「あ、燃えないゴミの袋なかったわ。買ってくる」「いってらー」(昨日)
そんな二人。
催眠術、なんてものがある。
現実的な話としては、精神がリラックスしている時に刷り込みをして、その人の意思を若干誘導する程度のもの。
フィクションではその人の意思を無視して行動を強制するとんでもない力として描かれるのだけれども、そんな事はまぁ無いわけだ。
と、思っていた。自分が『あ、催眠かけられてる』と自覚するまでは。
「うん、やはりおかしい。私はここまで甲斐甲斐しい女では無い筈だ」
弁当箱を風呂敷で包み、そこに保冷剤を入れる。そしてポットにスープを入れてしっかりと蓋をする。
暖かいスープをお弁当にできる現代日本のテクノロジーは素晴らしい。
そして、弁当と一緒にちょちょいと作った朝ごはんの味見をもう一度する。うん、美味しい。なんとなく買った高いお塩は、値段分のおいしさはあるようだ。『彼』は意外とこういうセンスがある。
「そろそろ起きてくれ、寝坊してしまうぞ」
「……あと5分」
「その言葉を現実で聞くとは思わなかったかな」
ねぼすけな『彼』。今日は叩き起こす必要はなかったらしい。生活リズムを守れない奴は肝心な時に寝坊する。かつての私のように。
彼と同居してからは比較的シャンとしているので、学生時代に遅刻だけで留年しかけた時よりはマシだろう。きっと。
「なるほど」
それはそれとして寝起きの顔に蒸しタオルを投げつける。「熱ッ⁉︎」という声が聞こえた。「朝ごはんが冷めてしまうぞ」と付け加えると渋々な彼はベッドから起き上がるのだった。
「やはりおかしい」
基本ものぐさな私の事だ。昼食はコンビニで買うし、朝食は食パンか食べないかになる筈だろう。同棲しているとしてもそこを遠慮する事はないだろうし。
『彼』のご飯を食べる姿はなかなかに好ましくはあるけれども。
と、ここまでなら私の気の迷いで変な考えが浮かんだだけ。
スマホで確認できる限りでは貯金などに妙な所はない。連帯保証人のサインなどもしていない。AVの撮影などに巻き込まれた訳でもない。保険の類はむしろ私が受取人になってすらいる。
つまりまとめると、一人暮らしの家に『彼』を住み着かせているだけだった。うん、客観的に見れば十分にヤバい。
「おはよう」
「うん、おはよう。コーヒーにはミルクを入れるかい?」
「砂糖も頼む」
「りょーかい」
トースト、サラダ、目玉焼きにウィンナー、あとは昨日の残りのスープを出す。スープはオニオンスープだ。昨今の値上がりの結果、カレー用野菜セットを買うとタマネギ以外の野菜が無料になるのだとか。
スーパーの野菜売り場の戦略に騙された私はそんなお得に見えるモノ釣られたのはいうまでもない。
「「頂きます」」
手を合わせて朝食を食べを始める。うん、美味しい。特にウィンナーが。
「今日のウィンナーは戦隊の奴なのか」
「良いじゃないか。私の趣味だけれど、普通に美味しいんだから」
「一つ一つが小さいんだよ……」
「あ、プリキュアの方が良かったかい?」と言えば「そういうことじゃねぇんだよなぁ……」とこぼしていた。
おかしい。彼は私につられて日曜朝の色々を見るようになっているのに。
テレビのニュースを流しながら朝食を食べる。つまらないニュースが流れ、上の方に表示される天気予報を記憶する。今日は一日天気が良いとのこと。夏場である以上熱さが辛いところではあるけれど、じめじめするよりは好きだ。
「「ごちそうさまでした」」
二人で分担して片付けをして、支度を整える。いつもの時間で、いつも通りに家を出られそうだ。
その時カレンダーが目に入る。すっかりと忘れていたらしい。
「そういえば、一つ聞いていいかな?」
「なんだ?」
「
『聞くべき事』を、聞く事を。
『彼』の表情は目に見えて青くなった。
私の勘違いだとかというオチはないらしい。
どうやら勘違いでは無いらしい。私がすっかりうっかり忘れていたのなら『彼』はツッコミを入れる筈だ。そうでなくてもこんな
私の妄想が当たったとは、驚くべき事もあるのだなぁ……
「なんで、そんな事を?」
「うん、まぁ君との出会いとかの色々を私は覚えていないようでな。そういうのを思い出そうとしていたら名前すら知らなかったんだ」
「……もう、無理なのか」
「家の中では『キミ』とかで通じるから全く気付かなかったよ。我ならがら鈍いとしか言いようがない」
そう話すと、彼の雰囲気が変わる。いつもはその後の記憶が曖昧になる。その事への違和感をカケラも持っていなかったのは催眠術的なパワーを使うからだろう。多分。
だが、それで誤魔化される訳にはいかない。私は普通に困っているのだから。
「ちょっとお高いホールケーキの割引に、カップルの名前が必要なのさ、カップル割引らしいよ」
そして、彼の空気が固まった。
「……は?」
「5年も一緒に居て名前すら聞こうとしなかったのは申し訳ないとは思うが、ね」
「そうでなく……俺はキミの心を踏み躙ったんだぞ?」
踏み躙られたのだろうか? 踏み躙られたのだろう、きっと。『彼』が言っているのだから。私には全く覚えはないが。
というか、一緒に過ごした記憶から考えるに彼からの迷惑くらいなら普通に引き受けて構わないとすら思っている。二日目くらいから。
「そういうウジウジしたのは帰ってからでいいだろうか?」
「えぇ……?」
「いや、電車の時間」
『彼』は全く腑に落ちてなさそうだが、仕方がない。
「それで、キミの名前は?」
バースデーケーキの予約画面を見せながら、私は『彼』に問いかけるのだった。
『彼』
催眠パワーであれやこれやしていた結果破滅しかけ、身一つで逃げ切り見ず知らずの女の所に転がり込んだ男。
現在は一般会社の営業。営業トークは並だが、高い伝達力で自社をアピールしての営業のためミスマッチが起こり辛く、社員からは一目置かれている。
なお、仕事で催眠パワーは使っていない。
知らない女の家に転がり込んだ結果二日で浄化された竿役のクズ。
良くも悪くも周囲の空気に染められやすい性質だった。
■□■
彼女
なんかへんなの。都合の良い女のフリをした何か。
『彼』は彼女の側で安心感を得られた。『彼』は彼女にふさわしい男になろうと『なんとなく』思えた。『彼』は『何故か』彼女の家を出ようなどとは思った事はなかった。
彼女が無意識で『確実に仕留められる』と判断し、彼の秘密が明かされて逃げる理由が消え去ったその日までは。