誰が作ったかも分からない……けれど異様なまでに貴重な品々が残されていた天文台──その呼び方が正しいのかさえ定かではない──を学園一行が再制圧して、数日が経ったその日。
彼ら彼女達は今後予想される邪教徒との激戦に備えるべく、一日だけとはいえ全員が休暇を取っていた。
久方ぶりの、待ちに待った休暇。
だがしかし、残念な事に。現在彼ら彼女達が居るのは森の奥深くにある打ち捨てられた天文台。当然ながら遊技場どころか飲食店の一つすらない場所であり、あるのは古文書や触れる事もはばかられる器物ばかりとなれば……殆どの生徒がふて寝を決め込み、僅かな生徒が森で狩りをしたり、あるいは休日返上で天文台の調査や修復作業を続けているニーナの手伝いを申し出るのは、最早必然でしかなく。
そんな少年少女の虚しい休暇を不憫に思ったニーナの口が、余計な事を口走ってしまうのも、また必然だった。近くに放棄された温泉があるはずだ、などと、不確かな事を。
「あぁ、うん。私の記憶違いでなければ、なのだがね? たしか、天文台の敷地内に温泉があったはずなんだ。まぁ、長らく誰も使ってないせいでボロボロだろうけど……仮にもこの天文台の設備だ。全く使えないという事はないだろう。多少壊れてるぐらいなら、私が直しても良いしね。……気になるなら探してくるといい。もし見つけられれば、女性陣は喜ぶと思うよ?」
アリシアやサーシャの好感度を稼いで来たまえ、と。そう冗談めいた言葉でユウを送り出したニーナの……計画通りと言うべきか? 学園生徒達の執念すら感じる献身によって、温泉はその日の内に発見、再開発が行われ、日が沈む頃には再使用可能な程度には修復が完了しており……
故に、その夜。再開発された温泉から姦しい声が上がるのは、最早当たり前の事だった。
「あ、アリシアお嬢様だ」
「アリシアお嬢様ー! いい湯ですよ! ここ!」
「えぇ、ありがとう。……案外、悪くないんですのね? ニーナ先生は壊れているが役立たずは役立たずなりに役立つだろう、なんて仰っていましたが。その辺り、どうですの? サーシャ。ユウは何か言ってまして?」
「いえ、何も。ユウもそうですが、男性陣は皆疲れ果てていたので。ですが、あの先生の言う事です。少なくとも当人の主観や自己評価が絡む事は、何もアテにしない方が宜しいかと」
「あぁ、えぇ、そうでしたわね。前からそうでしたけど、最近どんどん酷くなっている様な……って、何ですの? どこを見てますの、貴女達!」
どこ? わざわざ言う事かい? ……そうオーバーアクションを取りながらからかってくる者がここに居なかったのは、アリシアにとって唯一の幸運だったと言えるだろう。
何せ、学園最大戦力を目撃した同級生からすれば──たとえ同性であれど、いや、同性だからこそ──歓声にも似た黄色い声を上げるのは最早当然の権利なのだ。アリシアがキッと睨みながら胸を隠したところで……声を潜める気にはなれど、視線の色を変える気になれるはずがなく。エマ先生が先生として場を収める事で、ようやく温泉は落ち着きを取り戻していく……はずだった。
「……良いですよね。アリシアさんは」
「……エマ先生?」
「サーシャさんも、新しく入って来た子も。背や胸の事で馬鹿にされたりしないんでしょうね? 羨ましいです」
「え、エマ先生!? どうされたんですか!? お気を、お気を確かに!」
どうせ私なんて。そうエマ先生が場を収めもせずに鬱々とした闇のオーラを漂わせ始めたのは、誰に取っても予想外の出来事だった。
まさかどこぞのお喋りクソ女の悪癖が移ったのか? それとも親族からネチネチと責められでもしたのか? 何にせよ、自分の平坦な胸を抑えながら、光を失った目でアリシアの豊満な胸を睨みつける合法ロリ先生ことエマ先生を正気に戻す方法は……アリシアにも、周りの女子生徒達にも無く。自然、エマ先生の闇はより一層深くなってしまう。恨み辛みが透けて見える、薄暗いそれが。
「ふふふ……どうせ私は見合いを組まないと行き遅れる様なちんちくりんですよ。仕方ないじゃないですか。教員免許の取得とか、面倒ばっかり起こす親族の尻拭いとか、忙しかったんですし。ニーナ先生も言ってました。若い頃に苦労し過ぎると胸は育たないって。だから別に私が小さいのは仕方ないんですよ。ねぇ? アリシアさん?」
「ぇ、あ、そ、そうですわね。仕方ない事だと、思いますわ?」
えぇ、はい、と。そうなんとも頼りない相槌を打つしか、アリシアに出来る事はなかった。どうやらエマ先生の闇のオーラは婚期の事で親族からネチネチと責められた事が原因らしく、お喋りクソ女の生霊に取り憑かれている訳ではないらしいが……だとしても、いや、だからこそ何も打つ手がない。話題がお喋りクソ女の雑に扱っていいそれではなく、女性の婚期というデリケートな問題なのもそうだが、普段冷静なエマ先生がこうなってしまうなんて、正しく想定外の事態なのだから。
該当する想定マニュアルすらなく、頼りのサーシャにもそっと目線をそらされた今、アリシアに出来る事があるとすれば……戦術的撤退。話題変更しかなかった。そういえば、と。
「ニーナ先生といえば、ここに温泉があると言いだしたのもニーナ先生でしたわね? まさか、天文台に温泉があるとは思ってもみませんでしたが……あの人はそういう技術まで持っているのでしょうか? どう思います? エマ先生」
「……そうですね。確かに、ニーナ先生の多才さを思えば、そういう技術を持っていてもおかしくはありません。ですが、ニーナ先生は元々ここの出だそうですから」
元々知っていただけかも知れませんね。と、そんな言葉を深く考えるより先に口してから……気づく。そのニーナ先生の古巣が、完全な廃墟と化していた事に。ニーナ先生もまた、故郷を失った者の一人だった事に。
今どき、故郷を失った人間はそう珍しくない……なんて、慰めにもならないだろう。ここの経年劣化具合を思えば、ニーナ・サイサリスが天文台の死霊術師になった頃には、既にこうだった可能性も……失言をかき消すには、全く足りない。
だって、ニーナは失ったのだ。繋がりを、居場所を、その手にあったはずの殆んどを。
──天文台の死霊術師。あの名乗りに含まれた痛みは……いえ、触れるべきではありませんね。
ニーナ・サイサリスがいかにタフであっても、いや、なまじタフだからこそ、二人は思い至った考えを即座に捨て去る。自分達が触れて良い話ではないと。
触れられるのは、ただ一人。あの白雪の姫君以外は、ただそっと見守るしかないのだろう。様子を窺い、けれど、何かあれば助けに行ける様に。それが同僚として、生徒として、出来る最善の事なのだ。
そう沈んだ心をなんとか再浮上させた二人は……しかし、正気に戻ったがばかりに周りとの残酷な戦力差を再び直視させられたエマ先生が、再び闇をまといだした事により状況が戻ってしまう。最近のニーナにへばりついている物と同種の、鬱々とした暗い空気。だが二度目ともなれば多少なり余裕が出てくる物なのか、アリシアは逆に踏み込んで鎮火しに掛かる。大丈夫ですよ、と前置きして。
「エマ先生は素敵なレディなのですから。いつかきっと素敵な殿方が現れますよ。そう焦らなくても──」
「アリシアさんには、ユウ君が居ますからね。彼、血筋も良いそうじゃないですか。ニーナ先生が言ってましたよ。あの子は歴史的な名家の末裔で、王国の正統後継者でもあるんだと。良いですね。誰からもケチをつけられない、万が一すら無い身は」
南無三。やはりニーナの生霊か。それともそんなに親族にネチネチと婚期の話をされたのか? アリシアの踏み込みはかえって状況を悪化させてしまった。控え目に言っても、詰みと断言出来る程に。
何せエマ先生はまだまだ若いとはいえ、それでも成長期は完全に終わっている故に──まだ成長出来ますよ、等と──気休めの言葉は掛けられない。かといっていつか、またいつかはと遠い未来の話をしようにも、行く末が固まっているアリシアではエマ先生を傷つけるだけで……斯くなる上はひたすら聞き手に回って同意を示し続けるか? さもなくば見え見えでも構わないからもう一度話題変更に挑むか? 二つに一つ、ではあるのだが。
──ニーナ先生なら、あえて踏み込んだのでしょうけど……
あの妙なところでデリカシーのない少女なら、こんな状況でも迷いなく踏み込んだのだろう。愚痴と共感に溺れる暇があるなら決死の覚悟で戦いたまえよ、と。そう狂戦士めいた叱咤激励を飛ばしたに違いない。
だが、当然ながらアリシアはニーナではなく……順当に、一歩下がって聞き手に徹しようとして。
その瞬間、空気が重くなる。
ホンの少しだけ、生粋の武人だからこそ感じとれる僅かな変化。重々しいプレッシャー、息苦しい寒気、濃縮された闇の魔力。間違いない、この重さは、この気配は。
「レナ生徒会長……いらしてましたのね」
「うん。ニーナに勧められたから」
アリシアが振り返ったその先に居たのは、レナ・グレース・シャーロット・フューリアス生徒会長……艷やかな白髪と、大きく力強いコウモリ羽が特徴的な、美しい白雪の姫君だった。
いや、姫君……というのは、極めて控え目な、それこそニーナだけが使う表現かも知れない。何せここ最近のレナ生徒会長のプレッシャーは尋常ではないのだ。小柄な身体つきとは真逆の、まるで皇帝の様な、いや、闇精霊そのものであるかの様な暗く重い圧力は、アリシアをして膝を屈してしまいそうになる程なのだから。
──それこそ、伝説の大精霊の様な……ホント、春の私はよくこの方に喧嘩を売れましたわね?
自殺願望は無かったはずですが、と。アリシアは思わず内心で自虐の言葉を吐いてしまう。こんな力を持っていたと知っていたら、あんな真似は死んでもしなかったと。
だって、そうだろう? 春のレナ生徒会長は、単に弱りきっていただけなのだ。四方八方から追い詰められ、逃げ場なんて過去にも未来にもなく、いつ死んでもおかしくない程に傷ついていただけ。だから春、夏と充分に休息を取り、ようやく戦う理由を見つけた彼女は……本来の、あるいはそれ以上の力を持つに至っている。単騎で戦局を変える程の、それこそ一人で世界を滅ぼしてしまう程の、圧倒的な力を。
そんな彼女にケンカを売る? それは自殺と何が違うのか? 全くそんな馬鹿が居たら会ってみたい。全力でひっぱたくから、と。そう内心だけとはいえ自虐の言葉が止まらないアリシアは、良くも悪くもニーナの悪影響を強く受けた一人であり……だからこそ、なのか。レナが、珍しい事に、言葉を繋げる。ねぇ、と。わざわざ軽く注意を引いてまで。
「一つ、聞いてもいい?」
「えぇ、構いませんよ。なんでしょうか? レナ生徒会長」
「今さっき、ニーナの話……してた?」
やはり、というべきか。レナの聞きたい事とは、ニーナの事だった。
いや、というより、ニーナ先生の名前を出したからこそ、レナ生徒会長がここに居るのだろう……そう推測出来る程度には、アリシアはレナ生徒会長の事を理解しており、また、恐れてもいた。もしニーナ先生絡みで機嫌を損ねようものなら──いじめは勿論、陰口でも叩こうものなら──この吸血皇女は無慈悲な支配者として、確実に断罪の刃を振るうだろうと。
それを思えば、アリシアの答えは事実一つしかなく。彼女は普段通りの声音を装いながら、当たり障りのない言葉を返すしかなかった。してたといえばしてましたわね、と。未だに暗い顔のエマ先生を、そっと意識から外しながら。
「ですが、どちらかと言えばニーナ先生の話というより……そう、将来のお相手とか、その人の好みとかの話でしょうか? そちらが主な内容でしたわね。レナ生徒会長はどうです?」
そういった方はいらっしゃいますか? と、そう話題転換を兼ねた一言を焦りから立て続けに発してから……気づく。レナ生徒会長は、亡国の皇女様。許嫁や婚約者がかつて居た可能性を考慮すれば……今のは、失言だったのでは? と。
もしニーナがここに居れば、さっきから地雷が多過ぎるねぇ、と。まるで他人事かの様に、ブラックジョークにしか聞こえないフォローを挟んだだろう。そんな地雷は存在しないと、知っているが故に。
現に、レナは気分を害した様子もなく、ん──と少しだけ悩む様子を見せた後。ポツポツと言葉を紡いでいく。よく分からないけど、と前置きして。
「将来の相手……えっと、一番大好きで、ずっと一緒に居たいと思える人、の事で合ってる?」
「え、えぇ、そんな感じですわ」
「なら、ニーナかな」
即答。迷いなき即答だった。
やはりニーナ先生がレナ生徒会長を第一に考えるのと同じ様に、レナ生徒会長もニーナ先生しか見ていないのだろう。仲が良くて微笑ましい事……そうアリシアが内心でホッと一息ついている間にも、レナは饒舌に話を繋げていく。何とも珍しい事に。
「後は、ニーナの好みの話……? うーん。そう、だね。えっと、ニーナはね、レナと一緒で甘い物が好きみたいだよ? わざわざ買ったりまではしないけど、クッキーとか、余った食材で作って食べたり、渡したりしてくれる。お花は暖色系より寒色系の青い花が好きで、昼間より夜が好きだって言ってた。それと誰かとお話したり、何かを教えたりするのも好きだし、読書が趣味で魔法理論とか歴史の本をよく読んでる……けど、これは好きとは違うのかな? いっつも難しい顔してるし。他には、えっと、何があるかな?」
「……では、人間としての好みはどうですか? 背が高い方が良いとか、胸は大きい方が良いとか」
「エマ先生?」
「? んー……そういうのは聞いた事がないかな。あ、でも背も胸も小さい方が好みだって言ってたよ? 白い髪も綺麗で好きなんだって」
哀れ、ニーナ・サイサリス。公衆の面前で、しかも本人の預かり知らぬところで想い人に性癖を暴露される。
不幸中の幸いは、ニナレナの関係性──お互いがお互いに暗く重い恋愛感情を持っている事──なんて学園女性陣からすれば公然の秘でしかないという事だろう。レナの紅い瞳も神秘的で綺麗だって言ってくれたよ、などと。そう上機嫌なまま無垢で無慈悲な追撃を敢行するレナを見るまでもない話だ。そしてニーナ先生はレナ生徒会長が好きなだけでは……なんて野暮な事を口に出来る愚かさをアリシアが持ち合わせていなかったのも、ニーナにとっては幸いな事だったに違いない。主に恥の上塗りにならずに済むという点では、だが。
しかし、世の中のリソースという物は、たとえそれが無形の物であっても限られているもので。誰かが幸運を拾えば、自然、不幸のシワ寄せは誰かに押し寄せてしまう。例えば、行き遅れの四文字に苦しむ誰か、とかに。
「そう、ですか。ニーナ先生は、いえ、そうですね。ニーナ先生とレナ生徒会長は、仲が良いですからね」
「? そうかな?」
そうだと良いな。そう夢見る少女の様に紅い瞳を輝かせ、微かな微笑みを浮かべる白雪のお姫様……とは、打って変わって。未来への希望に満ちた幸せオーラに当てられたエマ先生の表情は、今や下降の一途を辿っていた。
婚期の事でそうとう詰められたのだろう、と。そこまで推測するのは何も知らない一生徒の身でも出来る事だが……しかし、その尋常ではない落ち込みぶりを見続けてきたアリシアは、つい思考をもう一歩先に進ませてしまう。これは、もしや? と。
──冷静沈着なエマ先生にトラウマを与える程の、あるいは与える様な結婚の催促……王都の状況。思ったより悪いかも知れませんわね。
どうやら王都の住人は未だに余裕と恐怖を両立してしまっているらしい。そう思考が追い付いたアリシアの脳裏に、恩師の嘲笑が響く。前時代的なパラダイ厶の中で生きてる連中が何だって? と。
ニーナ・サイサリスの、以前にも聞いたその台詞。ぱらだいむとやらが何を意味するのかは今も分からないが、少なくとも今の王都はニーナ先生がキツめの皮肉を吐く程度には、それこそ今アリシアが感じた直感以上に、悪い状態なのだろう。嘆かわしい事に、悲しい事に、残念な事に。
そう祖国の斜陽を改めて感じつつも……いや、感じてしまったからこそ、アリシアは鬱々としたオーラを放ちながらふらふらと湯に向かうエマ先生ではなく、軽い足取りで洗い場に向かうレナ生徒会長の後を追う。その小さな背中に生えた翼を見て、今更ながらに思い出した事を口にしながら。
「生徒会長。失礼ですが、温泉に入っても大丈夫なのですか? 以前ニーナ先生から、くれぐれも流水に近づけるなと念押しされた事があるのですが……」
「ん? ん、これぐらいの流水なら問題ない。レナは純粋な吸血鬼じゃなくて、ただの先祖返りだから」
制約が緩い……らしいよ? と。そう小首を傾げながら口にするレナ生徒会長の声に、アリシアがそうなんですねと曖昧な頷きを返していると……ふと、背後から聞き慣れ過ぎた声が届く。レナは色々と特別だからね、と。
「普通の吸血鬼の伝承はアテにならないんだよ。現に血魔法や身体能力なんかは純血種に二歩も三歩も劣っているけど、精霊との親和性が恐ろしく高かったり、制約が極めて緩かったりするしね。まぁ、レナは吸血鬼としてはクォーターどころか八分の一、場合によっては十六分の一以下の可能性もあるから……直射日光や激流と言える程の流水ならともかく、日常的な流水程度なら然程問題にならない様でね?」
私としても一安心だよ、と。そう学園生徒からすれば最早耳ダコな、けれど、普段の物より格段に元気がない声が温泉に響く。振り返るまでもない。ニーナ・サイサリスだ。
そう思えども……バッと心底嬉しそうに振り返るレナ生徒会長に釣られて、つい振り返ったアリシアが見たのは、いや、間違いなくニーナ・サイサリスだった。だったが、しかし……
──足が。ニーナ先生の足が、ある?
想像と違ったのはただ一点。ニーナは、車椅子ではなく、自分の足で立っていたのだ。義足……ではない。間違いなく、生身の両足で。
あり得ない、驚くべき事態。春の終わり頃にガレキに潰されて無くなってしまった、失われたはずの両足を、ニーナはどんな魔法か再生させたらしい。そうアリシアの思考が追い付き、呆然とした視界がニーナの目元にこびりついた酷いくまを見つけて……けれど、いや、当然ながら一番早くニーナの元に駆け寄ったのは、レナだった。余人には決して見せない微笑みを浮かべながら、パタパタとご機嫌に羽を羽ばたかせて。
「ニーナ! 来てくれたんだ。でも、大丈夫? まだ休んでた方が……」
「いや、大丈夫だよ。レナ。確かに疲れは残っているけど、それほどじゃないし、私も温泉に入りたかったからね。それに、足がある便利さを久しぶりに実感したかったんだよ。……あぁ、自分の足で歩けるというのは、中々に苦労が無い。そうは思わないかい? アリシア」
「ぇ、えぇ、それは、そうですが……いえ、大丈夫なのですか? ニーナ先生」
「ん? ふむ。私はそんなに疲れてる様に見えるかい? 気にしなくても、あー、まぁ、特に問題は無いよ。今のところね。そう心配しなくても、溺死する前に上がって寝るさ」
気にしないでくれたまえ。そうどこかかすれた声で、キレのないブラックジョークを放つニーナ……そして、そんな彼女を守る様に、ピッタリと張り付いて離れないレナを見れば、誰であろうとニーナ・サイサリスが“また”不調を抱え込んでいるのは一目瞭然だった。
恐らく、足を生やした反動で疲れているのでしょうが……と、そう思考を伸ばしながら洗い場へと向かう二人の背を見ていたアリシアは、そっとその場から身を引く。これ以上は、自分の仕事ではないと。
──あの傷跡を癒せるのは、彼女だけでしょうからね……
ニーナ・サイサリスの肌のあちこちに広がる大小様々な傷跡を見ながら、アリシアはそう後を託すしかなかった。自分では駄目だから、と。……諦めた訳ではない。アリシアも恩師に力を貸す事にためらいは無いのだ。他の生徒達同様、いつでも駆け付ける準備は出来ているつもりなのだから。
だが、しかし、本当の意味でニーナ先生を助けれるのが、一人だけである事は、誰の目にも明白なのも事実。いや、というより、レナ・グレース・シャーロット・フューリアスで駄目なら、他の誰でも駄目だろうと言うべきか?
あれ程の傑物が居て、その全力を持ってなお死する者が居るのであれば、それがその者の運命なのだと。そういう時代なのだと、諦めるしかない様な……
──寒い時代。いえ、あるいは、わたくし自身が……?
諦めかけているのだろうか? あの恩師が、あのお喋りな少女が生き残る未来を。
そんな冷たい考えがアリシアの脳裏によぎったのは……ある種、仕方のない話だったのだろう。何せレナ生徒会長の、傷一つない真っ白な肌とピッタリと隣り合わせにある、ニーナの病的なまでに白い……けれど、ズタズタに引き裂かれた傷跡がそこかしこに残る痛々しい肌が、嫌でも目についてしまうのだから。
特に、なだらかな胸に広がる大きな傷跡……バリスタで穿たれた痕は、今でもハッキリと見て取れる程の、見ている側の胸が痛くなる様な傷であり。その他にも腕や太ももに点々と走る治りきらなかったのだろう刺し傷や矢傷の痕や、どういう魔法を使ったのか? 新しく生やした足の全域に広がる火傷跡にも似た赤い傷跡は、痛々しいの一言ではとても足りない有り様で。
それに、いや、幸いにも顔の辺りは綺麗なものだが……それでも、視線を首筋や背中に向ければ、何度も何度も突き刺されたのか? 消えない注射痕や、切り裂いて雑に縫い合わせたのだろう痕が幾つも走っていて…………あぁ、あの傷だらけの身体を見て、けれど全く好転しない戦局の中で、いったい何を言えようか? いったい何をどうすればあの少女を救える等と言えるのか?
──慰め、励まし、同情。……駄目ですわね。わたくし。
偽善に独善。これだから自分では恩師を救えないのだ。そう分かっていても、なおアリシアが、いや、学園の者達が──相変わらず暗い表情のエマ先生ですら──ニーナ・サイサリスの傷跡から視線をそらせないのは……ある種の、後悔と覚悟から来るものだった。
自分達が任せきりにしていたから、知らず知らずのうちにニーナ先生はあんなに傷だらけになってしまった。
ならば、いつか、知る時が。ニーナ・サイサリスが常に生き急いでいる理由を知る時が来たならば。あるいは、あの人を救える好機が訪れたのなら。今度は、今度こそは、間違えない。間違えてはいけない。今度間違えれば、あの人は、あれだけ頑張って来た人が、傷跡だけを背負って消えてしまうかも知れないから。
……勿論、鍵はレナ生徒会長だけが持っていて、彼女にしか使えないのだろう。だが、彼女がちゃんと鍵を使えれる様、助ける事は出来るはず。彼女に任せきりでは……そう、女が廃るという物だ。何せニーナ先生曰く、女は度胸なのだから。──そうその場の全員の思考がシンクロしたのは、傷跡の凄みだけが原因ではなかっただろう。いわば、ニーナ・サイサリスという少女が積み上げてきた情や実績が、彼女が存在を認めないそれらが、確かにそこにあったからこそで。
故に、ここから先の未来は既に決まっていた。
ささやかな魔獣の乱入者が来る事も、上がった悲鳴を捨て置けなかったユウが女風呂に飛び込んでしまいアリシアに……引いてはサーシャに投げ飛ばされる事も。
そして何より、ロッジで待ち受ける想定外の結末すらもが、既に──
フラグ管理ヨイカ?
ヨシ!
◇次回更新について◇
不足している要素を確保する為、ルビコン3の調査に出掛けます。探さないで下さい。