し、司令塔であるエマ先生を中心に陣形を整えつつ……同時に、退路の確保も怠らない。それは正しく阿吽の呼吸としか言い様のない連携であり、実戦で鍛えられたからこそ出来る高度な技術で……自然、名ばかりの実戦しか経験してないその他大勢の崩れ具合いはいっそ嘆かわしい程だった。
「お嬢様、彼らは……」
「放って起きなさい。エマ先生にもそのように。……彼らの介護をしている余裕は、ありませんわ」
魔法を、あるいは儀礼用のサーベルや、壁際に置かれた騎士鎧から武器防具を拝借して立ち向かおうとする者達はまだいい。総じて十人も居ないだろう事もあって、彼らを勘定に入れて動く事はそう難しくはないだろう。
だが……怒鳴り声を上げながら我先に出口へと殺到するその他大勢の面倒を、介護をするのはどう見ても不可能だった。押さない。走らない。喋らない。そんな基本的な事すら出来てない彼らを助けるのは、一介の武装勢力でしかない学園には荷が重すぎるのだ。ともすれば、重荷に潰されかねない程に。
そんな考えを一瞬のうちに走らせたのは、何もアリシアだけではない。恩師の薫陶というべきか? それとも積年の不満が結実したのか? 学園の生徒達は、ある種の非情さを発揮したのだ。即ち、肉盾にはなるか? と。当然、逃げ惑う彼らを助けようという者は、一人も居なかった。
……故に、その後の乱戦は計算通りでしかなかった。そもそも地力に優れた彼らが、連携を乱す事なく立ち向かえば、奇襲頼りの魔王軍に為す術はなく、その勝利は確実と言っていいのだから。
しかし、同時に。マルチタスクを駆使して、あるいは思考を走らせれる程の余裕を持った者が居たかといえば……それは、居らず。
だから、彼ら彼女達は気づかなかった。
最初にガラスを叩き割ったそれが、闇色の魔法弾だった事に。そしてそれを放てる個体が途中から遅れて参戦した事に、疑問を持つ者は居なかったのだ。
……そう、それは正に想像外の可能性。
まさか、まさかガラスを叩き割ったのが味方だと。味方が撃った物によって戦線が開かれたのだと。そんな事を誰が思うだろう? これから何が起こるか? 未来を知っていなければ出来ない大胆にして繊細な一手を、誰が打つというのか?
「──ふん。会場は、優勢か。まぁ、不意打ちが無ければそんなものだろうねぇ。貴族も腐敗した連中ばかりという訳ではなかった様だし、あれでは苦戦すらするまい。増援も断っている以上、屋敷に紛れ込んだニセモノ共がボロを出すのも時間の問題。……勝ったな」
襲撃された夜会。その現場のすぐ横にある林の中。黒いローブに身を包んだ人影が、ブツブツと独り言をたれ流し続ける。
槍にも似た杖を持ち、時折ミミをピンッと立ててはフードをズラしてしまう小さな人影。傍らにグリフォンを従える彼女の正体を看破するのは……知っている人間からすれば、あまりに容易だろう。
「ん? あぁ、証拠の品は見つかったかい? ……なるほど。やはりあったか。ふむ? 汚職、密売、賄賂、殺人、傷害、暴行、脅迫、誘拐、監禁、窃盗、略奪、ニセ金作りに非人道的な研究。しまいには外患誘致に人身売買……全く、これじゃ不法行為の一覧表じゃないか。バーゲンセールにも程がある。どれか一つだけならまだしも、一通りとなると救いようがない。あぁ、証拠品は可能な限り回収したまえ。連中を脅せる材料は幾らあっても困らん」
邪教の輩に繋がるであろう人身売買を優先にね。そう虚空に呼び掛けながら、彼女はゴーストから受け取った紙束をポイッと自身の影の中へと放り込み。火の手が上がったドーントレス家の屋敷を見つめる。
どこか迷っている様な、後悔している様な、淡い瞳で。じっと。真っ直ぐに。
「平和の中に哲人王は生まれず、青い血は腐り落ち、賢人会は衆愚政治に陥って……今や革命の時、か。戦争、平和、革命の三拍子が永遠と続くのは、人類史の常ではあるが……」
時期が悪い。
そう王国の命運をバッサリ斬って捨てる少女。ニーナ・サイサリス。彼女の目に映るのは火の勢いが止まらない館でも、滅びゆく王国の命運でもない。
ここには居ない少女の姿。そして彼女が座るだろう皇帝の座と、それを支える未来の帝国の姿で……だから、だろう。現実逃避気味に深く思考の海に潜っていたニーナは、その羽音に気付くのが遅れた。致命的なまでに。
「……レナ?」
最早聞き慣れた羽音が、ニーナのミミに響く。バサリ、と。力強さすら感じるその羽音がニーナの背後で止まり、それと同時に草を踏み締める音がしたとき……には、今更逃げても仕方がないと観念したのか。大人しく手を上げて降参の姿勢を示す。参ったよ、と。
「随分、早い到着だね? レナ」
「? うん。書き置き、しておいてくれたから」
書き置き? そんな物をした覚えはないのだが、いったいなんの事だい? そうニーナの思考が回り、問いを発しようとした口は……しかし、開く事は無かった。
大きな安堵。それに隠れた怒りと悲しみ。そしてニーナには理解出来ない……深い色。それらを全て内包した赤い瞳が、ニーナをじっと見据えていたから。
──ん、参ったな……これは。
どうすれば良いのか? どうしたら良いのか?
カンニングしようのない問いにニーナが答えに詰まり。そんな彼女をレナは相も変わらずじっと見つめ。近くの館では火の手が食い止められ、戦いが終わりに近づき……
そんな一幕を、ただ、闇だけが暖かに見守っていた。幼き殿下に理解者あれ、と。
ニーナの羽ペン。
不死性を持つ古き霊鳥の羽。決して尽きぬ魔法のインク。何より当代一の優れた作り手。当時望み得る最高の条件の元で作り出された羽ペンは、しかし、制作者の思惑を超えた強い力を持って生まれてしまった。
いや、あるいは、必然だったのかも知れない。無限の再生と尽きぬインク。それらを持ちながら、羽ペンにはそれらを支える炉が無かったのだから。
尽きぬ力を持つが故に、有限たる使い手の魂を枯れるまで吸い取ってしまう……呪われた魔法の羽ペン。
彼の羽ペンは次世代の礎となりはしたものの。その強すぎる力を恐れた制作者の手によって、永遠の封印を施される事になった。
誰にも愛されず、捨てられた魔法の羽ペン。決して救われる事は無く、かといって朽ちる事も出来ず。世界が終わるその時まで、永劫の孤独の中に要るはずだった羽ペンは……しかし、長い時の果てに自身を愛し、身を捧げてくれる主に出会う。
誰にも愛されなかった羽ペンは、同じ様に愛されなかった主に愛されて。けれど、羽ペンはどうしようもなく人の魂を吸い取り、殺してしまう。愛ゆえに。愛を持つが為に。
ならばせめて、愛を返そう。誰にも愛されなかった主に、尽きる事のない愛を。
己だけで足りぬのであれば、愛が零れ落ちていくというのなら、策を弄そう。例え自分がまた捨てられる事になろうとも。注いでくれた愛を持って、愛の為に。
願わくば。今度こそ――