ひたすら進め。
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ。
ニーナ・サイサリスがよく回る口で学園一同を部屋から追い出して……数分。早くも、というべきか。あるいは流石に、というべきか? 一人の少女の我慢が限界に達しつつあった。
「…………」
「あの、生徒会長?」
「…………なに?」
「あ、いえ、その、なんでもないです……」
失礼しました……と、そう気圧されるがまま引き下がる他生徒を、見る事もせず。少女は辺りに重苦しい威圧を撒き散らし続ける。ほぼ無表情のまま、けれど内心の不満が形になったかの様な闇色の魔力を漂わせて、どこか憤然とした様子で。
怒り。幼い少女の、しかし、竜の炎にも似た激情の理由は、最早問うまでもないだろう。全てはあのお喋りクソ女の失態であり、限界だった。
──ニーナ……
あぁ、もし、もしニーナ・サイサリスの頭の具合がマトモだったならば、せめて普段の半分で良いから正気を保っていたならば、こんな事にはなっていなかったのだろう。少女は心をかき乱される事すらなく、愛する親友の側で穏やかな笑みを浮かべていたはずで…………だが、悲しいかな。件のお喋りクソ女の脳ミソは既に役に立つ様な状態ではなく。自然、不機嫌極まる少女の心に光が差し込む様な事もなかった。あるのは曇天にも似た悲しみと、行き場のない竜の炎にも似た怒りのみ。
そんな少女に、いや、少女がただの少女であればまだ良かったのだろう。だが少女は、レナ・グレース・シャーロット・フューリアスは、現生徒会長というだけでなく、亡国の皇女殿下であり、恐るべき吸血鬼でもある。である以上、畏れ多さや恐怖心を乗り越え、更に怒れる竜の首元まで近づき、その上で幼い少女の心を晴らせる様な逸材──あるいは死にたがりの大馬鹿野郎──など、そうそう居るはずもなく……
「…………ニーナ。なんで」
少女の苦しみは終わらない。彼女はただ親友と笑っていたいだけなのに、それだけなのに、ただそれだけの事が酷く難しくて。ただ悲しみと後悔だけが積み重なり、それらが膝を折ってうずくまってしまえと重くのしかかってくる。
誰かに相談する事も出来ず、誰の助力も得られないまま……あぁ、頼りになる親友に問い掛ける事すら、もう遅い。だって、レナに手を差し伸べてくれたあの子は、もう。
──なんで、なんで……!
なんで一人で苦しむの?
なんで話してくれないの?
なんで頼ってくれないの?
ニーナに言いたい事は、伝えたい言葉は、幾らでも頭に思い浮かぶ。けれど、レナはそれを伝える事が出来なかった。いや、正しくは、ニーナを変える事が出来なかったのだ。あの少女の自滅を、止める事が出来なかった。全ては手遅れで、出来る事なんてもう何もなくて。レナじゃ、駄目で。
だから、もう……これで、おしまい。
……本当に?
ニーナが今までしてきた事は、全て無意味だったのだろうか?
レナが頑張ってきた事は、何一つ実を結ばなかったのか?
エマ先生が支えてきたこれまでは、アリシアやサーシャら生徒達の尽力は、本当に何の影響も与えなかったのか?
否。そんなはずはない。
故に。
それは自然な事だった。
「──レナ生徒会長。迷うぐらいなら、いっそ進むべきです」
「…………」
最初の声かけは、迷いを含みながら。だが、それでも、少年は、ニーナの教え子であるユウは恐るべき吸血鬼に声をかけ、あまつさえその背中を押してみせた。立ち止まるくらいなら、歩けと。まるで普段のニーナならそう言ったと言わんばかりに。堂々と、毅然とした態度で。
現に、少年の言葉はそれで止まらなかった。どこぞのお喋りクソ女を真似る様に、あの場から逃げた僕が言えた事ではないのですが、などと前置きしながら言葉を紡いでいく。恐るべき殺気をあびながら、それでも、大切な何かを伝える為に。いや、あるいは……
「今は誰かが、いえ、レナ生徒会長が側に居てあげるべきです。たとえニーナ先生に、望まれていなくても」
「それは……ッ!」
そんな事は分かってる! そうレナが叫ばなかったのは、殆んど偶然だった。
だって、分かっているのだ。本当はどうすべきかなんて、赤の他人にわざわざ言われるまでもない。今のニーナに必要なのは側に居てあげれる誰かであり、その役に一番相応しいのは自分であると、それぐらいの自覚は──あるいはワガママか、もしくは自惚れは──レナにだってあるのだから。
だが、いや、だからこそ、レナは動けない。動けるはずがない。だって、その他ならぬニーナが、助けを望んでいないのだ。差し伸べた手を、拒絶すらした! 振り払った! レナは今まで必死に頑張ったのに、それなのにニーナはまた一人で苦しんで、絶望して、破滅する事を選んだ! ニーナが。ニーナが!!
「ニーナが、ニーナは…………要らないって。助けなんて、要らないって。レナなんて、レナなんて要らないって! 要らないって、笑ってた。笑ってた! だから、だからッ!」
「だから? だから、でしょう? レナ生徒会長。だから、行くんです。あの人はいつもそうだから、だから僕らの方から行かなきゃいけないんです。……知ってますよね? レナ生徒会長。一人ぼっちって、寂しいですよ?」
「知ってる! それぐらい! でも、でもニーナが、ニーナが要らないって言ってた!」
「はぁ? ……言ってませんよ。レナ生徒会長。ニーナ先生は言いません。言う訳ないでしょう。そんな事」
まぁ、だからこそ、誰もあの部屋に残れなかったんですけどね、と。そう一瞬だけ自嘲の笑みを浮かべたユウは、けれど、直ぐに表情を引き締めて決定的な一言を吐き捨てに掛かる。少しの怯えと、それ以上の炎を燃やしながら。しかし、残念です、と。
「まさか生徒会長がこうも臆病とは。近づいたと思えば離れて、離れたと思えば近づいて。あぁ、いや、だからか? だからか。というか、これはニーナ先生も…………えぇ、えぇ、そういう事なら、やっぱり、言わせて貰いますね? レナ生徒会長。貴女が行かないのなら、僕が行きますよ? ニーナ先生のところに、僕が」
「……? ッ……!?」
「何を驚いているんです? レナ生徒会長。ニーナ先生に感謝してるのは、いえ、助けられた恩があるのは貴女だけじゃないんですよ? ニーナ先生は誰かが苦しい時、辛い時、大変な時……そして選択を迫られて迷っている時。いつの間にか側にて、助言をくれる人でした。我が身を省みず、助けの手を差し伸べる人でした。そんな人が苦しんでいる……なら、今度はこっちの番。そう思えるのは貴女だけじゃありません。貴女が行かないなら、代わりはいるんですよ。レナ生徒会長」
「そ、れは……」
「分かりますか? 分かりたくありませんか。そうですか。そうですよね。そうだと思いました」
僕がそうでしたから。そう呟いて少しだけ笑った少年に、レナは何も言い返せない。だって、その通りなのだ。当たり前なのだ。ニーナの生き様も、だからこその結末も、全てが道理でしかなく。だからこそ、少年を止める人も居ない。誰もが固唾をのんで決定的な瞬間を待っていた。この問いが終わる、その瞬間を。
「……それにしても、反論の一つも無いんですか? レナ生徒会長。あれだけニーナ先生の側に居たのに、口も開きませんか? そうですか、そうですか。レナ生徒会長はそういう人なんですね。納得しました。だから、あの場の空気にのまれて追い出されてしまった訳ですね? 残念です。あの場は、たとえ嫌われて罵倒される事になったとしても、断固として、何が何でも、それこそ石に齧りついてでも誰かが、いえ、貴女が残るべきだったのに……そう思ったから、また譲ったのに。こんな事なら、最初から僕が残るんでした。えぇ、そうです。こんな臆病で、怖がりで、根暗で、一人ぼっちの貴女ではなく! この僕が! 最初から、ずっと!」
「ッ! お前、お前! レナから、ニーナを……っ! ニーナの教え子だからって、レナが、黙ってるからって! 勝手な事! それにそんな、そんな事をしたって! お前なんかに! ニーナは! ニーナは……」
「やってみなければ分かりませんよ! 少なくとも、ニーナ先生ならそうしたでしょう。違いますか? ニーナ先生は嫌われる事なんて計算のうち。自分が傷つくのも許容範囲。むしろ嫌われて傷付く前提で、誰かを光の方へと突き飛ばして……自分は暗がりに落ちていく。そういう人です。そういう人だから、僕らは──いえ、やめましょう。もう。レナ生徒会長。決めるのは貴女です。貴女なんですよ。僕じゃないんです。……それで? 結局、貴女はニーナ先生のところに行くんですか? 行かないんですか?」
うじうじ悩んでないで、サッサとハッキリして下さい。貴女が選ばなかった方を、僕が選びますから。
そう冷たい声で、決して後戻り出来ない選択をレナにぶつけるユウ。それに口出し出来る唯一無二の誰かはここには居らず、エマ先生も、アリシア以下他生徒達も、誰もが沈黙を持って見守っていた。口喧嘩にも似た詰問の果て。レナがどちらを選び、ユウがどちらを手にするのか。
けれど……その答えはタップリ十秒が経った後も出てくる事はなく。けれどユウは睨みつける以上の事はせず、エマ先生も介入して良いか踏ん切りがつかず、そして、更に十秒が経った後。ようやく、レナの口から音がこぼれる。迷いだらけの、かぼそい声が。
「……レナ、は。…………いない方が、良いのかな」
「──それを決めるのは、僕でも、貴女でもないですよ。レナ生徒会長」
「……?」
「はぁ……言わせないで下さいよ。レナ生徒会長。ニーナ先生が誰を選ぶかなんて、そんな、そんな分かりきった事」
それとも言わせたいんですか? 僕に?
最悪だ。そう言わんばかりの顔を浮かべたユウの喉元に上がった罵倒は、如何ほどだった事だろう。性格悪っ、とか。人の心無いんですか? あ、吸血鬼でしたね、とか。そんなんだからニーナ先生があっちこっちにフラフラして、挙句の果てに死にかけるんですよ、しょっちゅうね! とか。それはもう山程どぎついのが浮かび上がったに違いない。けれど、それらの罵倒が放たれる事は決して無かった。ユウの目的はそうではないし、そもそもそれは──少し私情が混じって苛烈になったとはいえ──既に充分に達成出来たはずで……何より、アリシアとサーシャがユウの側に寄り添って見せたから。
そう、もう充分なのだ。もう分かったはずなのだ。
ニーナ・サイサリスが苦しんでいる時、もう死んでしまいたくなるくらい絶望している時、我を忘れてどこかへと逃げ出そうとしている時。その時に側に居るべき誰かは、その役に最も相応しいのは……ニーナ・サイサリスの唯一の親友である、レナ・グレース・シャーロット・フューリアスをおいて他に居ない。そんな事は、もうハッキリしたのだから。
だから、いや、だからこそ、ユウは呆れ返りながらも最後の一言を吐き捨てる。アリシアとサーシャのおかげで古傷になったそれを抱えながら、お願いだから今更蒸し返さないでくれと、そう願いながら。
「どうされますか? レナ生徒会長。まだ迷われますか? まだ駄々を捏ねて、言い訳を並べて、変わる事を、傷つく事を恐れますか? それならもうやってる、手を差し伸べるなんていつもやってる、なんて言わないで下さいよ? 甘いんですよ。踏み込みが。分かってるでしょう?」
「それ、は。でも、レナじゃ、駄目だったよ? レナじゃ、駄目で。それに、ニーナが……」
「レナ生徒会長。何度も言わせないで下さい。ニーナ先生なら、迷いません。そうでしょう?」
だから、選べ。
選択して、二度と戻って来るな。
ニーナ先生に相応しいのは、僕ではなく、貴女なのだから。貴女しか居ないのだから。
そんな思いを、口にする事はどうしても出来ず。けれどそれでも、言外の言葉にはしてみせながら、ユウは、学園一同は待つ。お喋りなクセにそういうところは間違えない、あの誰かと同じ様に。
「レナは……」
どうするべきか?
どうしたいのか?
そんな事は最初から分かっている。けど、他ならぬニーナがそれを拒絶し続けているのも確かで。レナじゃ何度やっても、何をやっても、こうなってしまって。だからいい加減諦めてしまうのはお互いの為のはずで。…………けれど、それでも、と。そう叫んでも、良いのだろうか? 手を伸ばし続けても良いのだろうか? 亡国の姫が、恐るべき吸血鬼が、厄介事だらけの人外のバケモノが、あの優しい子を、と。そうしても、良いのだろうか?
「レナは……!」
もしそうしても良いのなら。
もしニーナがレナを選んでくれるのなら。
他の誰かではなく、レナを、レナだけを選んでくれるのなら。
そして……何より、もしそうしなかったら、ニーナが別の誰かの物になるのなら。レナの側から離れて、二度と会えなくなるのなら。そうなってしまうぐらいなら。
──ニーナ……
初めて会った時、レナはニーナに何の期待もしていなかった。それどころか、厄介事が増えたとばかりに追い返そうとした。
それからの数日間も、大した希望は持っていなかった。愛想が良いのは今だけ、表面上だけ。ほんの一歩でも踏み込めば、途端に逃げ出す。罵声が飛び出す。要らないって言われる。だから交わすのは挨拶程度、仕事の話だけ、些細な日常会話のみ、少しだけ私情を混ぜて雑談を……そして、あぁ、まるで友達みたいな、気安い会話が。
夢みたいだった。浮かれていた。だから、あの夜。気が緩んだレナは、ニーナを食べそうになって……なのに、嫌われなかった。それどころか、求められた。一緒に居たいと。
──ニーナ……!
ニーナだけだった。ニーナだけが、レナと共に居てくれた。嫌な顔をしなかった。怖がらなかった。一緒に居たいと、そう心から願ってくれた。
それが……無くなる? 誰かに取られる?
──嫌。それは、嫌!
もしニーナがそうしたいと言うのなら、レナは……泣いてしまうだろうけど、それでも最終的にはそれに頷けるだろう。一人にして欲しいというのならワガママを言わずにそうするし、少しの間距離を置きたいというのなら、それは、やっぱり泣いちゃうかも知れないけど、最後にはそうするだろうとレナは思える。
けれど、このまま何もせず、いつの間にか他の誰かに取られて居なくなるのは、それは、それだけは、嫌だった。
嫌、そう、嫌。
死なれるのは嫌。会えなくなるのも嫌。でも、この嫌は、そんな今までの嫌とは違う……絶望感じゃない、不快感のある嫌。これは、この嫌は。よく分からないけど、でも──
──この嫌は、嫌。
死なせたくない。ずっと一緒に居たい。そして……こんな嫌な思いもしたくない。ニーナを、ニーナの一番は、レナが良い。
あぁ、そう、そうなのだ。ニーナの一番はレナが良い。レナが良いんだ。他の誰かにそれをくれてやるなんて冗談でも嫌だった。勿論死なれるのは嫌だし、一緒に居れないのも嫌だけど、それの次くらいには、これは、この感情は。
「──決まったみたいですね? レナ生徒会長」
「……うん。決まった」
レナのニーナへの気持ち? 決まっている。
ニーナへの願い? 決まっている!
これからする事? 決まっている! 我慢なんてもうしない。言ってやる。取られるぐらいなら、思ってる事、全部!
「レナは、ニーナと一緒に居たい。ずっと一緒に居たい。死んで欲しくないし、傷付いて欲しくないし、悲しんで欲しくない。出来れば、笑っていて欲しい。他の誰かじゃなくて、レナと。レナと一緒に。うん、お前に取られるなんて、嫌」
「……そうでしょうね」
「うん、だから──」
だからレナは、と。そうレナが決意を口にしようとした──その瞬間。微かな振動が、足元を揺らす。耳に届くのは……反響して複雑になった、爆発音。
思わず一同が身を固め、同時に、音の発生箇所がニーナが居る方とは真逆の……どうやら入り口の方からである事に安堵し。
直ぐに、それを翻す。入り口から爆発音? なぜ? いや、いや! そんな事は考えるまでもない。襲撃だ! 他ならぬニーナが言っていたではないか。ここは元々邪教徒の拠点だったと。ならば、帰って来たのだ。本来の家主が。決して相容れないクズ共が、全員の恩師であり恩人である少女を苦しめたクソったれ共が、この場所に!
──ッ! ニーナ!
思わず、なのだろう。誰よりも早く、思考よりも早く、レナの足はニーナの元へと向かおうとして……けれど、振り向いたその瞬間、立ち止まってしまう。
このまま行ってもいいのかと。
また拒絶されるんじゃないかと。
今度こそ、要らないと、ハッキリ言われるんじゃないかと。
怖い。怖かった。嫌われるのが、傷付くのが、終わってしまう事が、どうしようもなく怖くて。けれど、それでもレナの思考に登ってくるのはニーナの事ばかりで。心配で、不安で、もし万が一があったらと考えたら…………あぁ、だから、最後にそっと背を押したのは、その場に居る全員だった。
「レナ生徒会長! ここは任せて下さい! ニーナ先生を……お願いします!」
お願いします! 任せましたわよ! 生徒会長にしか頼めません! そんな声が、好意的な声が、次々と上がってくる。
かつて宮廷でぶつけられた心無い声や、冷たい視線はそこにはなくて。今日少しだけ嫌いになったアイツでさえ、背を向けて戦う準備をしている。ニーナ先生の事を、どうかお願いします、と。そう言わんばかりに。
「レナ生徒会長」
「……? エマ先生?」
「その、ずっとレナ生徒会長を放っていた私が言えた言葉ではないんですけど。ニーナ先生の事を、お願い出来ますか? 何だか、胸騒ぎがするんです。ニーナ先生が、ここで……いえ、すみません」
「ううん。……大丈夫」
大丈夫。大丈夫? うん、もう大丈夫。
だって、レナはもう、迷ったりしないから。決めたから。取られるぐらいなら、取らせない。迷うぐらいなら、取り敢えず走る。そう決めた。だから、だから。
「ニーナの事は、レナに任せて。今度は、間違えないから。怖がらないから。途中で止めたり、迷ったり、手加減なんて、しないから。だから」
「……良い顔してますよ。レナ生徒会長。正直、羨ましいぐらいです。えぇ、はい。ここは何としてでも死守します。ですから、どうか後ろは気にせず……ニーナ先生の事、お願いしますね?」
「うん、ありがとう。エマ先生。……レナ、行ってくる!」
はい、行ってらっしゃい。レナ生徒会長。……そんな温かい言葉を背に、レナは来た道を引き返すべく駆け出していく。
背後からの声……気合の入った声で生徒達に防御陣地の構築を指示し、迷いなく背水の陣を敷くエマ先生の声を。貧乏クジでしたね、そうでもないよ、私情を入れ過ぎです、等と笑い合うアリシアとアイツとサーシャの声を。それ以外にも各々の声を、決して絶望なんてしていない声を背にしながら、レナはひたすらに駆けていく。
あぁ、確かに襲撃は一大事だ。しかもさっきの爆発といい、今も微かに続く振動といい、一筋縄ではいかない気配が濃密に漂っているこの状況……まして相手はあの忌まわしき邪教徒となれば、戦力は少しでも多い方が良いのだろう。
しかし、それ以上に、今日のニーナをこれ以上一人にしていてはいけないのは……全会一致の決定事項でしかなく、レナがニーナの方へと向かうのは満場一致のスタンディングオベーションでしかないのだ。だから、いや、そうでなくても、レナの足は止まらない。背後からの声が遠くなって、ニーナの居る部屋が近づいても、その行き脚は決して緩まなかった。思うのは、ただ、ニーナの事ばかり。
──ニーナ……ニーナ。ニーナ!
思考に浮かぶのは、色んな事。
例えば、今思えば今日のニーナの尻尾は垂れっぱなしだったな、とか。そういえばミミもしょげてた気がする、とか。目の下のくまも酷くなってたし、今度仕事を肩代わりしてあげられないかな、とか。
そんな下らない事から始まって、けれど、直ぐに不安が──ユウ曰く根暗で臆病な気質が──顔を覗かせる。
それは、血に染まった赤い記憶。
助けが遅くなり、血塗れになって城壁に縫い付けられた……あるいは下半身を押し潰され、千切られ、目の輝きを失ったニーナの姿。病に倒れ、少しずつ衰弱していくニーナの姿。レナが首を締めたせいで気絶し、地面に崩れ落ちるニーナの姿。そして今日、全てを拒絶したニーナの姿。
どれもこれも思い出したくない記憶ばかりで。けれど、だからこそ、レナは立ち止まらなかった。二度とあんな事を繰り返したくはなかったし、何より、もう決めたのだ。誰かに取られるぐらいなら、最後まで突き進むと。もう怖がらず、ニーナの様に、迷わず走り切ると。だから、その為に、先ずは。
──今度は、今度こそは、レナの番……!
何を言えば良いのかなんて、まだ分からない。
会った時にどんな顔をすれば良いのかも、分からない。
ニーナがレナと再会した時の顔も、顔は……怒るだろうか? いや、困った顔をする様な気がする。迷惑かも知れない。でも、それでも。
──レナは、ニーナと一緒に居たい。
願う事はそれだけ。ただそれだけを、けれど今までよりも強く、想い、願いながら、レナは走る。
愛用の儀礼用サーベルの柄に手を当てながら、何があろうと、何が待ち受けていようと、どれだけ冷たく拒絶されようとも、今度こそ、ニーナに気持ちを伝えてみせる……と。
フューリアスの儀礼剣。
最低限の装飾が施された帝国式サーベル。帝国が滅亡する僅か一年前に、当時の皇帝夫妻からその一人娘であるレナ・グレース・シャーロット・フューリアスに送られた物。
名刀の類いではあるのだが、あくまでも儀礼用であり、特殊な能力は持ち合わせていない。また切れ味も並程度に収まっている為、攻めの武器としては扱い難さが目立つ品だろう。
だが、その一方で守りに関してはかなり厚く、いざという時の護身用としては最適と言える機能美を持っているのが特徴。特に細身ながら頑丈な護拳や、頑強かつ反りの浅い剣身は初心者でも相手の斬撃を受けやすい作りとなっており、帝国製らしい実用性の高さがうかがえる。
とはいえ、少女が持つにしては明らかに重く、また儀礼用にしては過剰なまでに守護の魔法や加護が施されている他、異様に高い魔術的拡張性の高さを持つ等、不可解かつ無駄な部分も多い。
あるいは、それこそがこの剣に込められた思いの証明なのだろうか?